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第1話

矢口はじめはその後輩の名前を知っていた。昼食の時間からずれ、人がまばらな食堂に座るはじめを見下ろしているのは、一ノ瀬しのぶという、サークルの一個下の後輩だった。軽く言葉を交わしたこともあるが、面と向かって二人で話すのはおそらくこれが初めてだ。 「えっと、念のためもう一回いってもらえる?」 うどんを掴んでいた箸を一度起き、少し混乱しながらはじめが聞き返すと、白のハイネックシャツと黒のタイトなボトムに身を包んだしのぶは、表情一つ変えずに言葉を繰り返した。 「はじめさん、俺とデートしましょ。」 はじめの聞き間違いではなかった。どうやらこの後輩は、自分とのデートを望んでいるようだ。二人の性別は男と男。関係は同じサークルの特別親しいわけでもない先輩と後輩というだけである。はじめにはしのぶがどういった考えで自分に対してそのような声がけをするに至ったのか疑問ではあったが、特に断る理由もなかったのでいつもの彼らしく答えを返していた。 「うん、いいよ。」 自分がしのぶとデートをすることによって悲しむ人間はいるだろうか?否、ちょうど2週間ほど前に交際していた女性からは別れを切り出され、はじめがデートをしたところで浮気だなんだと声を荒げる立場の人間はいない。 そして、目の前のしのぶは、何故だか知らないが自分とのデートを望んでいる。その望みを叶えない理由がなかった。 この思考のシンプルさからわかるように、はじめは自分の意思が実に弱い人間だった。自分自身の好き嫌いにも疎く、自分の意思が物事の決定理由にまず入ってこない。そのため、人から頼まれたことは基本どんなことであっても実行してしまう。本人は自分のそんな性質が、変わったものだという自覚は全くない。周囲の人間も、はじめの柔らかな人当たりから、空っぽな人間性を優しさからなるものだと誤って認識していた。(一部、例外も存在しているが。)そうして他の人間なら断ってしまうような頼まれごとも容認してしまうはじめの態度を、これは自分だけに優しいのだと勘違いし、女(時に男)ははじめの元に順々に交際を求めていく。相手がいない場合にははじめには断る理由がないので、もちろんその申し出を受け入れる。しかし、長続きはしない。なんせ、自身の意思が薄く、好き嫌いがわからない男なのだ。恋人としてのやることをやっても何も変わらず、自分の言葉がまるで響かないはじめに、私のことは好きではなかったのねと例外なく別れを切り出していった。そんな言葉にもはじめは特に落ち込んだりショックを受ける事もなく、相手の望みを叶えるために、いいよと答えるのみであった。(引き留めろと声をあげる相手もいたが、はじめにはそう言われる理由が全く理解できなかった) 「じゃあ、いろいろ予定とか立てたいんで、連絡先教えてもらってもいいですか。」 「僕ら繋がってなかったっけ。ちょっと待ってね。」 シンプルなキャンバストートから自身のスマートフォンを取り出す。今はお揃いのケースを強要してくる相手もいないため、生身のそれを操作し、SNSアプリの画面を開く。登録されている友人の名前がずらりと並ぶが、そこにはじめの心が動かされるような名前はない。 しのぶからIDを聞くとはじめは慣れた手つきでアプリに入力する。一ノ瀬しのぶ、と後輩の名前と初期設定のアイコンが表示された。自分の顔写真や、趣味に関する写真などを設定するタイプの人間では無いようだ。そのまましのぶに対して簡単メッセージを送信し、確認の意図の視線を送る。しのぶはこくりと頷き、正しく設定できたことを伝えてくれる。 「また連絡します。」 「うん、わかった。」 そういうとしのぶは食堂から去っていった。おそらく次の講義の場所に向かったのだろう。あれよあれよと言う間に後輩とデートの予定が立ったが、面倒だとも、楽しみだともはじめは感じていなかった。変わったこともあるものだな、それくらいの認識だった。 「あれ、しのぶじゃん。何話してたのお前。」 「なんかね、僕とデートしたいって。」 「はぁ!?お前とぉ!?」 はじめより遅れて昼食を買いに行っていた実がしのぶと入れ違いになる形ではじめの元にやってきた。実が好きなラーメンが乗ったトレイを持ちながら、はじめの正面の席に腰掛ける。今し方あったことを簡潔に説明すると、実は眉をあげ、顔を歪めながら大きく驚きながら声を上げた。 「変わったやつだな〜こんなやつとデートなんざ言っても何も楽しくねぇだろうに。」 「あはは、ひどいなぁ。」 実ははじめの異常性を認識している数少ない友人だった。高校から一緒にいるが、はじめのがらんどうな性質に気付いた後も、はじめをつまらないやつと表現しつつ、共に行動をしている。実は自分を中心に世界を回すタイプの人間なので、自己主張が少ないはじめとは相性が良かった。 「しのぶのやつ何考えてんだかな。」 そう呟くと実は麺をすすり、もう今の話題に特に興味が無くなったのか、次の講義の課題について文句を垂れ始めた。実の愚痴に適当な相槌を返しつつ、一体しのぶは自分をどこに連れていってくれるのかと、はじめは思いを馳せるのだった。

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