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第六話 白羽の矢はいずこ※

『好きだ。好きなんだ。愛している』  整った顔立ちを近づけて、雅也は深いキスを落とす。幼稚園舎からエリート街道まっしぐら。最難関の国立大学である旧帝大卒、名前は東雲 雅也(しののめ まさや)。すらりと背が高く、彫りの深い甘い顔立ち。大手信託銀行の支店で営業に専念していた。  二人の出会いは五年前に遡る。最寄りのスタべでよく顔を合わせ、顔見知りから、友人へと発展し猛烈な雅也のアタックで付き合った。  順調にみえた交際は儚くも散ってしまう。オメガというバース性をもつ(ゆう)は親族全員がアルファである雅也の家族に受け入れられず、息子と別れろと迫られる。裕は身を引こうとして、別れようと雅也に伝えた。  頑として譲らない雅也は東雲家の猛反対を押し切って、自分の転勤とともに裕の手をひいて、誰も知らない土地で勝手に入籍届を出してしまう。その熱意に心を打たれてしまった。いま振り返れば、なんという過ち。文書偽造罪である。  こんなに愛してくれる人はいないと思った浅はかな考え。愛の言葉を信じていたかった若き自分をいまは殴って消し去りたいと裕は何度も思う。  オメガの再就職は難しかったが、なんとか新天地で中堅文具メーカーの営業事務という職にありつくことができた。裕は一年半働いて、順風満帆のような輝きのなか、章太郎(しょうたろう)を授かった。 『ゆう、一生大事にする。好きだ』  ああ、俺も好き。好き、すき。好きだよ。好きだけど、それどころじゃない。眠い。眠いんだ。寝させてくれ。新生児の一時間おきの授乳が終わったら、次は夜泣きで寝てないんだ。それに保育園のノートすら書いてないんだぜ?  睡眠は四時間しかない。目が覚めたら、朝ごはんから着替え、歯の仕上げ磨き、持ち物チェック、出発前についさっき変えたばかりのオムツをまたかえて、自分の身だしなみすら整えられない。保湿なんて甘いアロマなんかない、若草の匂いがするニぺアで十分だ。 (雅也は分かっていても、時間がないんだろ? 俺も時間なんてないんだぜ? でも家族は欲しかったんだ。後悔はしていない)  一人目の章太郎は発情期とともにすぐに授かった。嬉しさと感動、そして子育てに対する異様な漲る熱気。一生懸命、頼る人もいないなかで、夫婦で乗り切ったつもりだった。  そんななかで、オメガというバースによる果てしない悪循環は背後からじわじわと忍び寄る。帝王切開の傷口も塞がらないうちに無常にも発情期は早くもやってきて、雅也はしつこく性の営みをせまってきた。  まだ六ヶ月。ハイハイを覚えた赤子は夜泣きがピークに達し、一日数回の離乳食を求めてくる時期だ。何もしらない雅也は既製品を否定し、作らないくせに、できたての手作りを進めてくる。ブレンダーで飛び散るほうれん草は全然ペーストになんてならないし、懸命に作っても笑顔で床へ飛散して、後始末で終わる一日だってあるのに。  身も心も疲れ切った裕は、太腿に伸びてくる手を払えれば楽だった。だが、やりたくないとはっきり断わることもできず。寝かしつけが終わると、横たわる茂みに顔をよせた。  怒張している屹立を手と口で慰めてやる。舌先で鈴穴をこじあけ、赤黒い魔羅を吸うとぴくぴくと口腔で跳ねた。むせるような雄の匂いと、先走りの精に気持ち悪くなりながらも、夫である雅也は満足そうに喘ぎ声をもらしてやすやすと達する。  そして要求が段々とエスカレートし、とうとう、章太郎が一歳三か月のときに二人目を妊娠してしまう。まだ上の子を保育園に入れて数か月。様々なウィルスの洗礼を受けて、熱があると、頭を下げて退勤しては飛んで帰っていた頃だ。  嬉しい。家族が増える。でも、でも、自分しかいない……。  初めての我が子はよく熱を出し、中耳炎にもなった。小児科に耳鼻科、歯医者、皮膚科、病院探しだってままならない。それなのに、オメガのせいなのか、受胎は避けられない。  雅也は両手をあげて喜んだが、裕は胸がつぶれるような思いだった。また仕事を休んでしまう。せめて安定期に入るまでは隠しておきたい。  初期妊娠はつらい悪阻で始まり、トイレに吐いて出社し、また嘔吐を繰り返す。口を拭って、うがいをして、涙目でパソコンに向かい、昼休みはカロリーメイトを飲み込んで栄養補給を補う。そしてまた吐く。やめられない。いま辞めたら、二度とこっちには戻れないと必死だった。

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