4 / 4
第4話
一ノ瀬しのぶはその先輩の名前を知っていた。名前だけではなく、サークル内で広まっている噂についても。なんでもその先輩は、人から頼まれたことにはYESと応えてしまうらしい。
名前と顔は何となく知っていたものの、一個人として認識したのは、ある日のサークルの飲み会だった。同じ学年のサークル仲間に誘われて参加し、最初に座ったテーブルに同席していた名前も知らない先輩が、遠くの席に座るはじめさんについてペラペラと話していた。あいつはとても優しく、人から頼まれたことを無碍に断ることがない。朝の講義の代理出席や、テストの過去問とかもらいに行くといいぞと笑っていたが、どことなくその話し方は下世話な印象を受けるようなもので、言葉の端々に男の嫉妬のようなものが見え隠れしていた。話題に上がっている先輩の方へと目を向けると、温和そうな印象を受ける優しそうな好青年という表現がしっくりくる人が座っていた。外見もそこそこ整っていて、正面に座る男がこんな態度でしゃべるのにも納得がいった。はじめさんは、隣に座る赤茶色の髪をした男に中途半端な量のビールを押し付けられていた。
飲み会も終盤になり、ちらほらテーブルに突っ伏す人が現れ始めたころ、何となく思い立ってはじめさんに目を向けると、今度はバチバチに化粧をしている女にカクテルを押し付けられていた。確かはじめさんの彼女だと最初のテーブルにいた先輩が話していた女だ。女ははじめさんとの関係をアピールするかのように、露骨なボディタッチを繰り返している。はじめさんに対して甘えるような目をして話し掛ける女に、はじめさんは曖昧に笑いながら応えていた。
この人、自分の彼女に興味がないんじゃないか?はじめさんが女に目を向けるのは、女が話かけたときだけ。そしてこれは感覚的なものだが、はじめさんの目から、女に対する興味や愛情といった感情の色は見受けられなかった。人から頼まれたことには何でもYESと応える、優しい先輩。本当にそうだろうか?俺の中で矢口はじめという人間に対する、特に意味があるわけでもない好奇心が芽生え始めていた。
女が他のテーブルの女に呼ばれ、はじめさんに手を振りながら離席した。はじめさんは女に押し付けられたカクテルを軽く上げながら微笑んで女に応えていた。俺は半分ほどビールが入っているグラスを片手に、はじめさんの隣の席へと向かった。
「すみません、ここいいですか?」
「あぁ、どうぞ」
はじめさんは女から押し付けられたカクテルを一口飲んだ。…あんまり飲み進んでないな。
「はじめさん、飲み会の最初のほう誰かからビール押し付けられてましたね。」
「え?あぁ、見られちゃってたんだ。なんか恥ずかしいな。気分じゃなくなったって言われちゃってさ。」
そういって笑うはじめさんの表情には、理不尽な理由でビールを押し付けてきた相手に対する不満といった負の感情は一切なかった。頼まれたことを断らないというのはどうやら本当で、それに対してこの人は特に嫌な思いをすることも無いようだ。打算的な意図があるようにも感じられなかった。今まであったことのないタイプの珍しい人間だなと思った。
「そのカクテルも彼女さんに押し付けられたんですか?」
すっかり汗をかいたグラスに入っている女性が好みそうな葡萄色のカクテルは、俺が見かけたときからあまり減っていなかった。
「いや、これは僕が好きだからって理由で譲ってくれたみたいで…」
「へえ?」
飲み会の終盤とはいえ、好きという割には減ってなさすぎじゃないか?俺は自分のグラスをはじめさんの前に置き、はじめさんが持っていたカクテルのグラスをもらった。はじめさんは俺の意図を測りかねているようで、きょとんとした表情を浮かべている。
「交換しましょう」
「別にいいけど…どうしたの?ビール嫌い?」
噂に違わず、はじめさんは俺の申し出を断らなかった。彼女に好きだと言われているカクテルを奪われても文句ひとつ言わずに、俺が差し出したビールをくぴくぴと飲んでいる。この人、まじで自分がカクテルのほうが好きだと思ってんのか?
「もし違ってたら申し訳ないんですけど、はじめさんって、カクテルよりビールのほうが好きなんじゃないですか?さっきまでカクテルは全然飲み進んでなかったのに、今ビールは抵抗なく飲んでますよね。何となくですけど、飲んでるときの顔も、ビールのほうが楽しそうですよ」
はじめさんは口をポカンと開けて、俺のほうを見たまま固まっている。自分の女の発言を否定されて、怒りを覚えていたりするのだろうか、この人も。と思っているとはじめさんの表情が途端に笑顔へと変わっていた。
「本当だ!僕って、ビールが好きなんだね!」
そのときはじめさんが浮かべた笑顔は、俺らのような年齢の男性が見せるようなものではなかった。もっと幼い、周囲の人間に守れることしか知らない子供が、大好きな母親に名前を呼ばれて、心の底から無邪気に喜んでいるような、邪な感情など一切ない、あどけない笑顔だった。
その時はじめさんを見てどんなことを感じたのか、俺は自分自身の感情を理解しきれなかった。近くにいるくせしてはじめさんの酒の好みにも気づくことができない女に対する優越感みたいなものはあった気がする。はじめさんのあの顔が頭から離れなかった。あの笑顔を思い出す度、はじめさんが俺の心に焼き付いて、火傷の跡の様なものを残していく。
あの夜から、俺ははじめさんを手に入れたくて仕方がない。
ともだちにシェアしよう!

