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第十九話 孤塁を守る味方

 ……従属した犬か。  狭いエレベーターがゆっくりと上昇し、がくんと停止する。きいきいと痛ましい床を軋ませて、なんとなく太郎の顔を思い浮かべた。  あいつ、来るたびに尻尾を振って、駆けよってくるよな。  本気で運命の番とか思ってるのか?  ()して、自分は運命という強い絆を感じてない。むしろ、太郎を見ると胸が(うず)くような痛ましさを感じてしまう。雅也をそんな目で見ていた当時の自分を見ているようで、胸が苦しくなる。  ……所詮、愛と幸せは違う。いまだけだ。  事務所らしき場所に到着し、裕は悶々としながら、事務所の呼び鈴を押した。 「はい、森事務所です」  すぐに、低く凛とした声が響いた。 「あの、東雲です。すみません、少し遅れました」  右脇にあるインタホーンに、申し訳なさそうな表情で伝えると、ドアが勢いよく開いて、事務所から慌てた様子で男が出てきた。 「ああ、お気になさらず。僕だって……、うわ! さっきのハムカーくん!」 「あ……」  二人は顔を見合わせて、闇討ちをくらったような目をした。電車でぶつかってきた変な紳士。裕が驚いて口を半開きにしていると、男は柔らかく微笑んだ。 「そうか、君が太郎くんの紹介の人か。どうぞ中へ入って」 「はい」 「はは、僕の机だけ汚いんだ。また佐藤くんに怒られちゃうな」 「はぁ……」 「太郎くんの熱意あるお願いに負けちゃったんだ。散らかってるけど気にしないでね」 「あ、はい」  なんだ? 熱意あるお願いって。  怪訝そうな顔で足を踏み入れると、十坪ほどの広さの事務所に通される。机が大小と二つあり、奥の広い机は書類やファイルが散らばり、もう一つは隅々まできちんと整頓が行き届いていた。裕は出入口手前にある天井まで仕切られている個室へ案内された。 「面談室は綺麗だね。うん、ここで待っててくれるかな。さっきの人身事故で、みんな出払ってていないんだ。悪いね」  四脚ある簡易椅子の一つに腰掛けると、森は慌てて、書類を取りに戻ると言って姿を消す。裕はきょろきょろと辺りを見渡すと、机の上に何冊か重なってファイルが置いてあった。頭上を見上げると、電灯が穏やかな光を放って、室内を明るく照らしていた。観葉植物も置かれており、狭いながらも内装は落ち着いた雰囲気に包まれている。  ……大袈裟なのかな、遺品整理ごときに弁護士なんて。  弁護士という、堅苦しい言葉にどうしても尻込みしてしまう。調べてみたが、しきりに首をひねって終わった。とりあえず分かったのは、あとで高額の資産が発覚すると、追納する相続税額も多額になる。申告をやり直した場合、納付する相続税だけでなく、延滞税、過少申告加算税も納めなければならない可能性もあった。  専門書も買って読んだが、デジタル遺品は法的にも未開な部分が多く、一人で解決するには思うほど簡単ではないのだけはわかった。 「くそ、不安ばかりだ」 「不安なの?」 「うわああああ!」  ぽつりと呟くと、森がにっと笑いながら目の前に姿を現す。優雅な足取りで、裕の前に立つと名刺を渡して頭を下げた。裕も続いて立ち上がると、手提げから名刺を取り出した。 「ごめんごめん、待たせたね。森 亮介(もり りょうすけ)です。よろしく」 「名刺、頂戴いたします。東雲 裕(しののめ ゆう)です。よろしくお願い致します」  神妙な手つきで受けとり、裕は深々と頭を下げた。名刺には仕事のアドレスと、手書きで自宅のメールアドレスも添えた。 「ああ、そんなに堅くならないで。五年前から、父のあとを継いで仕事してるんだ。そのまえは東京にいてね。色々忙しく過ごしてて色々あって、戻ってきたんだ。やっとゆっくり過ごそうと思っても、忙しさは変わらないね」 「そうなんですか」  ……俺と同じ頃にこっちに来たのか。 「あ、そうそう、太郎くんに久しぶりに会ったら、いきなり土下座されちゃってさ。大切な人が困ってるから助けてくれって。本当はクライアントが立て込んでて断る予定だったんだけど、あまりにも必死なもんだから断れなかったんだ。でも、引き受けたからには一生懸命やらせてもらうよ。他にも不安なことなどあったらすぐに連絡してね」  森は(せき)を切ったように話しながら腰掛けると、苺を型取ったホワイトチョコレートに視線を落とした。 「黒豆茶飲んでみて。美味しいよ。あと、五花亭のチョコもどうぞ」 「……あの、料金は?」 「ああ、初回は無料だよ。太郎くんにも言われたけど、良心的な値段で請求させてもらうよ」  森の穏やかな物腰と優しい口調に、裕は幾分か安心した面持ちになった。弁護士など会ったこともなく、相場を調べても分からない。とんでもない金額を請求させるのかと思っていた。  遊びにきた子供を出迎えるような森に、裕は隣の椅子に置いていた桜色の紙袋を思い出して両手で差し出した。 「これ、つまらないものですが。どうぞ」 「え、ああ、いいのに……。って、ここのお菓子大好きなんだ! うわぁ、嬉しいな。遠慮せずに頂きます。ありがとう」  子供のようにはしゃぐ森に張りつめていた心の緊張が緩む。弁護士という偏見から、もっと堅くて、上から目線のタイプだと思っていた。 「はは、このお店のお菓子好きなんです」 「うん、美味しいよね。って、ごめん。依頼内容は遺品整理だよね。東雲裕さんか。夫は東雲、ま、さや。あれ? どっかで……」 「ここの土地では珍しい苗字なので目立つのでよく言われます」  森の訝し気な声にぎくりとして、裕は慌てて声を被せた。 「そうか、確かに珍しい苗字だね。ご主人を亡くして、お子さんが二人か。大変だろうけど、頑張ってやっていこう」  森は手にしていたファイルをとじて、優しく微笑みかける。その頼もしい声に幾人の人が助けを求めたのだろうと裕は思った。  この人なら信じられそうだ。 「はい、よろしくお願いします」 「相続人は君とお子さんだけだね。まずは有料契約の洗い出しか。悪いけど、ご主人のクレジットカード会社、携帯会社から引き落としの明細書を請求してもらっていいかな? そこから確認して、こちらで業者へ解約の連絡を行うよ。それと、ネット証券で株式取引をしていたりもする?」 「それはわからないです」 「一応、登録済み加入者情報の開示請求を行おうか。どの証券会社で何に投資していたか、情報が得られる可能性があるからね。ご主人は銀行員だし、契約があるかもしれない」 「わかりました」  不安げな顔をする裕に、にこにこと森は笑いかけた。 「弁護士を通すと、個人より事が上手く運んだりするから幾分楽になると思うよ。詳細はメールにて送付するから、明細書のコピーはメールに添付して欲しいな」  その後も、噛んで含めるような口調で懇切丁寧に説明し、あっという間に時間が過ぎてしまう。八方ふさがりで手の打ちようがなく閉ざされていた門が、急に開かれたような不思議な感覚がした。  帰り際、事務所の入口で裕は丁寧に頭を下げた。森は笑顔を絶やさず、手を振る。 「色々とありがとうございます。お世話になりますがよろしくお願いします」 「些細なことでも、すぐに相談していいからね。ああ、これもありがとう」  キーホルダーをぷらぷらさせてニッと笑う。その顔が太郎と重なった。 「あはは、また連絡しますね」 「東雲さん、『今いるところで、今持っているもので、あなたができることをやりなさい』セオドア・ルーズベルトの言葉だよ。少しずつ前に進んでいこう」  その言葉に、裕は照れ臭そうに微笑んで背を向けた。  森と話した時間は短いながらも、息も詰まりそうな胸苦しさが溶けていくようだった。  きょうの夕飯なんだろう。  はやく家に帰りたい。  乾いた寒風が裕の頬をなでる。無機質なビル街を横切り、軽い足取りで家路にいそぐ。

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