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望む六夜

「やっぱり…俺じゃだめ?」 紫音がまた首を振る。 「あなたは光の中を歩いていき、光の中にいるべき人です。 私の側にいて陰に染まってはだめです」 「紫音」 「どうか……離婚も考え直してください。これまで何度も頑張ってこれたのならきっと今回も頑張れる。産まれた子を父親のいない子にしないで……」 「紫音……」 ズルい言い方をした。 こう言えば笹本はそれ以上何も言えない、踏み越えて来ない。 それでもこれが、自分がこの男に返せる最大の愛情だと思った。 「あの時最初で最後と決めたことは……間違いではありません。それをあなたが証明してくれるんでしょう?」 濡れ始めた目で見上げる紫音を今一度笹本がきつく抱く。 「言わせてごめん……」 首を振る紫音の身体からジャスミンに似た香りがふわりと香る。 「いい香り」 いつもの笹本の声に紫音がふふと笑う。 「お庭に垣根になっている花があるでしょう?あの香りです」 「ああ、あの花。夜咲くなんて珍しいよね。なんて花?」 「匂蕃茉莉《においばんまつり》と言うんです」 紫音は笹本を見上げながら言い、笹本の胸を押し離れた。 「みなこ先生が、あなたのお花ねと言ってくれた、私の大好きな花です。 覚えててくださいね」 「約束するよ、忘れない。だから紫音…最後にキスを」 微かに緩めた口元とは反比例に紫音の眉が下がる。 笹本の顎に唇を触れさせると紫音は大きく一歩後ろに下がり笹本と距離をとった。 「会えて嬉しかったです。でも、もう来ないでください…」 声が震えて聞こえなかっただろうか。 胸の前で組む指が震えているのに気付いていないだろうか。 嘘だと見破られていないだろうか。 望まない。 だからどうか光の中を生きていって_______ 笹本の手が伸ばされ紫音の頬に触れる。 愛しそうに軽く撫でた指が触れにきた時の倍の時間をかけてゆっくりゆっくり離れていくのを滲む目で追いかけた。 笹本は頬を緩ませ笑って見せてから一人で部屋を後にした。 静かにドアが閉められたと同時につうと頬を涙が流れた。 これでいい。 これでいいんだ。 そう何度も何度も言い聞かせるように呟く。 まだぬくもりの残る頬を自分の手で包みながら紫音は涙が止まるまで呟き続けた……

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