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第十話 蟷螂の斧

「本当にすいません。ご主人亡くなられたんですね……」  線香に火をつけて仏壇へ立てると、男は雅也の遺影に手を合わせる。  雅也の写真は一歳の千秋の誕生日にフォトスタジオで撮影したものを切りとった。子供を膝上にのせ、艶然たるほほえみが自然と浮かんで、凛々しい顔が際立ってる。いやがる雅也を説得して予約してよかった。裕は写真から目を背け、不愛想に声をかける。 「あんた、初対面だよな?」  しょんぼりと肩を落として、大人しく座る太郎がふりむく。頭から爪先までをじろじろと視線を這わせ、顎に目がいって裕は顔をしかめて舌打ちをうってしまう。感情にまかせて殴ったあと、隣人から苦情が来る前に太郎を家に連れ込んで、咄嗟に家のなかへと迎え入れてしまったのだ。赤みを帯びた顎をさすりながら、太郎は照れくさそうに目をそらした。  その姿はまるで恋する乙女のようにみえ、ますます不安が募る。  雅也ではない男がこの家にいる。いつもとちがう家の雰囲気がして、ポッカリと穴があいたように居心地が悪い。 「市役所でお昼に会いました……」  太郎はばつが悪そうに笑い、声にならない声でつぶやく。いや、だれだよ、こんな背がデカイやつ……。  あ、いたわ。 「あの失礼なアルファか。思い出した」 「ほ、本当ですか!? わー、嬉しいです! まさかお隣さんだなんて、なんだか運命的ですね! うん、これはもう運命です。そう、運命ですよ。うん、好きです。あ、いっちゃった。えへへ。そうだ、怪我はないですか? 体調は?」  太郎は頬を桃色に染めると、頭を掻いて意味ありげに顔を見合わせる。所在なさげに好人物そうな温和な微笑を浮かべ、雅也とはちがう、柔らかな雰囲気にお人好しという言葉が似合いそうな男だな、と裕は思った。が、先ほどの惨事で変質者としか思えなかった。  なんだ、こいつ。距離がちかい。  はやく帰って欲しい。しかし、本当に佐々木さんの孫っぽいな……。母方の子供だから姓がちがうのか?  佐々木夫婦からの差し入れはお稲荷さんだった。じっくりと煮含めた油揚げは甘辛味でジュワっとしてそうで、ごまと生姜を混ぜこんで、くるっと包んで白の琺瑯に美しく整列していた。以前作りすぎたと言って、同じものを頂いた記憶がある。  それよりも、裕は昼の立ち食い蕎麦からなにも食べておらず、容器の蓋を開けるや否や、佐々木夫婦に申し訳なさとほっとした気分を交互に感じてしまった。有難い。さりげない心遣いと優しさが身に浸みる。本当に佐々木夫婦には頭が上がらない。 「体は大丈夫だよ。それより、明日土曜日なんだから、もう帰ったほうがいいんじゃないのか?」  なぜだろう、第一印象が最悪なので、言葉を選ばなくてすむ。雅也なら|棘《とげ》のある言い方を少しでもしたら直ぐに面倒くさい喧嘩に発展してしまうのに。裕は太郎に、心の底から空気をよんで帰れと不穏な空気を漂わせた。 「いやいやいやいや、明日は休みなので大丈夫です!」  が、効果なしだ。 「でも、佐々木さんたち心配してんじゃない?」 「いやいや、そんなことないです! 祖父母にちゃんと挨拶するよう言われました!」  いやいや、佐々木さん、確か二人にしてあげてねって言ってたぜ? 夫がそこで死んでるんですけど? なんで遅くなっても大丈夫って顔してんだよ。こいつの神経はどこいったの? 無神経なの? シナプスは全て消滅したのか? まあ、いいや、もう、めんどせぇ。  どうしたらいいか分からない、という困惑の色を顔に浮かべて裕は腰をあげた。 「……じゃ、酒でも飲む?」 「はい! 飲みます!」  夫の遺体が目前にあるのに、太郎は輝いた顔で元気よく返事をする。あまりの緊張のなさに、裕はつい笑いそうになった。なんなんだ、こいつは。  座りこんでいる太郎から離れて、台所の隅にある冷蔵庫からチューハイを二本取りだした。リビングにある子供用チェアを脇へよせ、雅也の椅子を手前にだすと、太郎に腰を下ろすよう促す。  酒はウオッカベースなので度数も九度と高いやつしかない。雅也が時々飲んでは、裕に絡みついて寝てしまうことを思い出した。 「はい、これ。グラスはいる? 言っておくけど、酔って変なことをしたら殴るだけじゃ済まないからな」 「はい! 手はだしません!」  まぁ、夫が死んで、殺人罪で殺す事なんてしないし、こんな経産婦オメガに性的興奮なぞ沸かないだろう。裕は太郎の隣に腰掛けると、乱雑に並べられた書類が目に入った。 「悪い、片付けてなかったな」 「整頓しておきましょうか?」 「いや、大丈夫。俺がやるよ。しかし、結婚してから大黒柱がなくなると残された家族って大変だな。手続きに申請、はては相続税もあるし、頭がまわんないよ」  おまけに不倫相手もいるけどな、とは口に出さないでおいた。雅也の会社にも菓子折りを持って伺わなければならない。百合子にも頭下げるなんて死にたくなる。でも、世間体と家族の為にも耐えるしかない。  裕は山積みになっていた紙をそろえて、透明ファイルへしまい込むと、無駄な雑念がまわって胸がおしつぶされるように苦しくなった。やるせない。ただそれだけだ。しんみりした顔で整えると、太郎は神妙な面持ちをした。 「あの、相続は税理士さんとかに依頼しました?」 「税理士?」  裕の顔が怪訝な顔つきに変わり、太郎は続ける。 「そうです、相続関係は専門家をいれた方がいいですよ。あ、失礼ですが、この家の名義はご主人ですか?」 「……いや、おれと夫で一緒に連帯債務型で住宅ローンを支払っていたけど、共有名義だし、チャラになるんじゃないの?」  仕事を辞めるつもりもなかったので、夫が一人でローンを負担するより二人で負担して互いの会社からローン控除を受けたほうがよいと不動産会社に勧められた。まさかすぐに相続税に直面するなんて思わなかったが、相続税の節税になる旨は記憶に残っている。 「そうなると、ご主人分の支払い分はなくなりますけど、貴方の支払い分が残っているはずです。主債務者が返済すべき住宅ローン|債務《さいむ》を連帯債務者が代わりに返済した場合、主債務者の債務がなくなったのは『もう一方からの経済的利益の移転があったから』と見なされて、贈与の対象になる場合もあります。それに保険金も相続税がかかりますし……」 「そうなの!?」 「そうです。死亡保険金は、「みなし相続財産」として、遺産の総額に含められます。あと「死亡保険金の非課税」という税制上の特典がありますから、ちゃんと調べて納税した方がいいですよ。やみくもに一人で抱えるとかえって多くの相続税を払ったりして、トラブルに発展してしまうケースがあるので、僕としては専門家を交えるのをおすすめします」 「そうなの!?」  どっかのCMみたいな台詞が、裕の口から出てしまう。知らなかった。いや、専門用語すぎて、どこから理解していいものか分からない。 「よかったら、知り合いがいるので紹介しましょうか?」 「え、いいの?」 「ええ、その方が絶対安心です」  急に頼りになる男にみえた太郎という男はてへへと照れながら言った。全然可愛くない。むしろ苛つくが、いい奴なのはわかった。 「あんた、市役所のまえに何かやってたの?」 「あ、僕は以前、民間の法務部に勤めていました。法学部だったし、こっちの知り合いも多いんです」 「へぇ、そうなんだ」 「あの、だから……」  もじもじと柔らかな栗色の髪を掻きながら、恥じらって微笑む。 「だから?」  ぐぴっとチューハイを飲んで、妙に納得した顔で太郎に視線を投げた。太郎はごそごそと|朽葉色《くちばいろ》のパンツから黒のスマホを取り出す。 「連絡先、交換したいです……」 「は?」 「あ、あの、お隣として今後如何なるときも支え合っていかなければならないと思うんです。勿論、僕はいつでも力になりたいなって思ってまして、その、えっと、なんでもしますから、連絡先交換させてください!」  土下座にちかい懇願。  太郎はテーブルに頭をこすりつけて、目に涙をためて哀願した。  え? まって、最後にお願いになってないか? ほんとうに佐々木さんの孫なの? 必死すぎないか? 「……べつに」  と、言いかけたときにチャイムが鳴り響いて、二人の沈黙をすぐに破った。 「わぁ、おばあちゃん!」  太郎は深々下げた頭を起こして、はっとする。  裕はインターホンで澄江を確認して、玄関の扉をノブを回してひらくと、佐々木家の妻、こと澄江(すみえ)はにこにこと裕の背後にいる太郎に視線を流して目を細める。 「あらあら、やっぱり太郎ちゃんここにいたのね。ごめんなさいね。仲良くなったの? でも長居しちゃだめよ? 本当に今回は大変だったわね。雅也くんもまだ若いのに、悔やまれるわ……。あ、いけない、それで大変申し訳ないのだけど、夫がね、さっき階段から足を滑らせちゃって、明日の葬儀の参列なんだけど、難しそうなの……」  「ごめんなさいね」と顔を曇らせていう澄江の声に、太郎は驚いた表情で目を見開いて、後ろから突拍子ない声を放つ。 「おじいちゃん、大丈夫なの!?」 「ええ、ちょっと捻ったみたいだから心配はないのよ。でも、朝から病院に行こうと思ってね。それで、あの人を一人にできないから、裕ちゃん、悪いんだけど、明日の葬儀、代わりに太郎ちゃんを行かせてもいいかしら?」 「いや、それは……」  俺一人で十分ですから、と言いかける前に太郎が大きな声で返事をした。 「うん、わかった。裕さん、明日はよろしくね!」  背後で喜々としている太郎。勘弁してほしい。しかも、名前を覚えたようだ。太郎が喜ぶほど、不吉な予感が裕の胸中に広がってしまう。  別に葬儀場なんて一人でもやってけるさ、ここで頼ってもまた……。 「あの……」 「大人一人に子供二人でしょ? 子守り役だと思っていっぱい使ってあげて。本当にごめんなさいね」 「はぁ……」  澄江の悲しみがこもった眼差しを向けられると、むげに断ることもできない。裕は太郎と子供たちを連れて、早朝から葬儀場へタクシーを飛ばす。  そして、東雲 雅子(しののめ まさこ)と五年ぶりに再会する。

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