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第二十七話 かぐわしき紐帯

「すっきりしました?」  顔色が青く血の気のない森に、裕は冷然と落ち着き払って言う。抜かれた後孔からは血と分泌液が混じって、たらたらと太腿へ一列に垂れていた。  シャツははだけて、黒みを帯びて、汗ばんだ肌はほてるような痛みが脈打ち、体にはしびれるような冷たさが襲ってくる。  香水と汗が交った甘酸っぱい匂いが鼻の先にまとわりついて、生温い空気が頬にふれる。うなだれながら振り向くと、大粒の雨がぱらぱらと落ち、雨滴が車窓に貼りついて視線が濁った。 「ごめん、こんなつもりじゃ……」 「森さん、いいんです。自分がオメガなのを忘れていた。自衛できなかった俺が悪い。それよりスーツが皺になりますよ。あと、重いのでどいて下さい」  シートを起こし、腕を伸ばして森の身体を押しのけた。閉じられた狭苦しい空間のなか、暗闇に目が慣れていく。形が崩れた背広はよれて、森は陰鬱な面持ちで物思いに沈んでいる。運転席へ窮屈そうに腰かけて、ハンドルに手をかけた。車内が一瞬静まり返って、たまりかねた森が絞るような声をだす。 「僕が悪い。それにうなじが血だらけだ……」 「うなじ?」 「そう、真っ赤だ」 「ああ、これか。噛んで挿入時の痛みをおさえようとしたのか。番が死んでも、番ったオメガを番にすることはできない。はは、森さん、それを知っていたんですね。すごいな、さすが敏腕弁護士なだけある」  明るさを装って、わざと冗談めかした言い方をした。裕の口元に薄笑いがうかぶが、切ないほど滑稽に見える。激しい悪寒に似た絶望が全身を襲いながらも、そう口にすることで、数時間前に戻れる気がして、何事もないように平然とした態度を保つ自分に口の端がきゅっと上がる。  なにも変わらない。男のオメガ。みじめで無様な人生という哀れみや同情はこっぴどく跳ね返して生きてきた。それと同じだ。  雨だれが規則正しく打って、前を向くと、どんよりと暗闇が広がってみえた。 「……申し訳、ない」 「気にしないでください」 「気にするよ。君は平気なふりをしているだけだ……」 「平気? これはセックスじゃない。事故だ。この世界にはありふれた話です。テレビや新聞がよく事件を報じるでしょ? アルファに襲われたオメガって。……いや、ちがうな。偶発的にオメガが発情してアルファを誘いこんだってね。だから森さんは何も悪くない」 「ありふれたって……」 「俺の番は死んだ。番なんて、もう必要ない。そう思ってました。俺のミスです。森さんと番になれずに済んだ、それだけでも幸運だ」  裕は潰れた手提げを手にする。外はまだ雨が降り注いで、止みそうにない。 「東雲くん、まって……」  ドアを開けようとした手を森が掴んで、胸元へ引き寄せた。むせるような甘い匂いに包まれ、唇が重った。 「……ッ、はなせ」 「このまま、帰すわけにはいかない。責任をとらせてくれ」 「せきにん?」 「そう、なんでもする」  森のいつにない真剣な眼差しに、裕は艶然と微笑みをうかべて手を振り払う。殴りたい気持ちをぐっと抑えて、我慢した。 「それなら、仕事でみせてください。あなたに望むのはそれだけだ。また連絡します。ここまで送って頂いてありがとうございます。さようなら」  きっと突き刺すように睨み、瞳から精悍な光芒(こうぼう)が放たれる。ノブを引いて車から降りた。肩からも刺されたような疼痛(とうつう)がして、降り続く雨が頬を濡らす。滲んだ水滴の奥で、一人うなだれる森が視界の端にはいった。裕はそのまま歩きだす。    夜の闇に紛れて、疲れきった五体を家路に運ぶ。  深い穴の底のような暗闇で、耳の奥まで雨音がこもる。目の前を斜交(はすか)いに雨が糸をひいて、うなじが熱火で灼かれるように痛んだ。ドアの上にちいさく外灯がともってみえ、裕は手提げかばんの底からキーケースをとりだした。鍵を回して、玄関を細目に押し開けると、太郎の声が奥のリビングから耳に流れこんでくる。 「裕さん、おかえりなさい! 雨大丈夫でした? 上手く話はすすみました? あとお腹すいてません? あ、あと千秋ちゃんが牛乳を零しちゃって、お子さんたちとお風呂にはいったんですけどよかったですか? 洗濯機も回してます。勝手にごめんなさい……、っ!?」 「ありがとう。もう帰っていいぞ。シャワーを先に浴びる」  太郎の驚いた表情を横目にみながら、軽く頭を下げて通り過ぎた。ぼたぼたと床を濡らし、裕はふらつく足取りで左手にある浴室へいく。脱衣所の扉をかたくとじて服を脱いで、白い泡を立てて、髪を洗い、熱い湯を浴びて流した。  最低だ。  血は固まり、雅也がつけた痕の上に、生々しく歯形が血肉をひらいてみえた。これは自分の不注意で招いた傷だ。  自分が悪い。  油断していた。薬を使って用心していたはずだった。子供を産んで、体型も変わって、せわしなく過ごして、雅也の骨をみて、すっかりすべて終わったと思い込んでいた。筋肉だってある、足だって細くない。  勘違いしていた。  ばかだな、バースがなくなるわけがない。  結局、オメガという性は終わらず、蛇腹(しまゃばら)のように長く伸びてアルファを誘って惹きつける。体から充溢(じゅういつ)してたフェロモンをコントロールすることすらできなかった。あのまま流されたら、森の家族まで壊してしまっていたかもしれない。  考えても、無駄だ。言い訳でしかない。  子供がいる、守るものがある。傷つく必要なんてない。俺はいつまでたってもオメガなんだ。それだけは変わらない。  ガシガシと髪の毛をこすって涎と汗を落としていく。  ピル、飲まなきゃ。  ざっとシャワーを砲火のように浴びて、瞼を閉じた。忘れよう。今日のことは水に流す。この世界にはよくあることだ。  ガチャリと浴室のノブを回すと、太郎がいた。 「太郎……」 「裕さん、誰ですか?」  太郎はタオルを片手に、裕のうなじに赤く糜爛(びらん)した歯形に視線をむけて睨んでいた。 「……」 「誰になにをされたんですか?」  氷をおとしたような声に、裕の背筋から水滴が伝い落ちた。 「……なにもされてない」 「嘘だ。叔父さんの匂いがべっとりついている」 「だからなんだよ?」 「どう見ても合意じゃない。警察に連絡します」  濡れた手で、太郎の腕を掴んで引き止めた。切り裂くような痛みに熱を感じた。 「事故だ」 「事故じゃない」 「事故だよ」 「ちがう」  押し問答が続いて、裕が溜息を洩らす。 「本当に事故なんだ。森さんは悪くない」 「事故? なら、どうして、こんなひどい姿なんですか?」 「おまえには関係ない。この世界にはよくあることだ」 「裕さん、それはちがう」 「なにが違う? 実際にそうだろ? おまえ、オメガの俺が好きなんだろ? オメガだからこうやってまとわりついてんだろう? 夫がいたっていつも頭が回らない。深夜に電話して、二人抱えて病院に駆け込んだりもした。まともに寝れなくて、教えてやることだって沢山ある。毎日疲れ切って記憶すらないんだ。そんな俺のどこに惹かれる? 運命だからか? 笑わせるなよ」 「それは……」  やつあたりだ。太郎は悪くない。太郎は純粋に自分を心配している。運命だといいながらも、子供のお迎えまでして、食事をつくって、そばにいてくれた。 「なんにもいえないだろ? そうだよな。運命の番とか言ってたもんな。なぁ、太郎、前みたいに泣かせろよ」 「え?」 「泣いて、スッキリしたいんだ。な、いいだろ?」  裕は頭からタオルをかぶって、一糸纏わぬ姿のまま太郎に近づいた。困惑の色を浮かべた太郎は棒立ちになって動かない。裕はふらふらと近づいて太郎を抱きしめる。 「裕さん、あの……」 「雅也も、森さんも、全部俺のせいだ。俺がわるい。浅はかだった。考えなしに動いていたせいだ」  太郎に触れた途端、糸が途端に切れて、はらはらと涙が落ちる。心地良い。気持ちいい。ほっとする。だめだ、あらがえない。 「裕さんのせいじゃない……」 「俺のせいだよ。もう、疲れた」 「……」 「太郎、俺をめちゃくちゃにしろ。殴れ」 「いやです」 「いやなら、このまま抱けよ」  それこそ足がつかない底に落ちてしまいたい。なにもかもうまくいかない。懸命に生きているつもりなのに、すべて壊される。いや、そうしているのは自分だ。子供を抱えても、立派な大人にすらなれない。 「裕さんの傷が癒えるまで何もしません。ここに来るときは必ず抑制剤をうっていますしね。それに、そんな風に無防備に自分を傷つけるやり方は駄目です。ほら、風邪を引くので服を着てください。傷も消毒します。あ、ココア飲みましょう。甘いものを飲んでって、うわ、ごはんどうします? 冷凍しちゃったかな? パンの方がいいですか?」  あほか、たろう。  くしゃと顔が崩れて、頬に涙がつたう。太腿にふれた部分は柔らかく、猛るものなどない。太郎がタオルで裕の顔を拭いた。  綻びかけた花びらのように、太郎が裕の顔を包み、柔らかな雲のような心地がした。 「おれ、おまえを傷つけた……、ごめん」  こみ上げてくる感情がどんどんと溢れてくる。 「そうでしたっけ? いいんですよ。裕さん、ずっと我慢してたんだ。悲しみに耐えて、休んでるひまもなかった。それでも一生懸命だったのを知ってます。僕はそんな裕さんがすきです。どんなことがあってもそばにいます」  裕は瞼をとじた。  つよく、つよく、太郎を抱きしめた。

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