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そこに集まった人間が一様に同じ黒の服を纏い、静かで湿った空気で部屋を満たしている場に、真っ赤なパーティードレスで乗り込む一人の女。それが異常であることは、彼女に引きずられて共に来た、幼いぼくでも気づいていた。
ここは、とある男の通夜を執り行っている会場だった。
「あッはははは!! ホントにくたばってやんの!! ざまーみろ!!」
ヒールの音を高らかに鳴らし、迷い無い足取りで祭壇へと突き進みながら、嘲りを多分に孕んだ声で女は笑う。
一斉に突き刺さる参列者達の視線などどこ吹く風。経を唱える僧侶を押し退け、思い切り祭壇に蹴りを入れる。一度ならず、二度、三度と。
木の拉げる音で目を覚ましたかのように、呆けていた大人達が慌てて女を抑えにかかる。暴れる女と揉み合いになる彼らの足元へ、祭壇に敷き詰められた白菊が落下しては、ひとつ、またひとつとその形を歪めていく。ぼくはそれを、どこか遠くの出来事のようにぼんやりと見つめていた。
大きな黒い塊みたいになった人々の真ん中で、一際目立つ鮮やかな赤。渦中のその女が自身の母親であると受け止めなければならなかった、当時まだ六歳だったぼくの心中は察するに余りあると言えよう。
そして、傾いてしまった遺影の男が、どうやらぼくの父親らしい。ぼくは、これまで接してきた大人がよく口にする程度には母親似らしいから、彼との間に本当に繋がるものがあるのかはわからない。尤も、今はもう知るすべも無いけれど。
明滅する、白黒写真みたいな視界が、急に手を取られたことによって切り替わる。差し込まれる新しい色。……青い。
「好きだ! ええと……そうだ、大きくなったら、おれと結婚してくれ!」
ぼくの左手を両手でぎゅっと握りしめ、いきなりそんなことを言ってきたのは、ぼくより少しだけ年上だろう少年だった。黒の中に薄く青の混じった、宝石みたいな瞳が最初に目に入る。
「はじめまして」でも「お前誰?」でもない、変わった挨拶として片づけるにも難しい言葉。けれど、幼い日のぼくにも、それが男女間に使われる言葉だということだけはわかっていた。母親がその言葉を甘えた声で唱える度、家に入り浸っていた男が消えるから。
「……、……ぼく、おんなじゃないけど」
「……? それが?」
心底不思議そうに聞き返され、ぼくが答えようとしたその時、ほとんど悲鳴に近いような声を上げながら、女性が割って入ってきた。ぼくと彼を引き剥がす力は加減が無く、無理矢理ほどかれた指はヒリヒリと痛んだ。
「蒼嗣朗ッ! あなた何してるの!?」
「かあさん、」
黒紋付に身を包んだ少年の母親は、ぼくの母親よりも少しばかり年上に見えた。形の良い眉をキッと吊り上げ、いかにも憎らしいと言わんばかりの眼差しを向けてくる。
少年を守るようにその腕に閉じ込めた彼女の唇が、わなわなと震える。
「こんな、……こんな、っ」
――愛人の子なんかに。
声にもならないくらいの呟きだったけれど、確かに唇がそう動いたのを、今も覚えている。およそ子供相手にかける言葉ではないだろう。
鋭い視線に晒され動けなくなっているぼくと、自身の母親とを交互に見る少年が、この場で一番状況を理解していなくて、一番、純粋で美しいものだった。
膠着した空気を裂くように、不意にヒステリックな叫び声が上がる。言わずもがな、ぼくの母親だ。数人がかりで取り押さえられ、喚き散らしている。
遠くにパトカーのサイレンが聞こえた。誰かが警察に通報したのだろう。
意識に段々と靄がかかる。母親の金切り声とサイレンとが、その音を小さくしながら何度もリフレインしていた。
■■■
段差でも越えたのか、ガタンと大きく座席が揺れ、自分がいつの間にか眠っていたことに気がついた。
車内アナウンスが、間もなく終点へ到着することを知らせている。バスの窓は、眠らない街の景色を流していた。
「……ソウくん、起きて。もう着くってさ」
隣で未だ夢の中に沈んでいる従兄弟の体を揺り動かす。むにゃむにゃと口元を動かしながらも、意識を浮上させてくる彼を見て、小さく息を吐く。
今に至るまでのことを思い返しているうちに寝落ちてしまったからか、随分と昔の夢を見た。
あの後、母親は逮捕され、金が払える払えないだとか、訴える訴えないだとかで暫く大人達は揉めていた。罪に問われた彼女が戻れるようになるまでの間、誰も居ない家に幼いぼく独りを置き去りにする訳にもいかず、大人達はまた揉めた。
大の大人が厄介事を押しつけあっている地獄めいた光景。そこに堂々と割って入り、「じゃあうちに泊めたい!」と宣ったソウくんを見る彼らの、驚きと絶望の入り混じった顔といったらなかった。
「おはよう、緋色」
まだ半分寝ぼけているような、緩んだ眼差しを向けてソウくんが言った。煮詰めたお砂糖と同じ温度を帯びたそれが、ぼくの左半身をじりじり焦がす。
彼は無知な子供だったあの頃と何も変わらない。同性同士が結婚できないこと、ぼくの家の荒れっぷり、そして、自らの叔父が不貞を働いた果てに産まれたのがぼくであるという現実を知っても、尚。
「(どうして、ぼくのことなんか好きなんだろう)」
好意だけが籠もった視線が、苦しい。
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