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『お母さんの機嫌が良い方が、君だって嬉しいだろう?』
それは今でも鼓膜より更に奥にこびりついている、悪魔の囁きだった。
ぼくが中学三年の頃に母親が付き合っていた男とは、あのヒステリックな彼女にしては珍しく、交際期間は半年に及ぼうとしていた。母親の方が惚れ込んでいたのか、男の彼女への扱いが上手いのかは知らないが、関係はまあ良好で、彼女のぼくへの当たりも随分と落ち着いていたものだ。
男は職らしい職に就いておらず、基本的にはぼく達の家でゴロゴロしている事が多かった。時折日雇いの仕事に出ても、給金はすぐにギャンブルに消えてしまう。つまるところ、ヒモというやつだった。
ぼくにあの出来事が起こったのは、そんなヒモ男君――名前はもう忘れてしまったので、仮にひー君と呼ぶとしよう――がある日、虫の居所が悪かった母親に金をせびり、棚の食器がいくつか割れた日のことだ。
「なあ緋色君。お母さんを喜ばせたい、って思わないか?」
夜の街へと仕事に出た母親を見送り、二人で割れた食器を片付けていた時、不意に彼はそんなことを言った。
「今さっきあの人を怒らせた元凶が、それを言うの?」
「まあまあ。俺に考えがあるんだけど、お母さんの好きな物をプレゼントするってのはどうかな? そうじゃなくても、美味いもんを食べに行くとかさ」
「…………そんなお金がどこにある訳?」
つい先程、その喜ばせたい対象に金の無心をしたのはお前ではないか。そう言ってやりたいのをギリギリの所で飲み込んで、ぼくは返した。
「それは今から手に入れるのさ」
ひー君はスマホを持つと部屋を出て行く。リビングの薄い扉越しに話し声が聞こえる。どうやら、どこかに電話しているらしい。
少しして彼が戻ってきた。けれど、どこに電話していたかも、どうやってお金を手に入れるつもりなのかも、一切説明することはなく。鼻歌交じりに寝転んで、床に落ちていた母親の女性雑誌を――読みたい訳でもないのだろうが――ぱらぱらと捲り始める。ぼくは追及することも出来ず、ただその姿を横目で見ていた。
暫くして、突然ドアノブを急いたようにガチャガチャと回す音が室内に響き渡り、ぼくは驚いて体を跳ねさせた。
鍵の掛かった部屋に、チャイムを鳴らして住人を呼び出すという発想さえ無く入り込もうとしているドアの向こうの何者かの存在。思わず息を潜めるぼくとは対象的に、すぐ側で寝ていたひー君はゆっくり起き上がると、平然とした様子でドアへと向かっていく。
「チャイムくらい鳴らせないのか?」
「なぁおい、中学生とヤれるってマジかよ!!」
問いに対し全く噛み合わない返答を返す、弾んだ男の声。ひー君の背中に隠れて、その姿はぼくからは見えない。けれど、他にも複数人の声が聞こえることから、来訪者は一人ではないことが窺えた。
「金はちゃんと持ってきたのかよ」
「お前が持って来いって言ったんだろ。ちゃんとあるよ。ついでにオモチャもな!」
一斉に上がる下品な笑い声。それが孕む嫌な雰囲気。
何かぼくにとって良くない事が起こる気配を感じ取って、背後の窓を確認した。鍵を開け、そこから外に飛び出すまでに掛かる時間は。
「……逃げるなよ、緋色」
初めて呼び捨てをされた。これまで聞いたことがないような、声だった。無意識に視線を向けた先に居るのは、確かに見慣れたひー君のはずなのに。笑っていない目の奥。足が動かせない。……気づけば、小さく震える体の周りを、知らない男達が取り囲んでいた。
「金を稼ぐには対価が必要なんだ。当たり前の話だろう?」
それでどうしてぼくの身体を差し出すという話になるんだ。――そう言い返せるほどぼくが強かったのなら、こんな事にはならなかったのかもしれないけれど。
埃っぽい床の上に押し倒された。腕を押さえている男と、脚を押さえている男と、上にのしかかっている男が、全員違う。濁った眼差しがぼくを舐め回す。
目をつむって、少しでも現実から遠ざかれれば良かった。でも、視界を塞いでしまうと、何をされるのかがわからなくて怖い。どうせ逃げられないのだとしても、すべて諦めたような姿勢で居たくなかった。
下卑た笑みを直視したくなくて視線を逸らした先に、ひー君が屈んでいた。こちらに向けられているスマホ。の、カメラレンズ。……何をされているのかがわかってしまい、喉が引きつる。拒絶の言葉が吐き出せない。
信じていた訳でもないのに、勝手に裏切られたような気持ちになった。とは言え、半年ほどの時を近くで過ごしたことで生まれた情はある。だから、彼の無感情な視線がどこまでも冷たく感じる。
力なく息を零すぼくを前に、ひー君はいつもと変わらない声音で告げた。
「お母さんの機嫌が良い方が、君だって嬉しいだろう? 頑張ろうな、緋色」
その後の事は、正直思い出したくもない。
もし脳を取り出して洗うことが可能だったとしても、消せないだろうと確信してしまうくらいに悍ましい記憶。汚れた身体はお風呂に入ったってずっと汚れたまま。
一度きりでは済まなかった陵辱は、それから数日おきに繰り返され、場所や顔ぶれを変えながら一ヶ月ほど続いた。
それが突然終わりを迎えることになったのは、今までずっとぼくが輪姦される様を静観するばかりだったひー君が、好奇心に負けてぼくに手を出したためだった。
たまたま仕事が早く終わり帰宅した母親が、扉を開けて最初に目にしたのが、今まさに自分の息子の尻穴に突っ込もうとしている自身の交際相手の姿だった時に迎える修羅場といったら。
馬乗りになってひー君を殴り続けている母親がとうとうテーブルの上の灰皿に手を掛けた辺りで、ぼくは彼女に飛びつきそれを取り上げ、転がるように部屋を出た。もはや意味を成さない咆哮染みた怒声を背中に受けながら。
下着を履き忘れたままズボンを身に着けたから気持ち悪い。そんな事を頭の端で考えながらアパートの一階へと駆け下りる。大家の部屋の扉を馬鹿みたいに叩いて、嫌そうな顔を隠そうともせずに出てきた部屋の主に「警察を呼んで」とそれしか言葉を知らないみたいに繰り返した。
身近な所から人殺しを出したくない、という一心だった。母親もひー君も、正直どうなろうと構わなかった。あの人があれ程怒り狂っていたのは、間違っても自分の息子が手籠めにされたからではないと、言われなくても理解していた。
騒ぎを聞きつけ、顔を覗かせる他の部屋の住人達の視線、ざわめき。聞き慣れてしまったパトカーのサイレン。全部がフィルターを通したように遠い。
口からは渇いた笑いが勝手に漏れた。ひどい疲労感に苛まれ、ぼくは地面に座り込んだ。
■■■
すべてを話し終えた部屋に、重い沈黙が満ちる。さすがにソウくんも、ぼくに愛想を尽かしてくれただろうか。
「……ぼくがどれだけ汚れた人間か、これでわかっ――」
言い終わる前に、何かが勢い良く体にぶつかってきて、ぼくはベッドに背を沈めた。
原因であるソウくんは、ぼくの体を骨が軋むくらいに強く抱きしめ、肩口で低く唸るような声を上げている。
「……ソウくん……泣いてるの?」
零れた問いに答えるみたいに顔を上げた彼の目に、涙など光っていない。けれどその顔色は最悪で、まるで毒でも盛られたようだった。
「……ごめん、緋色、っ……。俺は、自分の気持ちを押しつけるばかりで……お前の境遇も知らないで……っ!」
「やめてよ、そういうの。……仮に知ってたところで、ソウくんに出来ることなんて、無いでしょ」
謝らないでほしい。惨めになるから。
返す言葉を見つけられないのか、ソウくんはひどく情けない顔でぼくを見つめるばかりだ。別に、この場に相応しい言葉なんてものは、存在しないのに。
そろりと彼の頬に手を伸ばして撫でてみる。途端に泣きそうに細められる瞳は、やっぱり澄んでいてきれいだ。
衣服越しに伝わる体温を不快に感じないのは、ぼくがソウくんを好きだからだろうか。体を包むぬくもりにぼんやりとする意識の中で、そんな風に考える。しかし、彼が身動いだ拍子に太腿を掠めた硬い感触に、ぼやけていた頭が急激に冴えた。
「……ねえ、あの、ソウくん……もしかして勃っ――」
「…………悪い。でも仕方ねえだろ!? 好きな奴に触ってんだから……!」
いつからこんな状態だったんだろう。顔色がころころ変わって忙しいソウくんを見つめながら思う。
一度意識してしまえば、体が羞恥にじわじわと熱くなり始める。今更、ソウくんにそういう目で見られているということを強制的に理解させられてしまって。
嫌じゃない。嫌じゃないのだ。だってソウくんは、あの男達とは違う。ぼくを玩具にはしない。それを証明するものが無くたって、わかるから。だから。
「ねえソウくん。……ぼくと……したい?」
こんな言葉が、口を衝いて出てしまったんだ。
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