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 夜に染まる車窓の向こうを、ただぼんやりと眺めていた。  低く唸るエンジン音をBGMに、ぼくは夜行バスに揺られていた。車内の少し暑いくらいの暖房で火照る体を、左隣に感じる体温が余計に熱くさせる。  ぼくの肩に頭を凭せ掛け、長身を窮屈そうに縮こまらせながら眠りにつく男。少し癖毛ぎみの黒髪が、頬を擽る。  頭の角度の問題で寝顔こそ見えないが、緩やかに上下するその体から、ぐっすり寝入っていることがわかる。呑気なものだ。ぼくは自身がした選択や、これからのことが怒涛のように頭を巡っていて、とても眠れそうにないというのに。  ちらりと恨みがましい視線を向け、すぐに窓の外へとそれを戻す。先程まではほとんど闇しか広がっていなかった景色に、ぽつりぽつりとカラフルな灯りが増え始めた。住み慣れた地方都市を飛び出して既に四時間。このバスは、もうすぐ大都会の真ん中に飲まれていく。  これは、所謂(いわゆる)「逃避行」というやつだった。ぼく・八神(やがみ)緋色と、隣で眠るソウくんこと――坂月蒼嗣朗という男の。  ■■■ 「俺と駆け落ちしてくれないか」 「は?」  ぼくの肩をがっしり掴み、真面目くさった顔で告げられた言葉の、あまりの意味のわからなさにぼくの背後に宇宙を背負った猫が浮かぶ。  夕暮れ時。ぼくらの他には誰も居ない公園。ロマンチックな告白をするにはぴったりのロケーションを、根底からひっくり返すようなぶっ飛んだ話。 「ああ、悪い。言葉が足りなかったな。……実は、家の都合で見合いが決まったんだ。だから俺は逃げようと思う。お前を連れて」  言葉が足りるとか足りないとか以前の問題だった。説明されても意味がわからないのだから。 「……あのさ。別に、気乗りしないお見合いから逃げ出すこと自体はいいと思うんだ。是非はどうあれ、君の人生だし」  誰かの言いなりになるだけの人生で得られるものなど無い、というのはぼくの持論。望みを叶える手札が無いなら手に入れればいい。色々と恵まれてない生活を送ってきたこれまでの人生で、強制的に理解させられたことだった。  そんなぼくとは対象的に、なんでも持っているのが目の前の彼、従兄弟のソウくんだった。  彼は世間一般で言うところの御曹司ってやつで、実家は近隣の県で知らない人は居ないんじゃないかというくらいの規模はあるホテルチェーンを運営している。経営は順調らしく、最近は国内の主要都市にもホテルをオープンしているらしい。つまりはお金持ちなのだ。  学校はこの辺だと指折りの偏差値を誇る私立進学校だし、そこで生徒会長をやっているだとか、試験が学年トップだとかの話を聞いた記憶もある。正直ぼくにはあまり関係のない話なのでよく覚えていないが。 「……学校サボるの? 優等生なのに」 「いや、そこは心配ない。うちの学校はもう自由登校期間に入ったんだ。俺は進路も決まってるしな」 「ふうん、いいなあ三年生。生憎と、ぼくはまだ一年だからね。普通に登校義務があるんだよ」 「でもお前……学校行ってないんだろ? 今だって私服だし」  着古したコートの下から覗く黒のスキニージーンズを指し示され、ぼくは言葉に詰まってしまう。  ぼくが一応は籍を置いている高校は、近場では有名な底辺校である。ろくに登校もせず、平日の昼間からぶらついていても、なんの連絡も来ない程度の。  そもそも、出席日数が足りずに留年できるならばきっと良い方だ。ぼくはその前に、学費の滞納であそこを追い出されることになるだろう。先日気まぐれに教室へと赴いた際に、心底困り果てたような顔をした担任に「親御さんと連絡がつかないんだが」と言われたことを思い出す。  奇遇ですね、先生。ぼくの番号に至っては着拒ですよ。と言えれば良かったのだが、さすがに申し訳なさの方が勝ってしまい「連絡するように伝えておきます」と言ってしまったのだった。まあ、ほとんど家に寄りつかないんだけどね、あの人。  今も何処ぞのろくでなし男とよろしくやっているのだろう母親のことを思い浮かべ、ぼくは長いため息を吐いた。 「……確かにぼくは色々あって自主休校してるけど。だからと言って君の逃走劇に巻き込まれる謂れは無いと思うんだ」  ――それでも、君はぼくに学校サボって一緒に来てなんて言うの? 誰もが認める「いい子」の君が?  むしゃくしゃしたから、そんな風に意地悪を言った。  少しの気まずさを抱いてそろりと見上げた先のソウくんは、一瞬だけ苦い顔をしていた。けれど、彼はすぐにコートの袖口から覗くぼくの指先を掴まえ、揺るぎない眼差しでもってこちらを見据えてくる。 「俺は、単に見合いが嫌で言ってるんじゃない。お前がいるのに、そんなことをする意味が無いって話を家ではしたんだ。でも、」  そこまで言って、凛々しく整えられた眉が少しだけ下がる。 「まるでお話にならなかった?」  拗ねたような顔をしてソウくんが頷く。そりゃそうだ。ぼくが彼の親だったとしても同じ対応をするだろう。そもそも。 「……ぼく達さぁ、別に付き合ってる訳じゃないじゃん」  従兄弟同士でそうなる可能性自体がレアケースだ。男女間とは違って婚姻関係を結べる訳でもないのだから。  多様性が認められ始めた今の時代でも、こんな都会になり損ねたような地方都市の中じゃ、まだまだ好奇の目の方が多い。世間に名を馳せ始めたばかりの大事な時に、『坂月グループ』の跡取り息子がぼくみたいな「いわくつき」に懸想しているだなんて、笑えないにも程がある話だ。  そんな考えが気取られたのかは知らないが、ぼくの手を握るソウくんの力が強くなる。薄く青の混じる瞳が、剣呑な色を帯びた。  しまった、と思った。このままだと聞きたくもない言葉を聞く羽目になってしまう。ぼくは慌てて口を開こうとするが、それよりも、ソウくんがぼくの鼓膜を揺らす方が早かった。 「何を言われようと、俺はお前が好きだ。緋色」  その言葉を、ぼくはここ十年で何度聞かされただろうか。

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