5 / 32

第五話 運命かまことか

「はい、こちらで大丈夫です」  市役所の戸籍課の女が能面のような顔で、医師に書いてもらった死亡診断書と一体となった用紙を受けとる。同時に死体火葬許可証が交付され、四角い紙を鳶色(とびいろ)の手提げにいれた。 「ありがとうございます」  頭を下げて、配偶者である裕は火葬に必要な書類をもらうと背を向けてため息を小さく漏らす。ガヤガヤと賑やかな市役所は平日なのに混み合っていた。転居、入籍、離婚、出生……多くの届出がだされるというのに裕の紙だけなぜか重く感じてしまう。  住民票手続き、世帯主変更、死亡届、火葬許可申請と、朝から手続きに忙しい。そして紙の重さも疲労とともに増していく。期限も一週間以内と日にちが限られ、やらなければ国から罰されてしまう。    ふと、唯一の番である夫が亡くなったという届け出が承認され、これから転々とハンコを押されながら担当部署をまわっていくんだなと想像して、夢心地にふわふわと足がすくむ。  番が死んだ。でも、実感がわかない。  なにかが解き放たれるわけでもなく、時間だけは過ぎていき、不安だけが胸の奥底からこみ上げる。  届出が受理されると、翌日各地方紙のお悔やみ欄に名前が掲載され、銀行員は目を通して朝からシステムに打ちこみ、死亡人の口座を凍結させる。だから、きょうの午後三時までに通帳と印鑑で現金をおろさないといけない。さもなければ、夫雅也に紐づいたクレジットカードの引き落としや光熱費を支払えなくなってしまう。    生活費に、月々の支払い。家は持ち家で名義を半分にして共有持分にしていたのが幸いだった。ローンも団体信用生命保険でなくなり、残額を払う恐れはないだろう。  きのうから、金のことばかり考えてしまうな……。  汚れて穴のあいた自分のスニーカーが目につく。  駆け落ち同然でこの街へやってきて、手を取りあって暮らし、子供二人も授かったのに、いまは先行きの不安ばかり頭に浮かぶ。  昨夜も雅也の死を悼むひまもないまま、子供たちの着替え袋に新しい服を放りこんで洗濯物をたたんだのが午前二時。三時間ほどの睡眠で体をやすめ、早朝に上司に電話し、弱々しい声と平謝りを繰り返して大袈裟に媚びながらも休みを取得した。  そしてお隣にいき、佐々木夫婦に頭を下げて、我が子の手をひいて保育園まで歩いた。寒空の下、二人はお手製の栄養満点な朝食を食べさせてもらい、父親不在も気づかず、無邪気に笑って手を振る。  佐々木夫婦は真っ青な裕の顔色に心配になり、朝食を誘ってくれたが申し訳ない気持ちで断った。  定年退職をして、暇をもてあましているんだと不満な顔ひとつしない老夫婦に何度も何度も頭を下げてしまう。感謝しきれないのに、心配ばかりかけてしまう自分がいた。  そうだ、帰りにお礼の菓子折りを買っていかないと。  世帯主変更の手続きも終わり、保育園について確認しようと裕は市役所のエレベーターボタンを押す。  ……はあ、いつも、罪悪感でいっぱいだな。そしてカネのことばかり。  保育料が変更にならないと、毎月十万ほどが口座から消えてしまう。給料が高いほど、保育料も高くなり、子供が増えると二倍になる。減るのは三人目からで、都市伝説に近い福利厚生システムなんてなかなか恩恵を受けられない。  アルファの夫が高額な給与を稼いでも、オメガが血反吐を吐きながらワンオペで子供をみる。稼いでも金は泡のように消えていく。お手伝いやヘルパーを使える年収層は三千万円クラス以上。豊洲あたりでもワンオペは増加し、難しい世の中なのだ。  産んでも、稼げ。そして働いて育てろなんて無謀だ。でも税金は払わなければならない。発情期に急かされるまま、子沢山で産んでも育てるのはオメガだ。休む暇もない毎日。夫が予防注射のスケジュール、病院、歯医者の手配までしてくれるわけがない。  ――ましてや、浮気なんて。 「待って! 危ない!」  エレベーターに足を踏み入れようとしたとき、顔面に痛みがはしった。 「いてぇっ!」 「うわあぁ! ごめんなさい! 大丈夫ですか?」  ちかちかと星が散らつく瞼をひらくと、大型犬のような青年が心配そうに顔を覗きこんでくる。そして、 「りん、ご?」  ほんのり甘い香りがして、意識が飛んだ。  

ともだちにシェアしよう!