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第十八話 鞍替えにくわばら
地下鉄がトンネルを抜けて、振動で身体がゆらりゆらりと横揺れする。
裕は丸形のつり革につかまりながらも、蓄積した疲労を押し殺していた。今日は有給を取って、太郎に紹介された弁護士の事務所へ顔をだす予定だ。親戚のおじさんということなので、菓子折りも片手にぶら下げている。
仕事は時間に追われる日々で、一向に変わり映えしない。周囲の同情に満ちた目にさらされるなか、心は冷静を保って仕事をして過ごしている。慌ただしい毎日は変わらずやってきて、束の間の安らぎを得ることもなく、死者を悼むひまもない。
……それにしても、太郎のやつ、どんどん馴染んでやがる。
『いいか、運命の番なんていない。ご近所においそれと存在するわけがない。すべてお前の妄想なんだ。食事は澄江さんに免じて許してやるが、終わったらすぐに帰れよ!』
そう約束してから、数日経過する。あの日、気が狂ったかと思うほど号泣をし、全身に悲しみを満ち溢れさせて涙を流したせいか、翌朝ゆっくりと体を起こすと、木々の中を通りすぎていく風のような気分だった。
そして、佐々木夫婦は早々と熊本の温泉地へ旅立ち、太郎はうちに夕食を作りにやってきた。息つくひまもない裕に手作りの料理を提供し、子供たちの好感度があがっていく。その度に太郎は雅也のことをさりげなく聞き出そうとする。
今朝なんてこうだ。
『ご主人、なにが好きだったんですか?』
『ステーキ』
『じゃあ、今日はステーキを作りますね。お迎えが終わったら、連絡をください。作って持って行きます』
『たろうステーキ! わーい!』
『タロ、タロ』
『ちっ』
子供たちも太郎の明るく人懐っこい性格に懐いて、あたかも前から暮らしていましたという認識となっている。そうといっても、このままでいいわけがない。
夫である雅也が亡くなって、数日経つのに新しい男を連れこんでいる。罪悪感が半端ない。子供二人を抱えているのに、すぐに新しいアルファを囲い込んでいるようで気分が悪い。だが、ワンオぺに人手があるに越したことはない。相続税を支払い終えるまで、無闇に金を使ってシッターを雇うのも迷う。太郎がいてくれると、炊事、洗濯、掃除が捗るのは事実だ。
だからといって、このままだと気が引ける。雅也のように恋愛に命を燃やすなんてことはしたくない。むしろ子供の為に懸命に働いて、育てていくべきなのに他人に頼ってしまう自分に嫌悪してしまう。
一度、話があると夜に『俺はおまえを好きにはならない』と、裕がはっきりと伝えた。『大丈夫です。裕さんが元気になってくれるだけで僕は幸せです』。そう言って、にこにこと太郎はそれ以上何も言わない。好きだとはいうが、好きになって欲しいとは絶対に口に出さない。暖簾 に腕押し。糠 に釘。豆腐に鎹 。まさにそんな状況だ。
俺は二度と他人を愛さない。
雅子にぶたれてから、そう誓った。自分の幸せよりも、子供の幸せを選ぶ。それが親として歩む道。そう胸に押しこめながら、めくるように変わる景色に視線を流す。
ふいに、裕の身体が大きく揺れた。肩にずしんと重みがかかり、隣にいた男がぶつかってきた。
「わ! ごめん!」
「いえ、大丈夫です」
見上げると、仕立ての良い三つ揃いの背広を着た男が小さく頭を下げていた。しゃれた新調のスーツを着込んで、左ポケットには金バッチが光ってみえる。
電車は急停車し、遅延のアナウンスが流れた。どうやら、隣の駅で人身事故があったようだ。二人は顔を見合わせた。
「いや、申し訳ない。きみこそ、怪我はないかい?」
「平気です。気になさらず。こちらこそ、ぼうとしていてすみません」
「ああ、しまった。事故か。クライアントが来るのに遅れてしまうな……」
低く通ったバリトンボイスを唸らせる。男は改まった口調で謝ると高そうな腕時計に視線を落として、凛々しい眉根をよせた。その腕の手の先には指輪が光ってみえた。
この人、アルファだ。
整った身なりに落ち着いた振る舞い、そして知性的な雰囲気。出会った頃の雅也に似ている。違うといえば、物腰柔らかなところと横柄さがない。
「一時間は遅れそうですね」
「ああ、そうだね。いや、困ったな。あれ、きみ……」
またか、この質問。
「オメガですよ」
首筋の歯形にでも目がいったんだろう、裕は即答したが男はそうじゃないと首を振って否定した。
「いや、ちがう。そのキーホルダー、ハムカーだよね? うちの娘が好きで、その限定品、どうしても手に入らなかったんだ。いいなぁ。やっぱり可愛いね。白ハムが推し?」
男は裕の鞄に下げられているアクリル板キーホルダーに熱い視線を注いでいた。朝七時半に週一に放送される、テレ北で人気のハムハムカーという五分アニメの商品だ。千秋が夢中でみるので、ネットで購入した。
「俺はブラウンです」
「そうなの? 僕は断然白ハムだね」
食い入るような眼差しで注視するので、裕はキーホルダーを外して男に手渡す。
「あはは。結構好きなんですね。同じのが、もう一つあるのであげます」
「え!? いいの?」
手のひらにのせると、いい大人が喜々とした表情で相好を崩して笑う。その顔がどこか似ている気がして噴き出しそうになった。夕食を食べる時、太郎はそんな顔でご飯を食べて事細かに子供の仕草を誉めまくるのだ。
……気のせいかな? この人、顔立ちも似ている。
「どうぞ。娘さん、喜んでくれるといいですね」
「あ、ありがとう! 嬉しいな。感謝するよ。きみ、オメガなんだってね。家内と同じで優しいね」
「……奥さんはオメガなんですか?」
「そう、出会えて幸せだよ」
「へえ」
「まあ、運命の番じゃないけど、彼女のような人は二度と現れない。娘なんて、目に入れても痛くないぐらい可愛いし」
「運命の番……」
「番といえば、甥っ子で面白い子がいるんだ。はは、思い出しても笑っちゃうんだけど、運命の番と出会ったと言っててね」
「はぁ」
甥っ子という言葉が頭にひっかかる。目の前の男は三十代ぐらい。男は反応が鈍い裕に気にも留めず話を続ける。
「出会ったのはいいけれど、すでにうなじを噛まれていて、その人の番は亡くなったみたいなんだ。複雑だよね」
「へぇ」
どっかで聞いたことあるような話に裕は窓に視線を向けると、遠くの川辺で水鳥が飛び立ち、波立つのが見えた。
「ただ家も近いし、食事を一緒に食べて過ごしているみたいなんだ。健気なもんで、それだけでいいって満足げに話していてね……。それでも若いから、我慢できずに、その人のツワッターを調べて、全ツイート調べたら、コンビニの無料キャンペーンのリツイートしかなくて撃沈したみたいだよ」
「うわぁ」
こわ。太郎ならしてそうだな、と裕はなんとなく思った。
「それにまだあるんだ。我慢できずに彼の下着にまで手を出そうとしたみたいで、それだけはやめろって止めたよ」
「賢明なアドバイスです。いや、ちょっと危なっかしい人ですね」
「そうなんだよね。救いなのが、その子に夫がいないことかな。結婚していたら、そんなことできないし、別居中だとしても印象が悪いからね。一回の不貞行為で慰謝料なんて隙を見てふっかけてくるんだ。泥沼離婚なんてそんな……ってごめん。仕事の話が絡むとついね。あ、動きだしたね。良かった」
電車は速度を早めながら、のろのろと景色が流れるのがわかった。
「まあ、運命の番に出会ったアルファなんて従属した犬みたいなもんだよ。ずっとそのオメガのことしか頭にないんだ。一生だよ? 行動はあれだけど、可哀想としかいえない」
ふぅと溜息をついて、男は困った顔で口元を綻ばせる。
「……そうなんですか」
「老子の教えで千里の道も一歩からというし、はやく振り向いてくれることを祈るしかないね……」
それから二人は、しばらくハムハムカーの話題になり、立話しにふけって同じ駅で降り立つ。男は事務所に向かい、裕はコンビニに駆け込んで現金を下ろした。この辺りは閑静なオフィス街で、最寄りの駅から徒歩圏内で弁護士事務所が多く立地している。
スマホを手にして、太郎から紹介された事務所の所在地を確認した。『もり総合法律事務所』。地域密着型の法律事務所として、遺言、相続、不動産、企業顧問など様々な法的問題の相談に対応しているらしい。
裕は徒歩三分の道を右往左往しながら、五分以上かけて歩いた。
そして、さきほどのアルファ、こと森 亮介 と再会する。
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