7 / 32

第七話 恋には堕ちません

「あ、起きました?」  うっすらと視界がかすむ。白く無機質な天井とチカチカと微光を放つ蛍光灯がにじんで見える。二畳ほどのせまい室内に裕は白いシーツのうえでごろりと横たわっていた。横には、段ボール箱が山と積まれ、他にも備品などが所狭しと置かれていた。着ていた山鳩色(やまばといろ)のウルトラダウンは脱がされ、薄手の飴色のカーディガンに藍白(あいしろ)に染めたシャツはきっちりと着込んだままだ。それにしても、体が鉛になったように壁際に置かれたベッドから起き上がれない。  気持ちいい。このまま寝てたい。  うつらうつらと眠くなり瞼を閉じて、固いマットレスに体重を沈ませ、とろとろとした眠気に引きこまれる。久しぶりに静かな場所で寝れる。脇腹も蹴られないし、体を縦にして五センチの隙間に身を縮める必要もない。四肢を伸ばして、のびのびと横になるなんて何年ぶりなんだろう、この上ない幸せ。裕はふにゃふにゃと間抜けな顔で寝返りを打ってしまいそうになった。 「ね、ねむい……」 「もう少し眠っててもいいですよ? ああ、でも僕はそろそろ業務に戻らないと!」  ……業務にもどる?  裕は聞きなれない声に深い眠りの底からゆっくりと浮かび上がり、起き抜けのぼやけた顔で、ぱちぱちと目をしばたく。なんとなしに腕を上げて腕時計を目と鼻の先まで近づけると、すでに午後十二時を過ぎていた。 「やばい! 遅れる! 銀行に行かなきゃ! いたたたたッ!」  瞬時に飛び起きて、鈍い痛みが頭の後ろから足の裏まで走り、ぎしぎしと軋んで、眉をひそめてしまう。 「大丈夫ですか!? 僕がちゃんと前を見てないばっかりに、段ボールで押し潰しちゃったんです! すみません! ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 怪我してませんか?」 「けが?」  はたと、青年と視線がかち合う。深々と頭を下げて土下座せんばかりに平謝りして、長い背を折り曲げている。顔は不織布のマスクで覆われて、誰なのかさっぱり見当がつかない。誰だ。しらん。こんな奴しらん。自分よりも若そうだが、柔らかな髪を後ろに撫で付けた清潔感漂う青年に知り合いはいない。  そして、どうしてこうも、胸がざわつく?  気づくと呼吸は浅くなり、裕ははっとして、あわてふためいて視線を巡らせて、おいてあった手提げ鞄を探し求める。  そうだ! おれ……!  見慣れた袋が横にあったので手に取って、白のポーチを奥底からさぐり、即効型のシニスリンを急いで出し、震える指先で注射針を取りつけて空うちをした。ぴゅっと透明な液体が飛び出し、手の甲に水滴がつく。ベン後部にあるダイアルの数字を回し、カチカチと投与量最大値を目指して回し設定した。 「え! え? ち、ちょっと、ちょっと待ってください! いくらなんでもそれ、最大値ですって! 危険ですよ! いや、薬はだめですって! 薬はだめ」 「……くそ! 手元が狂うな。いいや、とりあえず……」  早くしないと発情してしまう。いやだ。いやだ。だめだ。だめ。自分の身は自分で守る。俺だけじゃないんだ。  滲んだ目蓋の裏に残された二人の笑顔が浮かんでしまう。 「ちょ、駄目ですって! あ、まって!」 「うるさい! こっちは二日目なんだよ! こうでもしなければ治まんないんだよ!」  男の手を振り払って、裕は腹部の皮膚を軽くつまむと針を刺す。先端のでっぱりを押して、大量の抑制剤を注入して体内に流しこむ。自分が発情期二日目なのを忘れ、薬を服用していなかった。自らが招いた失態ながら、口調が苛立ちを帯びる。 「……二日目? あの、大変失礼ですが、あなたはオメガなんですか?」 「そうだよ。オメガが珍しいか?」  どう見ても年下の他人に己のバース性を問われ、奥歯を嚙みしめてしまう。裕は二十八歳、夫の雅也は二つ上で三十歳。自分たちよりもみずみずしい若い雄は申し訳なさそうに微笑みかけ、悪気など感じさせない。裕は上半身を起こしたまま、怒りをこめた不躾な目で見つめ返す。 「いや、なんか、もっと、こう、か弱い……」 「あ?」  不意に、隠していた地が出てしまった。  悪かったな。昔はか弱かったよ。女のオメガよりも細くて、華奢だったわ!  睨めつける裕の身体は筋肉がほどよくつき、腕は丸太ん棒のように太くなり、大腿四頭筋については張りが出るほど逞しくなっていた。  それはそうだ。土日は電動チャリで三キロ走り回って、極寒の公園を梯子し、無邪気に走りまわる我が子を腰も下ろさず追いかける。帰宅すると立ちっぱなしで、修行僧のように家事育児を繰り返した賜物がここにあった。  補足するが、たまに電車で二人を連れて出かけると、下の千秋が寝てしまう。すると、最寄り駅までママチャリできたのでベビーカーもない。抱っこしかない。  抱っこも両手ではない。片手でもつ。赤子の尻をのせた腕を高々と上げ、十キロの重さを片手で支える。空いた右手で大量の荷物を肘にかけて上の子の幼い手を握って歩く。紫に腫れ上がる腕にはついたことのない筋肉が付着して、アルファよりも強靭な肉体に変化しつつある経産婦オメガは多数存在する。 「すっかりベータかと思いました……」 「あんたはアルファなの?」  男の胸元から垂れ下がっている赤い紐の先に名札がみえた。「木村 太郎(きむら たろう)」と大きく印字されて、こども青少年局 保育・教育運営課所属と小さく隅にかかれているのが目にはいる。 「ええ、そうです。僕はアルファなのですが、父がベータなので、よくベータっぽいと言われます」  なんだよ、ベータっぽいて。ベータを馬鹿にしてるのかよ。てへへと相手は頬をほんのり桃色に染めるが、冷ややかな視線しか送ることしかできない。 「あの……」 「なんだよ?」 「……結婚されてるんですよね?」  男の視線をたどると、毛布うえにおかれた左手の薬指に落ちていた。雅也お気に入りの有名ブランド。結婚式もせず、ハネムーンもなかったので指輪だけはと金を出し合って買った一粒ダイヤ。  何度も愛し合ったが、二人目が出来てからも雅也の性欲は変わらず、発情期になると毎晩といわず執拗に迫ってきた。そして限界を超えて、手を振り払って断る自分がいた。それから一年、東雲家に夫婦の営みはない。雅也は断られると横柄な態度で裕に当たり散らし、とうとう同僚の百合子と関係を持った。番となったアルファの体液や精液を定期的に摂取しないオメガは発情期が不安定になる。ホルモンが安定せず、頭が狂いそうな日々は薬でごまかす毎日だった。許せない。許せないけど、要因を作ったのは自分だ。 「……してるよ」 「そ、ですよね……」  指輪ひとつで鼠の尻尾のような嫌な記憶がぼやけた頭に線を引いた。チッチッと秒針の音が耳をかすめて顔をあげる。壁時計が目に入り、裕は瞳を大きく見開いた。 「やばい! もう一時近くじゃねぇか!?」 「え?」 「……とりあえず、礼は言う。ありがとう。俺、用事があるから行くわ。じゃ、さようなら」 「え、でも……」  裕は、いそいそと起き上がり、足を伸ばしてベットから降りる。脇に掛けて合ったダウンを着込んで、手提げを肩にかけ、颯爽と足を運ぶが、ふと入口前で足をとめた。 「あ、運んでくれてありがとう。重かっただろ? 忙しいなか、迷惑かけてごめんな」  誰にでも謝ってしまうのは、しみついた習性だった。

ともだちにシェアしよう!