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駄犬と秋猫 第一章

ピピピピ……ピピピピ…。セピア色の靄がかかった世界に、場違いな電子音が割り込んでくる。だんだん靄が晴れていって、今まで体験していたものが全て夢だったのだと知る。最近いつも同じような夢を見てる気がするんだよな。意識すると内容はぼろぼろと抜け落ちていくのに、さっきまでの俺はひどく必死だった。叫んでいた気がするけれど、実際に声を出してはいなかっただろうか。 ふぅーっと深呼吸をする。昨日の空気を排出して、今日の空気を取り入れる。放り出された自分の四肢を背負うように起き上がると、頭までずっしりとのしかかってきた。昨日調子に乗って流し込んだスト缶が、だいぶきいてるみたいだ。ライトニングケーブルが繋がったままのスマホを起こすと、「11:45」の下に、同じ名前の羅列を示した。 ―仲本千章 3分前 起きたら来い ―仲本千章 6分前 ゆうまー ―仲本千章 7分前 起きてるかー? ―仲本千章 9分前 今日暇? 「仲本千章」その四文字を自分のロック画面に見つけただけで、さっきまで重かった手足が嘘のように舞い上がる。俺の姿を傍から見ていた人がいたら、突然むくりと起き上がって勢いよく行動を始める姿にぎょっとするだろう。俺はシャワーを浴びずに頭ごと髪を濡らしただけで、家を飛び出した。 立ち漕ぎで受ける十一月の風は想像よりずっと冷たく、体の芯を凍らしていく。頭をちゃんと拭いて出てこなかったことを少し後悔した。でも、たくさん漕げば、千章さんの家に着くまでの時間は短くなる。千章さんの体まで、あとちょっと。急いた気持ちを思い切りペダルに乗せた。 * 反則だろ、こんなキス。いつも思う。千章さんは俺を絡めて離そうとしない。まるで何かに取り憑かれたみたいに。 「千章さんっ…、もう俺、もたないっ…」 「ん…、出して…」 「でも…」 まだ全然足りない。もっと、もっと千章さんを…。 「もっとっ…したい?」 「ふっ。ん…、出る、イッちゃう」 「んんっ、ゆうま、あっ…!」 挿れて数十秒。俺は千章さんの温かい奥に吐精した。いつもより早い、長い絶頂。それが終わると強い疲労感が襲ってきて、そのまま千章さんの上に倒れ込んだ。しん、とした部屋に、二人の深い吐息だけが妙にうるさく響いている。セックスをする時は、二人の間に愛がなくても、その愛が一方通行だとしても、ポーズだけは愛し合う形になる。だから俺は、こうして求められるたびに、期待の灯を消すことができない。 千章さんは俺の体から這い出ると、ベランダのドアを開けてタバコに火をつけた。ウィンストン、八ミリ。パシらされるから覚えた、俺が唯一ちゃんと知っている銘柄。千章さんの横顔から伸びる白い筒は、使い捨てのくせに俺より主人に愛されている。そこからゆらゆら立ち上る紫煙が、冷たい外気に乗って俺の鼻先まで漂ってきた。 「うー…さみー」 思わずエアコンのリモコンを探してしまって気づく。ここのエアコンはもうずっと死んでいるんだ。いつからかは知らないけど、俺が初めてここに来た時にはすでに、使い物になっていなかったと思う。夏に来た時はいつも、それはもう酷い暑さで、部屋中の窓を全部開けて、汗だくになりながら麦茶を飲みほしていた。 あの時、自分から全く触れることができなかった千章さんの体に、今はこんなに強く触れるようになったし、憎まれ口を叩くこともできる。それなのに、少し離れて横顔を向けた時だけは、もう二度と帰ってきてくれないのではないかと思うほど、千章さんを遠く感じる。あの人の本当の寂しさを、俺はみじんも知らない。 千章さんが背を向けたまま引き出しを探り、ほれ、とボルドー色のセーターを投げる。人遣いは荒いけど、気遣いが染みついた優しい人だ。現に今だって、俺のために窓を開けてタバコを吸ってくれている。投げられたセーターを拾って縋りつくと、まぎれもない、千章さんのにおいがした。タバコと喫茶店の香りの中にある体のにおいは、秋の夜の空気に似て、深い。 千章さんは俺に一瞥もくれないまま、細すぎる体を風に晒して、心底うまそうに喫煙する。俺がどんなに頑張っても、あんなスッキリした顔をさせることはできないから、やっぱりタバコに嫉妬してしまう。くたばれ、ヤニカスめ。いくら心の中で罵っても、目を奪われてしまうその横顔は、俺の中で千章さんが千章さんになった日と何も変わらず、きれいだ。 * 「え、それどこのカフェっすか⁉」 「声でけーって」 前の席の女子学生が、少しだけこちらに耳を向けて怪訝そうな顔をする。そんなことより、あの人がカフェでバイトしているということの方が、俺にとっての最重要事項だった。 俺と、隣に座ってる鈴木先輩が所属してる日本文学のゼミには、教授の手伝いで入ってる院二年生のTAがいる。仲本千章、という名前のその人は、全然つかめない人だった。 いつも独特な猫背で教授の横に腰かけていて、終始つまらなそうにしている。というより、こんな下等な学生の集まりに付き合わされてうんざり、という顔をしている。なのに、紛糾した議論に突然本質を突いて、一瞬で全員を黙らせたりするから、ゼミ生からは一目置かれていた。それから特筆すべきは、恐ろしく顔が良いということだ。少しつり上がった目は切れ長で気高い。通った鼻筋ときゅっと引き締まった唇。でもいつも木で鼻を括ったような表情を浮かべて、人を寄せ付けない雰囲気がある。実際、あの人が誰かと親しくしているのを見たことがない。 そんな人がよりによって、カフェなんてコミュ力が必要そうなバイトをしているだなんて、これを拝まない手はない、と思った。今思えば、俺がこんなに他人に興味を惹かれたことなんて、後にも先にもないことで。もしかしたらこの時既に俺は、千章さんが仕組んだ罠に両足を突っ込んでいたのかもしれない。 「で、それ、どこですか!」 「お前、人の話聞いてねえだろ」 先輩は俺の頭をげんこつで軽く叩きながらも、その店のマップを送ってくれた。 * 「おーい、佑真、十番行こうぜ」 「わりい。今日俺行くとこあって」 「まじかー」 サークル終わり、恒例のラーメンの誘いを泣く泣く断り、俺はマップに示された店へと向かった。喫茶店「カトレア」は、霊感のある人なら眉をひそめそうな暗い路地に、一軒だけ風格ある佇まいで建っていた。 「失礼しまーす」 ドアを開けた途端、カランカランと鳴った音が思いのほか大きくて、思わず縮こまる。おそるおそる顔を上げると、意外と中が開けているのに驚いた。常連らしき客が二、三、静かにコーヒーを啜っている他は、すごく静かだ。しかしそこに嫌な緊張感はまるでなかった。昔から知っている場所のような、懐かしい空気と珈琲豆を焙煎するにおい。 そして奥のカウンターの後ろに、その人の姿はあった。戸棚を整理する長身の若い店員。その人が振り向いた時、閉じていくドアが乾いた音を奏でた。今度は控えめに、カランコロンと。恋に落ちる音があるなら、こんな音に違いない。俺はその時とっさにそう思った。でも今考えれば、それはまごうことなく、俺が恋に落ちた瞬間だったんだと思う。 千章さんは俺を一瞥して、お好きな席へどうぞと、店員然とした態度で接した。どぎまぎしながらも、千章さんの対角にあるカウンター席に腰かける。想像してたカフェと違う。これだったらコミュ力がなくても大丈夫そうだ。 改めて目の前の青年を目の端で観察した。生成りのシャツも栗色のエプロンも、この人のためにあつらえたかのように画になっている。明るい色の長い髪は、無造作に束ねられていて、すっきりした輪郭が薄明りに映えていた。こんなにきれいなのに、普段髪に隠れているのはもったいない。同時に、こんな人が不特定多数の人の前に晒されて労働していることが、無性に悔しく、不安になった。目の前のカウンターには理科の実験用具のような変哲な器械が並んでいる。そのうちの一つに、目を惹かれた。 「それはサイフォン。コーヒーを淹れるための道具」 いつの間にか前に立っていた千章さんが、初めて見る柔らかい表情で話しかける。俺が声を出せずにいると、千章さんはまた店員モードに戻って、ご注文は、と尋ねた。  「えっと、ホットココアで」  千章さんは、かしこまりました、と恭しくお辞儀をした後、俺にしか聞こえないくらいの声で、コーヒーも飲めないくせによく来たな、と言って含み笑いをした。それから作業をしながら俺に話しかける。 「植村くん、だっけ。誰かに教わってきたの」 俺はまさか自分の名前を認知されてるとは思わなくて、上ずった声で答えた。 「す、鈴木先輩です」 「すずき、すずき…あー、眼鏡か。そういえば言ったな…」 独り言のように千章さんがぶつぶつ言うから、俺は何を言えばいいか分からなくなった。そして眼前の見慣れない景色をひたすら眺めた。ここがこの人が長い時間を過ごしてきた世界だ。 サイフォンと教わった道具の横には、見たこともない酒の瓶がたくさん並んでいる。その中の一つに、また目を奪われた。透き通る朱色に似たレッド、瓶の後ろに移る千章さんが映える色だと思った。その瓶を食い入るように眺めていると、千章さんが、ここ夜は酒も出すからな、と言った。 「これどんなお酒なんですか」 「カンパリ。多分お前が思ってるより、苦いよ」 おまえ、と言った。俺はたぶん、生まれて初めて、お前と呼ばれて嬉しいと思った。 「もう、酒飲めるんだっけ?」 「は、はい。まぁ合法的に飲めるようになったのは、つい最近っすけど」 「そっか、若いな」 千章さんはおっさんみたいなことを言って、ココアをカウンターの上に置く。俺は急に、自分が頼んだココアが恥ずかしくなった。 「そういえば、なんかあって来たの?」 「あ、えーと、昨日のゼミで、どうしてもわかんないことがあって」 どうしてそんな嘘をついたのか分からない。千章さんがちゃんとバイトできているか見に来た、なんて言えないにしても、もっとマシな言いようがあっただろう。俺は昨日のゼミで何をやってたかすら曖昧ってレベルなのに、ボロが出たらどうするんだ。千章さんは、顎の下に手を当てて、ふーん、と吟味するみたいに俺を眺めて、思いついたように言った。 「あと一時間でここ閉店だから、うち来たら?」 「いいんすかっ?」 「声、でかい」 「よく言われます…」 そうして俺は、初めて人を好きになった日に、その人の家に上がり込むという、俺の人生史上初の大躍進を見せた。家はバイト先から近いからすぐだ、と言っていたのに、ビールとカートンのタバコを持たされた挙句、結局二十分も歩かされた。坂を何度も登った先の、お世辞にもきれいとは言えない風貌のアパートの一室が、千章さんの住処だった。 * 「お邪魔しまーって、広っ! 本棚でかっ!」 千章さんは、ふふふと心持よさそうに笑いながら、机の上を整理する。たくさんの本と紙と吸い殻が手早くまとめられていく。一面だけ青い壁紙が貼ってあるダイニングには、デスクトップのパソコンがあって、その上の本棚にはぎっしりと本が詰まっていた。哲学、純文学、歴史、ノンフィクション、ざっと見ただけでも持ち主の守備範囲の広さがうかがえる。 「文学部なんて女が行く所だ。男なら商学部か法学部へ行け」俺が付属校での成績が悪く、推薦枠で人気のない文学部しか選ぶ道がなくなった時、親父が繰り返し言った言葉だ。昔からモラハラ気質で、酔って帰れば俺の勉強の邪魔をして文句をつける、俺はそんな父親が嫌いだった。文学部は行きたくて選んだ学部じゃないけれど、そんな前時代的な価値観を押し付けられるのは御免だった。親父は千章さんのこの本棚を見ても、同じことを言えるんだろうか。豊富な語彙力と説得力で自分の世界を語る姿を見ても、同じことを思うだろうか。千章さんは片づけを終えると俺を椅子に座らせて流しに向かう。 「散らかってて悪い。今コーヒー…じゃなくて麦茶入れるから」 「あ、はい!」 コーヒーも甘くすれば飲めるんだけどな、飲めないと思わせたことで気を使わせてしまったかな、と少し心配になる。千章さんは何を考えているか分からなくて、それが少し怖い。これからこの人のテリトリーに入って行ってもいいのだろうか、と、土足で室内に入るのを躊躇うようにその場で止まっていた。 「で、嘘だよな。わかんないとこがある、なんて」 まさかバレていたとは。恐ろしい。この人に嘘をついても通用しない、と悟った。この瞬間、俺と彼の力関係が定まって、もう動かないものになったんだ、と何となく確信した。 「そうです…。すいませんっした」 「君、教授や他の学生が言うことなんて聞いてたことないだろ?」 「…はい」 「じゃあ、俺に会いたくて、来てくれたんだ。わざわざ」 俺は肯定も否定もできなくて、ただ下を向いた。本当のところは図星なわけだけど。バツが悪くて、もう喉は乾いてないのに麦茶を口に含む。そしてその台詞を反芻して、千章さんってなんか、少年漫画に出てくるエッチなおねーさんみたいだよな、と思う。 「植村くんってさ、童貞?」 「っゲホッゴホ、ぃゲホ…」 盛大に吹き出したせいで、俺のTシャツはびしょびしょになった。千章さんは、アメリカの子供向けアニメかって動きで慌てる俺を、他人事みたいに涼しい顔で笑っている。やっぱりこの人は、エッチなおねーさんで、悪魔だ。 「ごめんごめん。聞くまでもなかったな」 涙ぐむ俺の顔をタオルで拭う千章さんの手は、泣いている子供をいたわる時のように優しかった。そしてそのままその手は、触れた俺のシャツを魔法のようにはがしていった。 「えっ…」 「ほら、おいで?」 千章さんは部屋の真ん中に置いてある少し広いベッドに腰かけて、自分の隣を、とんとんと叩いた。いざなわれるまま、半裸の俺はそこに座る。するとその瞬間、世界はぐるりと回った。だめだ、今日は色んなことがありすぎる。もう容量がいっぱいですと、俺の中のメモリが悲鳴を上げている。 しかしそんなことは構いなしに、千章さんは硬直して動けない俺の首筋に、柔らかい唇を押し付けては、少し音を立てて離す、を繰り返して、少しずつ位置をずらしてくる。そして耳元に来ると俺の耳たぶを唇で挟んで、ちろりと舐め、吐息で囁く。 「力、ぬいて」 「ひゃっ、…はい」 「いい子」 千章さんのキスは、思いのほか男らしかった。柔らかい舌が無遠慮に侵入してくる。その形を自分の舌でなぞると、かすかにコーヒーの味がした。コーヒー味のふにゃふにゃのキャンディみたいだ。ぺろぺろとその形を確かめると、ふわりとかわして別の形に変化する。まるで飴が溶けてなくなるように。 千章さんは、右手で俺の髪を優しく撫でながら、左手で俺の下半身を急かすように激しくなぞる。この人がピアノを弾いたらさぞ上手いんだろう、などと余裕をもって考えられていたのは、ほんの序盤までだ。何しろ俺にとって、こんなことは全部はじめてのことだった。触られたことのない領域に入ってくるのが、こんなにきれいな人で、男で、年上で、強引で、みだらで、今日好きになった人で。何もかもがイレギュラーだ。でも〈いい子〉の俺は、力を入れないようにできる限り我慢をした。 俺の口腔から脱した千章さんの舌が、何の前触れもなく右の耳殻をなぞった時、自分でも聞いたことのない声が漏れた。 「っひゃ…!」 「ん? 素質がありますねぇ、こんな声出せるなんて」 ここで急に敬語を使ってくるあたり、恐ろしい。この人は変態なんだと思った。でもその人に弄ばれて悦んでる俺も、さしずめ同類か。 千章さんの長い左中指が俺のボクサーパンツのゴムを浮かせる。ブランド名の英字の刺繍の裏を一周すると、いきり立った性器が顔を出した。湯気が立ちそうなほど熱く、湿度が高い。思わず顔を背けようとすると、頭を右手で掴まれて、今度は優しく、口づけられる。思わず浮きそうになる下半身の、一番来てほしいところに、千章さんの左手が吸い付くように触れる。一番いい力加減と速度で締め上げられると、快感の束が細い管をせり上がってくるのを感じた。情欲に身を任せそうになると、千章さんの手が止まる。 「今、イこうとしただろ、だーめ」 千章さんが俺の上に馬乗りになる。ズボンと下着を外すと、整えられた陰毛と、彫刻のように均整の取れた性器が露になった。あぁ、俺は掘られるんだ。そう察した。まさか初体験をこっちで済ませることになるとは思わなかった。中学生の頃の自分に教えたら、卒倒するんじゃないか。でも俺はさっきまでのキスと愛撫ですっかり気を呑まれてしまっていて、この人になら、捧げちゃってもいいかな、なんて思っていた。しかし千章さんは、硬くなった俺自身を手にとると、自分の後ろにあてがって、ぐりぐりと押し込むように馴染ませた。そのまま腰を沈め、ずぶずぶと千章さんが俺を呑み込んでいく。 「んっ…、はぁ…きついな」 えっ、俺、千章さんの尻に挿れてる…?これも、襲われる、に入るのか?その状況を整理するのに、数秒を要した。温かい粘膜に包まれ、全方向から強く締め付けてくる。自分以外の人間の脈動を、こんなにもはっきりと感じる。これが、繋がるってことなのか。 千章さんの長いくせ毛が、紅潮した顔に張り付いている。その顔には、ゼミの最中の退屈そうな表情からは想像もつかないほど、生気に溢れとろけそうな気色が浮かんでいた。  痛みなのか快感なのか、目は緩み、紅く揺れて、ひどく艶めかしい。苦悶の表情を浮かべながらも、本能のままに快楽にすべてを委ねている顔だ。その姿は、発情期の獣を彷彿とさせた。 「はぁ…ん、ん、悦いっ、きもちいぃ…」 なんてエロい声で鳴くんだろう、と思った。普段の落ち着き払った地声とも、先ほどまで俺を言葉責めで弄んでいた時ともまた違う、快楽に従順な擦れた声。俺は初めて、男の声で激しく欲情した。吐息混じりの声がなやましい気色を帯びるたび、俺の竿から先走りが漏れてしまう。 「っく…やばいっす」 「あっ、んん、…ふっ」 千章さんは、俺の唇を貪るように吸い上げ、呼吸を乱す。その間も、もっと強くつながった粘膜は擦れ合っている。千章さんの好きなタイミング、好きな角度で繰り返し、打ち付けられ、片時も止まらない。その度に接合部からは、ぱしゃっ、ぴちゃっと淫靡な音がして、更に俺の想像を掻き立てた。 もっとこの人を鳴かせたい。もっと余裕のない表情を見たい。俺は千章さんの細い体を抱きかかえて押し倒し、角度をつけて激しくピストンを始めた。さっき自ら執拗にこすりつけていた部分、きっとここがこの人の悦いところだ。そこに狙いを定めると、少しひっかかりを感じた。 「あぁっ、やめっ、そ…こ、んんっ!」 「ここ、ですよね?」 「んっ…あっ、いやっぁあ…!」 千章さんは柔らかい枕に横顔をうずめて、激しく体をよじらせた。俺がその顔をよく見ようとすると、火照った顔を更に赤らめて視線を逸らす。今更恥ずかしがったって無駄ですよ。そう言う代わりに、しゃかりきに腰を打ち付けていく。何が正しくて、どうするのがいいのかなんて分からない。だから己に宿る、暴発寸前の野性に全てをゆだねることにした。 「あっ、…はあぁ…ああっ!」 高まるにつれて惜しげもなく繰り出される嬌声。そして反比例するように恥じらいを見せる表情。その矛盾に俺は、かつて抱いたことのない興奮を感じた。 「もぅ…、イっちゃう…からぁ…」 「これ、だけで…?」 「くっ…、んっ、イくっ…!」 一度も触れていないはずの千章さんの性器がびくっ、びくっ、と規則正しく持ち上がる。とろとろと白濁した液体が、白い腹の上に排出される。俺は他人が射精するところを初めてまじまじと見た。他の人のなら萎えそうなものだけど、今はただ、千章さんが俺の動きだけで気持ちよくなってくれたことが嬉しかった。もう感情の制御が効かなくなる。もう俺の限界もすぐそこだった。 「俺も…出しますっ…!」 「んっ、ナカ、きて…?」 その甘えるように上がる語尾が耳に届いた時、俺の理性は完膚なきまでにとろかされた。激しく呼吸を乱しながら絶頂に達する。気持ちいい…。セックスってこんなに気持ちの良いものだったのか。なるほどな、と俺は達観した視点で思った。こんなことを古今東西の先達は経験していたのか。こうやって、子供ってできてくんだな。あ、でもこの人とじゃ子供はできねえのか。 俺が生命の神秘に一人思いを馳せている横で、千章さんはすっかり事が始まる前の涼しい顔に戻ってタバコを咥えていた。吸っていい?と聞いてくるけど、もう完全に吸うつもりじゃねえか、と心の中で悪態をついた。どうぞ、と答えると間髪入れずに火をつける。 吸い込んだ煙をしっかり肺に取り込み、ふぅー、と深く煙を吐く。ベッドの周り一帯がもやもやと副流煙に包まれた。これが千章さんの生活を取り巻いているにおいか。すーっと取り込んでみると、見事なまでににむせた。 「ちょ、だいじょぶ?まじ、無理なら言えよな」 「ゴホいや、ゲホゲホ、ぃんでゴホゴホ」 千章さんは慌ててタバコをもみ消すと、笑いをこらえながら俺の背中をさすった。呻吟から解き放たれる中で俺も苦笑いをする。 「ケホ……水…」 「もう、また吹き出すなよ」 「それ、…フリっすか」 俺が苦しい顔のまま笑うと、千章さんもふっと表情を緩めた。好きだ。この人が猛烈に。そう思った。 「俺、今日初めてこんなことになって…変かもしれないけど」 この気持ちを、今伝えないと後悔する。 「千章、さんのことが…好きかもです。てか、もう好きです」 千章さんは、眉一つ動かすことなく吸い殻を強く陶器の底に擦りつけた。 「そう…」 その横顔は、何かに怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。俺が期待するような答えなんて、多分一生返ってこない。この部屋だけが、現代日本とは隔絶された世界で、千章さんだけがその世界の住人であるかのような錯覚に陥った。そして千章さんは、そんな遠いところに、自分から身を置いて扉を閉ざしてきたのだ、とどこかで気づいた。 その日から、俺は幾度となくその異世界へと招かれて、千章さんの気の向くままにセックスをした。それでも俺は結局千章さんの人生の脇役でしかなく、その横顔や背中をうっとりと見つめることしか許されていない。 二十歳。触れたら爛れるような恋愛が始まった。でもいつまで経っても、俺とその人は恋人にはなれないでいる。

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