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香る一夜

「もう随分前のことですけどね」 きゅきゅっと拭かれるグラスが小気味良い音を立てる。 「よろしければ……今夜どちらかご紹介いたしましょうか?」 伏せていた目が軽く上げられ、斎藤は思わずグラスを握る手に力が入るのを感じた。 「じゃあ、この彼を。 まだまだ色々と経験してみたい年齢だろう」 隣の紳士が斎藤にグラスを上げてみせたので、斎藤もグラスを上げカチンと軽く合わせた。 「お土産話しがいつか聞けたら聞かせてくれるかい?」 行くとは一言も発していないが、どうやら行くことに決まっているらしい。 はぁと曖昧な返事を紳士にすると、紳士は斎藤の分まで会計を済ませるとさっさと帰っていってしまった。 「藤川様は相変わらずあっさりとされている」 紳士が出て行ったドアを見ながらマスターが独り言のように呟いてから斎藤の方を向いた。 「さて、斎藤様、どういたしましょう? ご紹介いたしましょうか?」 ごくりと斎藤が唾を飲み込み呼吸までも止めそうになるのをマスターが半ば噴き出しかけ、慌てて斎藤から顔を背けて咳払いをしてからまた斎藤に向き直った。 「私がご紹介したとしても斎藤様が店に辿り着けるかどうかは私にも分かりかねます。 ただ、もし辿り着けたとしたら」 口角だけを上げ不敵にも見える笑みを零したマスターが口を開く。 「きっと、忘れられない一夜となることでしょう」

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