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第九話 どどめ色の友垣

「わからん……」  東雲 裕(しののめ ゆう)は対面キッチンに面した十畳ほどのリビングにある椅子にぐったりと腰掛けて、一人悶々と悩んでいた。  佐々木夫婦は気を利かせ、最後の夜は雅也と二人で過ごしてお別れをしてあげて……と、寝かしつけまえの兄妹を預かってくれた。裕は別離の涙を流すわけでもなく、手を合わせて短い挨拶をしただけ。ほのかに息づいている行灯の消えいるような灯影がみえて、線香の匂いがぷうんと鼻につく。  葬儀は業者と相談して、身内中心の家族葬にした。通夜は行わず、葬儀・告別式・火葬を一日で行う「一日葬」だ。知り合いも少ない土地で、大きな葬式をしても参列者も少なく決まりが悪い。リビング横の四畳ほどの洋室に業者が祭壇を設置して遺体を安置し、明日には出棺と火葬を行う予定だ。  裕は夫の遺体に背を向けて、無造作に置かれた市役所からもらった書類に目を通した。が、専門用語がやたらと多い文章に容易に理解が追いつかない。ちなみに幼い兄妹がいる前でペンと紙を出したら阿鼻叫喚である。お絵かきしたいとわめき散らして書類に殴り書きが作成される。なので、いましかできない理由がここにある。  配偶者が亡くなると、自治体によるが死亡退職金、遺族基礎年金、遺族厚生年金、児童手当など合わせて年間二百万円ほどの手当が支給される。  なお、東雲 裕の前年の所得は時短勤務で手取り二十五万、年収三百万円くらいなので、所得制限などはかからない。  裕は出口の見えない悩みに髪を乱し、身がちぎれるほど身悶えしそうになる。ぶつぶつと独り言をつぶやいては頭を抱える。 「複雑で難しいな、くそ……! 遺族厚生年金は、再婚や事実婚がない限り残された配偶者が死ぬまで一生涯もらえる。おお! これは有り難いな! ん? 児童手当と児童扶養手当は別制度だから、支給条件が違うのか? 児童扶養のほうが、厳しい所得制限があって、百万を超えるとだめっぽい。ふむふむ。あと児童扶養手当は遺族年金とは一緒にもらえない……。なるほど、うちは支給対象外だな」  配偶者が亡くなったので忌引き休暇は十日。ひどく消沈したような暗く重い声の裕に、直属の上司は気にしなくていいわよ、無理をしないでね、と励ましの言葉をかけてくれた。彼女も双子のワンオペママで頭が上がらない屈強な戦士だ。  人に恵まれてるんだ。そして、なんとか現金は工面できた……。  ぎりぎり、銀行にかけつけて、保管していた通帳と印鑑で満期を過ぎた定期は解約できた。満期前のものは本人確認が必要となるので諦めたが、解約されてない定期は五百万円程度だった。こちらは相続税がふりかかり、税の対象となってしまう。  いつにない真剣な眼差しで、必要な書類に漏れがないか、ほかに受けられる制度はあるのか、丹念に調べる。自分で調べて申請しない限り、だれも教えてなんてくれない。世の中はそんなものだ。  ――保険の書類は送付できた。  保険金は担当者に電話して、書類をすぐに取り寄せようとすると夕方に玄関まで届けにきてくれた。必要事項を記入して死亡診断書のコピーを送付すれば、書類が保険会社に到着した日の翌日から起算して五営業日には振り込まれる。雅也に月々三万程度の保険金をかけてよかった。学資保険は継続して自分が払うようにと変更届も完了した。  あとは、墓だ。  実は裕、雅也の家の住所を知らない。雅也の母親である雅子(まさこ)に会ったのは都内の高級ホテルのレストランのみ。ネットで調べて、東雲グループの本社に電話したが不審人物のように扱われて取り次いでもらえなかった。東雲家との連絡は絶たれており、知る術もない。  しかしながら、誰も知らない墓地に納骨して管理費を支払い続けるのもどうしたものか。墓事情を調べたら、相場は永代使用料が三十万円で、管理費が三千円。この縁もゆかりもない地に墓を買って、雅也を入れていいものか、ああでもないこうでもないと頭を悩ます始末だった。  おまえ、墓どうする? なんて働きざかりの男に突っ込んだ質問を生前にできるはずがない。ましてや夫。いや、無理だろ。  そしてさらなる問題は相続。  十ヶ月以内に税務署に申告し、支払わなければならない。雅也の定期、預貯金、個人年金はほぼ目星がついた。膨大な貯蓄預金を持っていないとみて安心している自分がいる。うん、あと財産はない、筈だ。隠し口座なんて持っていなければ大丈夫。そして借金がないかも確認しておく。もしあれば相続は放棄して、債権ごとなくしてやろうと思っていた。  金、かね、かね、カネ。いや、金のことを考えていなければ、位牌を投げて割ってしまいそうだった。二人の子供を残して、バースの本能に囚われて、若い女のオメガに精をだして亡くなった夫。最低で愚劣なやつ。死んで当然だと声高に叫びたかった。真夜中の木造建売住宅で発狂したら、引っ越しが必要になるのでぐっと耐える。  結局のところ、楽になったのは洗い物と洗濯物が減っただけかもしれない。最低だが、それすらありがたいなと裕は思う。  ぎゅっとこぶしを握ると、突如、目の前のスマホがぶるぶると振動した。 「……はい、東雲です」 『夜分に申し訳ありません。東雲くんの上司の川村と申します。この度はご愁傷様でした……』  ご愁傷様か。ほんとうだよな。  まるで自分の人生に対して言われているように、裕はぺたんと座ったまま、ちらりと白い遺体に視線を送る。ご愁傷さまだってさ、雅也。 「生前はお世話になりました。色々と忙しいなか、ありがとうございます。それで、なにか急用とかでしょうか……?」    ふいに、矢のように進む時計の針を探るような目つきでみる。時間は午後二十時を過ぎている。 『あ、いや、総務からあなたの番号を教えてもらいましてね。その、えっと、少し耳にいれて欲しいことがありまして……』 「はあ……」  そんな事などあったか? あ、そういえば雅也の奴、財形もやっていたなと思い巡らして、マルサの女のように相続税対象に加算してしまう。 『あの、百合子くんのことなんです』  ぼんやりと、乱雑に並んだ絵本へ視線を泳がせながら、わんわん泣いていた女の姿が思い浮かぶ。ピンクベージュのスーツを華やかに着込んで、七センチのピンヒールが女っぽさを引き立てていた百合子。その姿は対照的すぎて、落ち着いたら慰謝料でもなんでもふっかけてやろうかとすら思った。 「ええ、それが?」 『あの、うーん、なんというか、それがですね、東雲くんの労災がね、おりるかどうか、内輪で揉めているんですよ』 「え? あの、えっと、え? ちょっと、待ってください。どういうことですか?」  ぞくぞくするほどの嫌な気分に襲われ、ばくばくと心臓が痛い。曲げた指先が震えて、手のひらからじわりと汗が滲んだ。 『うーん、あのですね、東雲くんが職務を放棄して、その、言いにくいのですが、プライベートなことをしていたと認識されれば、労災は難しいんじゃないか? という噂がでておりまして、その……』    うーんってなんだよ、うーんって。人が死んでるんだぞ? 「穏便にことを運んで欲しいと……?」 『そ、そうなんですよ。彼女も専務のお嬢さんなので、訴えなんて起こさせられたら大変でして……。いや、あの、なんというか、昨今、いろんなウィルスが流行ってるからそこでディスタンスをとって議事録を書いていたと思うなんて、僕は言ったんですけどね……、その慰謝料なんて言葉がでると……』  絞ったような苦しい言い訳に、裕は眉間に縦皺をつくる。脅しだ。ふざけんな。でも、不倫相手との先のみえない長い裁判よりもさっさと労災認定をうけて、遺族葬金と埋葬代を粛々と受けとる方が利口だ。  百合子との証拠は沢山ある。あるが、不倫相手の慰謝料請求は百合子の支払い能力を考慮してもせいぜい百万円程度。  どちらかをとるなんて、考える必要もない。 「わかりました。子供たちもおりますし、こちらとしては労災で進めて頂ければ幸いです」  おおいがたい屈辱が頬を痙攣させ、雅也の遺体にむかって深々と頭を下げてしまう。『あ、うん、そうですか』とやや明るい声をとりなして川村は電話を切った。  クソが!  裕はスマホを床に散らばる服へ投げつけた。  仕事中に浮気なんてするなよ!  こうなるなら、早くに百合子へ内容証明書を送りつけてやればよかった!   黙って指を咥えてろという暗黙の了解に腹が立つ。いや、まて、目先のことよりも金だ。これから学資保険、月々の生活費、習い事、固定資産税の支払いなど全て自分一人にのしかかってくる。そっちのほうが重い。  考えるだけで、目に見えないものに押しつぶされそうな不安に胃液が吐きそうなくらい奥からこみあげてくる。胸の中が空っぽになるような深いため息が口から抜けていった。  突然、玄関の呼び鈴が鳴る。 「だれだ?」  こんな夜中に訪れる客なんていない。裕は言いようもない恐怖にとらわれる。まさか、雅也? いや、死んだはず。  裕はおそるおそる椅子をきしませて立ちあがり、インターホンの画面ボタンを押す。ぱっとライトが灯り、背の高い、爽やかな青年が橙色に微笑んで、白い保存容器らしきものを抱えているのがみえた。 「はい?」 『あ、あの、夜分遅くにごめんなさい。隣の佐々木の孫で、祖母からご飯をおすそわけしに来ました。な、なにも召し上がってないと伺ってて……』 「佐々木さんのお孫さん?」  たしか子供が一人いたと言っていた。 『そうです。最近東京から戻ってきて、木村太郎と申します……』  んん? 太郎? どっかで訊いたな? 政治家か? 誰もいない玄関に丁寧に頭を下げ、画面奥からは白息がみえた。その真面目な誠実さに思わず裕の強張った頬が綻んだ。 「はは、すみません、すぐにでますね」 『は、はい! ……!?』  玄関の扉をひらいた瞬間、男は固まって裕の顔を目と鼻の先まで寄せて凝視する。ゆっくりとタッパーを渡し、裕は両手で受け取って見返すが、男は微動だにせずじっと佇んだままだ。 「……え?」 「ふあああああああああああ! う、ん、めい! あの、あの、ああの、好きです。好きです! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はあ、あ、あ、あ、あの、あの、結婚してください!」  裕はタッパーごと抱き締められる。 「うわああああああああ!」  夫以外の逞しい腕に包まれ、裕は背筋をせりあがる悪寒が全身を駆けまわって、琺瑯のタッパーごと持ち上げる。そして、凶器のようにして太郎の顎を殴った。 「ふぐぅ!」

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