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目の前で頬を染めている人間に視線を合わせて。
瞳を意識的に潤ませ、両手の指先を居た堪れなさげに絡める。申し訳なさそうに眉を下げるのも忘れずに。
「……お気持ち、とても嬉しいです。でも――」
■■■
先程恋の告白を断られたばかりの相手に向かって、穏やかな笑みと共に「またね」と手を振り去っていく女性を見送る。ぼくの浮かべる笑顔がどこまでも無感情であることを、きっと彼女も気づかない。
「いやあ〜、相変わらずモテるねえ、緋色 君! 今月何人目?」
古びたドアベルの音が女性の退店を告げるのと同時に、カウンター端の席に座っていた壮年の常連客から野次が飛ぶ。
「……もう。別にそういうんじゃないですってば。みんな「クリぼっち」を免れたくて、ちょうど良さそうな相手を探してるだけでしょ」
十二月も半ばに差し掛かった今、凍える体を持て余した状態でリア充イベントを迎えるのを避けたい、という気持ちは理解できなくもない。
「いやいや! オールシーズン男女問わず連絡先渡されたり、呼び出されたりが日常茶飯事の緋色君がそんなこと言っても説得力無いって!」
興奮した様子で彼が叫ぶ。今日は随分食い下がるな……もしかして彼も現時点で「クリぼっち」予定者なのだろうか。
さらに否定を重ねるべきか考えあぐねているぼくを見兼ねて、カウンターの奥でコーヒー豆の残量を確認していたマスターが助け舟を出してくれた。
「鈴木さん、その辺にしておいてあげてくださいな。……緋色君、雨が降ってきたみたいだから、傘立てを用意してくれるかい?」
「あ、はい。わかりました」
言われた通りに傘立てを出入口の側へと運ぶ。
店の奥へと戻ると、鈴木さんは窓の向こうを見るともなく見ていた。釣られて視線を滑らせた先には、鈍色の空が広がっていて昼間だというのに薄暗い。
雨の日には、どうしたってあの日のことを思い出す。
「(もう、五年も経つのか)」
海を望む丘にあるこの店――喫茶・宵待月 ――で働き始めたのも、ちょうど五年前だ。先日還暦を過ぎたばかりのマスター・朝烏 さんがひとりで切り盛りしていたここに突然転がり込んだぼくを、深い事情を聞くこともせず住み込みで雇ってくれたことには、今も感謝しかない。
「しっかし勿体ないよなぁ〜……。なんでそんなにモテんのに誰とも付き合わないの?」
「うわ、まだその話続いてたんですか鈴木さん」
窓の外からこちらへと視線を戻しそんなことを言う彼に、思わず顔を顰めてしまったのは仕方のないことだと思いたい。せっかくマスターが気を利かせて話の流れを断ってくれたというのに。
何故、と問われれば、答えは簡単だった。ぼくはもう誰のことも好きにはなれない。それだけのこと。
およそ恋心と呼べるようなものは、五年前にある一人の男に捧げてしまった。そいつへの餞として渡したそれが、この先ぼくの元へ戻ることは無いだろう。故にぼくは恋ができない。誰に想いを寄せられようと、同じこと。
胸の奥にぽつんと残る空席。そこに座っていた彼の温度を、今はもう思い出せないのに、確かな存在感だけが燻り続けている。たぶん死ぬまで、忘れられない。
そうしてぼくから恋愛感情を持ち去った男。名を――坂月蒼嗣朗 と言った。
雨はいつの間にか雪に変わりつつあった。鈍色の中にちらつく白を前に、鈴木さんが「本降りになる前に帰ろうかなー」と呟く。
その時、ドアベルがからんと鳴り第三者の来店を知らせた。
「いらっしゃいま…………、っ!」
肩に薄く積もった雪を払いながら店内へと入って来た人間を前に、ぼくは思わず息を呑んだ。
ひと目で上等なものだとわかるスーツとコートを身に纏い、少し癖のある黒髪を緩く後ろへと撫でつけた長身の男。ぼくは、この男をよく知っていた。
淡く青の混じった瞳が、ぼくを射抜く。
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