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望む六夜

その日の夜、夕飯を食べ帰宅しようとした紫音を山名が珍しく引き止めた。 「たまには年寄りの戯れに付き合ってくれないか」 ロックグラスを振りながら笑う山名に紫音も笑みを返す。 「私は飲めないですよ」 「じゃあ紫音はコーヒーか紅茶を、あ、志島くんがくれたお土産に柑橘のお茶があった」 「私も頂きましたよ。ハーブティーですよね」 「家に置いて紫音に飲ませるためだろう。儂は草の茶なんぞは飲まんからな」 「草って」 山名の言い方に笑いを零す紫音を山名が眩しい光を見るように目を細めて見詰める。 「……先生?」 「答えたくなければ答えなくて良い。紫音と笹本くんは恋仲だったのか」 「…………違いますよ」 「この歳ともなれば大抵のことは受け入れられる。誰にも言えないことを一人抱えて生きていくには紫音はまだ若すぎる、どうせもうそれほど長くない老いぼれに全部話してみなさい」 諭すように宥めるように言う山名に紫音は小さく頷いていた。 この夜、山名に口を開いた紫音は聞いて欲しかったのだと自覚するほど饒舌に長い時間をかけ全てを明かした。 自分の育った環境。 恩師であり母親だと縋った愛しい人。 宝物のように大切にしてくれる義両親。 失意の中出逢った求めてやまない男。 ルーツを探るために幾人の男と夜を共にした汚れた自分。 笹本に惹かれ溺れかけ道連れにしてしまいそうになった罪深い出来事。 山名は強い酒を少しずつ飲みながら時折相槌を打ちながら疲れた素振りも見せずに聞いていた。 「紫音……年寄りの戯れ言を聞き入れてくれないか」 濃く深く皺を刻む山名の手の中でグラスの中の氷が澄んだ音を立てた。

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