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第十一話 一雲と誘い水
『男のオメガなんて、汚らわしい』
雅也の母、東雲 雅子 の声が耳に突き刺さる。あれは雅也に家族を紹介したいと言われ、連れられてきたホテルのラウンジ。
裕は身頃と襟の色が異なるクレリックシャツにビジネススーツを合わせて色味が少ない、できるだけ落ち着いた雰囲気を心がけた。鏡のようによく磨かれた窓からは広大な芝生と、木々の葉が濡れたように色づいてみえた気がする。
典雅な香りを放つ雅子をまえにして、裕は心拍数があがっていつにない緊張をしいられる。
それなのに、突然、身も凍るような寒さを感じ、氷が顔面から冷水とともに滴りおちた。頭から冷水をかぶって、濡れ鼠のような裕は茫然と宙をみつめた。頭上からは侮蔑ともいえる冷ややかな視線を注がれ、歓迎されてないことをやっと知る。
……あれ? どうして?
『母さん! 裕になんてことをするんだ! 失礼じゃないか!』
雅也がものすごい形相で怒り、雅子は不快そうに眉をひそめて、グラスをテーブルに置く。
『雅也、よくお聞きなさい。男のオメガなんて生殖行為しか頭にない虫よ。貴方を不幸にするわ』
『やめろ! 裕は人間だ!』
『あら、男のオメガが普通に生きられて?』
叱咤するような鋭い雅子の声が耳のなかで響く。
そうだ。普通になんて生きてこれたか?
男のオメガだというだけで、堪えがたい侮辱に忍ぶ毎日だった。
小さく頭を下げると、アルファやベータの若い社員からも、うんざりしたように舌打ちのような音を立てられる。おまえはいいな、早く上がれて。そんなどす黒い感情が聞こえる。一生懸命仕事に身を入れても、与えられた業務すらままならない。いや、できるかどうかも疑わしいと思われている。仕事を早く片付けても、保育園からの電話で穴をあけてしまう。実力すら出せずに、頑張れという夫の言葉が追い討ちをかけるように辛かった。ベータの同僚ですら、オメガはいつだって大変だなと冷笑に似た笑いをする。
『アルファもベータも、オメガも変わらない。裕、大丈夫だ。俺がおまえを幸せにする』
……じゃあ、オムツぐらいかえろや!
そんな夢をみて、裕は目覚めた。
◇◇
葬儀場に到着するなり、一歳の千秋の尻から異臭を放っていることに気づく。太郎に上の子を預けて、急いで多目的トイレに駆け込む。息をつくひまもない。慌ただしく、裕はぐっしょりと濡れたオムツを外して、おしりふきをだした。汚れを綺麗さっぱり拭きとると纏めて包み、家に持ち帰って捨てる為に袋を二重にして、匂いを食い止める。
千秋も満足げな笑いを浮かべ、裕はほっとして小さな体を起こして抱っこする。
「あ、裕さん、受付は済ませておきました。待合室こっちみたいです」
トイレから出ると、太郎が章太郎の手をひいて、ひょっこり顔を出した。
「わぁあ!? びっくりした。……あ、うん。ありがとう。悪いな」
「いえいえ、何でもしますから」
……こいつ、案外いい奴なのかもな。
昨夜、太郎はあのまま佐々木夫婦の妻、澄江に連れられ、翌日に喪服姿で子供たちとともに迎えに来てくれた。
いつもなら忙しく動き回る朝。その日だけはひっそりと静まり返り、家族三人で手を合わせて、雅也との最後の時間を過ごした。
「おとーさんねてるの?」と困った顔で言う三歳の章太郎。「ねんね、ねんね」と覚えたばかりで指差しをする一歳の千秋。このまま記憶として残らないんだろうなと思いながらも微笑んで二人を抱きしめる。雅也は気持ちよさそうに眠って、雪のような白い花に包まれていた。左手には指輪がはめられ、好きだった楽譜や本、家族写真なども副葬品として入れてやった。
早朝八時。涙を流すにはまだ早く、喪主である裕はこみ上げてくる感情に耐えた。ありがとう。安らかに眠ってくれ。でも、許せない、地獄に堕ちてくれと雑念がぐるぐると回る。
太郎は何も言わずに、大きな身体を隅において、じっと東雲家の別れの時間をぼんやりと視線を注いでいた。
……怪しかったけど、なんにも、訊かないし。
ただ傍にいて、手伝う。太郎はさりげない動きで子供達をみてくれていた。
「オムツですか? 言ってくれればやりますよ」
「うん、朝してなかったからさ。でも、千秋は女の子だから俺じゃなきゃだめ。他の奴にはさせらんない」
といっても、雅也もうんちは変えてくれなかった。オムツはおしっこのみ。我が子のうんちなんて、炊き立てのご飯を少しきつくしただけなのに、やろうとはしなかった。アルファの優秀な頭脳はそこには生かされないようだ。
裕たちは待合室へ足を運んで、長い廊下を歩いた。左手のガラス窓面から茶褐色に枯れたくぬぎの葉がかさかさと揺れて、灰鼠色の冬空がみえる。冷たい冬がくるたびにこうして、雅也を思い出そうとするのか。三回忌には子供たちも大きくなってる。
待合室へ入ると、子供たちはきゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐ。
「こら、静かにしなさい。シールあげるから、貼ったら?」
「電車のシールがいい!」
「シール! シール、わんわん!」
宥めるように優しく言って、腰を下ろす。二人はじゃれ合いながらも、シールの絵本を出すと夢中になって遊びはじめる。貼ったり、取ったりと忙しい。喧嘩へ勃発しないよう目を細めながらその光景を眺める。
隣ではほかの遺族がガヤガヤと集まっていた。みな、肩を落として悲しみが目に宿る。名前をみると「山口サチ」と老人のようだ。「婆ちゃんも幸せだったなぁ」という声が壁ひとつ挟んで聞こえてきた。
雅也の寿命はいくつだったんだろう。八十歳? それとも百歳か? まだ三十歳なんて、若すぎるよな。不意にその年齢に胸が締めつけられる。もし俺だったら、あいつ、礼服の場所分かったかな? 子供達二人も連れて、ここに来れたか? 多分無理だ。予防注射も連れて行ったことがない、雅也。問診票に体温計、泣きわめく我が子を一人で二人を看る。アルファでもむりだ。
でも、早い。はやすぎるな、雅也……。
ぼうっと黄ばんだ壁を眺める裕に太郎が声をかける。
「裕さん? お茶を入れたのでどうぞ」
「ありがとう。時間、何時だっけ?」
「半ですね。呼ばれたら、ご遺体に挨拶して、火葬で、また一時間ここで待つようです」
時間は午前十時。保育園で昼ごはんは午前十一時に食べているようなので、子供たちはお腹が空いてしまうころ。昼食用にと、澄江がおにぎりを作って太郎に手渡してくれたので、それを火葬中に食べる予定だ。
「じゃあ、煎餅でも食べて待つか」
ごそごそと裕は大きなバックから子供用のせんべいをだす。なかにはおやつ、オムツ、着替え、水筒二つ、タオル、絵本がはいっている。自分一人なら数珠だけですむのに、子連れの外出は葬式でも荷物が多い。
「おやつ! わーい!」
「まんま! まんま!」
二人が無邪気にわらって、出てきたお菓子をパクつく。思わず微笑んでしまい、小さな傷心が薄れそうだ。
「裕さんも、お茶飲んでください。冷めちゃったから、いま温かいのを出しますね」
「そのままで大丈夫。ありがとう。きみがいてくれて助かったよ」
手前に出されていた緑茶を口に含む。苦味が喉を通って、胃に沁みた。太郎がいなかったら、ずっと緊張していたかもしれない。子供が怪我をしないように、そして誰にも迷惑かけないように糸はぴんと張ったまま雅也を見送っていたかもしれない。
「……あの」
「ん?」
「いや、なんでもないです」
隣の親族がどやどやと出て行く。お別れらしい。いまでも泣きだしそうに張りつめた表情をする男、切なげな声で故人の思い出を語る女。世代は様々だった。愛されているんだとわかる。自分たちはどう映ったのだろう。家族三人に付き添い一人だけの侘しさ。
「気になる? 俺たちしかいないの?」
「……少し。いえ、話さなくとも大丈夫です」
「あはは、いいよ。俺と雅也はさ、結婚を反対されてたんだ。だから、親の連絡先もわからなくてね」
「反対ですか……」
「そう、駆け落ち。だめだな、そういうの。家族が増えて一人前に頑張ってきたつもりだけど、だめだ。最後ぐらいちゃんと見送ってあげなきゃいけない。それすら出来ないんだから、反対されて当然だ」
雅也も必死だった。アルファとして生まれ、家族を守る為にはたらく。そんな男だった気がする。
……もっと俺に力があれば良かったのか。
「東雲さま、準備が整いました」
顔を上げると、名前を呼ばれた。
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