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駄犬と秋猫 第二章
他人から寄せられる感情には、人一倍敏感な質だ。人の評価なんて気にしない、みたいな顔をして生きてるけど、実際はいつも気になって堪らない。これは最早一種の病気だ。人に嫌われるのが怖い。俺を気に入ってくれた人間には、とことん好きになってもらいたいと思う。
俺は素の「仲本千章」というものを、もう思い出すことができない。その場の相手と状況に応じて、一番ふさわしいと思われる人格を作り出して、その人物を演じているからだ。そう言うとなんだか、中二病臭く感じられてしまうかもしれないが、これだけが俺が二十四年の人生の中で身に着けた唯一の生きる術だった。
そんな生き方をしているうちに俺は、相手が一番俺に望む言動や態度を瞬時に見つけられるようになった。そしてそれらを、相手の気の召すままに与えることができる。その中で、俺のことを少しでも気に入ってくれそうな人と、端から難しい人を嗅ぎ分けられるようになっていた。
植村佑真。こいつの視線に初めて可能性を感じたのは、出会ってから少し経った頃だった。ゼミの間、ずっと上の空で、居眠りも多い不真面目な学生。それが第一印象だった。文学なんて、みじんも興味がないのだろう。付属校からの推薦で、他へ行けなかったから文学部に来た、みたいなことを自己紹介の時に言っていた。それをその文学部の教授の前で言っちまうところに、知能指数の低さがうかがえる。確かにお前みたいなやつ、人気学部なんて行けないだろうが、なめんじゃねぇ、と思った。実際に、彼が書いた文章は日本語からして基礎ができていなくて、教授にはレポートを「駄文悪文だけで構成されている」と評される始末だ。
おまけにやつは、自己肯定感が服を着て歩いているような、俺が一番苦手とするタイプの人間だった。バンドサークルに入っているとか言っていたのに、楽器を持っているところは見たことがない。後輩があそこは演奏をしないことで有名なバンドサークルなのだ、と言っているのを聞いたことがある。酒を飲んで騒いだり、ボーリングやバーベキューをしたりするために大学に入ったという部類だろう。俺はそういう連中が一番嫌いだ。相性が悪そうだと思ったのは当然のことだ。
そんなある日、あいつが、唯一人間らしい表情をする時があることに気が付いた。それは決まって、ゼミで俺が目立っている時に訪れる。その目線には、滔々と文学論を語る俺への憧憬の他に、少し翳りのようなものが入っていた。それが後ろめたさなのか、嫉妬なのかは分からない。でも、確かにこれは好意へと変化する余地のある感情だと判断した。
格好の獲物だ、と俺の中に棲む獣がグルルと牙をむいた。それからは彼の視線に気を留めるようになった。意識的に目を合わせたり、格好つけたりして、興味を惹く。あいつがいる時に張り切っている俺はちょっと、いやかなりダサいだろう。でもあの視線を浴びると、経験したことのない、麻薬物質が分泌されるような快感が脳を走った。
だから数か月前、突然俺のバイト先に向こうから訪ねて来た時は、まさにカモネギだと思った。だから取って食ってやった。玩具にして、すぐにポイ捨てするつもりでいた。しかし誤算があった。体の相性があまりに良すぎたのだ。クセになってしまった。使い捨てればいいものを、何度も何度も弄んでいるうちに、相手をいよいよ本気にさせてしまったようだ。初日から好きです、などと面と向かって言ってくるような男だ。あまり信用はしていなかったのだが、この頃の尽くし様は見事なものだ。これは厄介なことになったと思いながらも、惰性で家に置いてしまっている俺は、心底クズ人間だと思う。
ふーっと息を吐いて首を回す。目の前には俺が連ねた文章の山。俺は大学院を卒業しても文学にかじりつくつもりで、小説家を目指している。次の新人賞に応募する小説を手直ししているのだが、すっかり煮詰まり中だ。このままじゃ、何もかもがありきたりだ。以前「尖ってる」と一部の人間に評価された俺のダダイズムの良さが最近、全然活かしきれていない。
プリントアウトした初稿と睨めっこしていると、いつの間にか背後に回っていた佑真が、突然腹から声を出す。
「これって、千章さんの小説ですか?」
「わっ、いきなり話しかけんな…。そうだけど」
「読んでもいいすか」
「駄文悪文の植村のくせに?」
その不名誉な肩書きを持ち出すと、流石に傷つくのか、あからさまにしょげるのが面白い。
「まあ、いいけど…初稿だからだいぶ粗削りだぞ」
よっしゃー、と歯を見せてはしゃぐ。表情がコロコロ変わって忙しいやつだ。それにしても、こいつが自分から活字を読みたがるなんて、明日は槍でも降るだろうか。だが素人の感想はを得られるのは貴重だ。できるだけ文学に触れていない人の率直な感想を欲していたから都合が良い。
佑真は、俺の横に立ったまま、いつになく真剣な顔で、クリップで留められたコピー用紙をめくっている。自分が書いたものを他人に読まれるというのは、心の奥にあるものを差し出すことと同義だ。しかも何度も体を合わせた相手に、となると何ともむず痒い気分だ。待っている間、居心地が悪くて仕方なかった。佑真は最後まで読み終わっても、そのまま何も言わず黙っている。
「どう?」
「なんかこれって、すごい不思議な気分です」
稀に見る神妙な面持ちだ。思考を巡らせて、拙いながらも気持ちを言語化しようとしているのだろう。
「不思議って?」
「なんつーか、ずっと画質悪い動画、見てるみたいな感じ…」
ハッとした。画質の悪い映像、聞こえの悪い音声、俺はまさに、そんな語り手をイメージして書いたからだ。語り手でありながら、大事な情報に欠いて信用できない。それは俺自身の生き方にも似ていた。相手に合わせて、一番欲しい言葉をくれてやる。相手が好む人物なら、こう言うだろうということを的確に話して、自分の本心は決して表に出さない。だから深い付き合いになれば、掴めない人だと言われる。心からの友人ができない。家族にさえ、心を開けたことはなかった。
それなのに、俺の文を一読しただけで、佑真はそれに気づいた。語り手に不審な要素を入れて、メタ的な読み方をさせる手法は、実は文学においてしばしば用いられる。しかしゼミ中一度もまともに話を聞いていることがない佑真が、それを意図的に認識したとは考えにくかった。ともするとこいつには、読む素質があるかもしれない。俺が面食らって黙っていたためか、慌てて言葉を付け足す。
「いや、読みづらいってわけじゃないんです。むしろ、めちゃくくちゃ分かりやすく文章は入ってくるのに、この人の言ってること、信じていいのかって思うっつーか」
「分かってる」
胸が高まるのを止められなかった。それでも、容易く認めてはいけない。鍵を明け渡すことになる。俺の心の裡を、晒すことになる。
「分かってる。ありがとう」
二回同じことを繰り返して、礼を言っただけ。そんな薄情な俺の対応にも、佑真は機嫌を損ねたりせずに屈託なく笑っている。
「俺は、もうちょっとだけ人間味があった方がいいなと思ったんすけどね…」
「人間味…」
「ほら、この主人公って、何考えてるか分からない上に共感できることも少なくて、感情移入はしにくいなって」
なるほど、と思っていると、佑真は「ま、俺の感想なんてあてにならねえと思いますけど」と笑って、またスマホのゲームに夢中になった。
佑真の感想はもっともだ。本当は、スランプの原因は自覚している。最近、書きたいことがなくなっていることが問題なのだ。生半可な気持ちで書きたくもないことを書いているから、それが佑真にも「分からない」という形で伝わったのだろう。それではどの審査員にも届かない。行き詰まりだ。憂さ晴らしに酒でも煽ろうと思ったが、切らしていることを思い出した。
「なー、ビール買ってきて」
「やっすよ。俺が飲むやつじゃねーし」
「んー、じゃ一緒に行こうぜ」
「は? 俺行く意味あります?」
「お菓子買ってやるから」
「マジで⁉ 行きます」
なぜか、一人で行くのは何となく気が引けた。こいつを一人で俺の家に残すのも気持ちが悪いし。秋も深まってきたというのに、佑真はビーサンにTシャツという出で立ちでバタバタとついてくる。本当に騒々しいガキだ。俺が二十歳の頃はもっと…。そう考えると仄かに頭痛が走った。考えるのをやめる。こうして考えることと向き合わないことが、最近増えた気がする。こいつといる時間が増えたせいだ。創作をする人間にとって妨げでしかない。そろそろ家から追い出さないとな。とはいえ、創作の意義すら見失っている俺に、そんなことを言える資格はないのだろう。
最寄りのコンビニに着くと、ちあきさーんパピコも買っていいすかー、と大声で聞く。勝手にしろと返事をしながら、ふと思った。傍から見たら俺たちは何に映るだろう。二十歳と、二十四歳。性格は正反対。見た目もちぐはぐ。改めて考えると、なんだか滑稽だ。
「あとで分けて食いましょう」
「いいよ全部ひとりで食って」
「何で? これ分けるとうまいっすよ?」
「味は変わんないだろ。大体、甘いもん苦手なんだよ」
こんなくだらないことではしゃいだり、しょんぼりしたりできる、そのめでたさに尊敬の念すら覚える。肝心のビールの缶を次々とカゴに放ると、カシャカシャと聞きなれない音がして思わず手を止めた。佑真が入れた菓子の袋だと気づいて、俺の領域に他人が侵入していることを思い知らされる。実に不愉快だ。許した範囲を越えて土足でずかずかと入ってきやがって。
その張本人を睨むと、生活用品の棚の一番下の商品をまじまじと眺めている。近寄ってみると視線の先にあったのは避妊具の箱だった。
「次は俺これがいいっす」
「ばか。やだよ。ただでさえお前、はえーんだから」
「ほんとは生でシたいけど、千章さんの体大事なんで、だから薄いやつで」
返す言葉に詰まる。こういうところが本当に苦手だ。少女漫画の台詞か何かか?と思いかけて、少女漫画にこんなやつは出てこないか、と我に返る。そうやって思考を乱されていることでもう、調子が狂う。なによりも、こんなガキの何の捻りもない言葉で、欲情しきっている自分が許せない。帰ったら原稿を仕上げるつもりだったのに。こいつがいると予定が狂ってばかりだ。
「あしあとやしたー」
遠ざかる店員の感情のない声と、ドアの開閉音をバックに、佑真が歌いだす。
「二人よりそってあるーいて、とわのアイをかたちにぃーして」
「何で急に」
「さっき流れてましたよコンビニで。いつまでもきみのよーこで…」
そうだったか。全く聞いていなかった。佑真の熱唱に、すれ違ったOL風の女性が顔を歪める。最悪だ。俺も同類だと思われた。しかもどんどん音量が上がっていく。本当に、騒がしいやつだ。
「おい、うるせーぞ」
「あぁーあ、あいしてるじゃ、まぁーだ」
「佑真」
「はーぁい。この曲オケ飲みだったら超盛り上がるんすよ?」
「おけのみ?」
「カラオケ飲みっす」
佑真は、俺が普通の大学生なら当然知っていることを知らなくても、決してバカにしたりはしない。俺を年寄り扱いしているのかもしれない。というか、年寄りだと思っているのかも。だとしたら許さない。
「この曲だったら、画面におじいちゃんが出てきたら、イッキ」
は? と口を開けて深くため息をつく俺を見て、ザ・どや顔という表情で、分かってないっすねぇとのたまう。分かってないのはお前の方だろ。そんな遊びに使われて、曲作ったヤツは悲しんでるよ、と言うのは心の中までに留めておいた。これ以上は不毛だ。
「いつも、きみのみぎのてのひらをぉ」
何度言わせたら黙るんだと制そうとした時、俺の右の掌を、佑真の左の掌がそっと包み込んだ。
「あ」
あったかい。佑真の柔らかい手が、ぎゅっと俺を握りしめる。思わず声を出してしまった俺に、無駄に歯並びのいい白い歯をにっと見せて笑いかける。くそ。何なんだ。ちょっと前まで童貞だったくせに。俺以外は知らない、素人童貞みたいなもんのくせに。こんな気障なことしやがって。
中途半端なところで佑真が歌うのをやめる。右手でブンブンと振り回しているビニール袋が、佑真の右半身を打ち付ける音だけが気まずく鳴っていた。自分でやっておいて、変なところで照れるんじゃねえ。そう思いながらも、勇気を出してした行為だったのかと思うと、安堵に似た感情が胸の中を滑り降りていった。
途中で止められたせいで、この歌詞の続きが頭の中を流れてしまう。やめろ。やめてくれ。愛だの、恋だのといった感情を、自分の中に持ち込みたくない。俺のポリシーは恋人を作らないことだ。好きな人も、絶対にいらない。そんなのがいても、苦しいだけだ。いつ裏切られるか、と怯えるだけ。いつからか、街で寄り添い合うカップルを見ても、ヤるために必死こいてんな、ご苦労様、としか感じられなくなっていた。第一、女というものは信用ならない。その場でいい顔をしていても、裏で何をしだすか分からない。勿論そうじゃない人もいるとは思うが、見抜く才能が俺には足りないから、深く付き合うことはしたくない。それなら後腐れのない関係のセフレを二、三人作っておくだけの方が、よほど気が楽だ。
だから、こんな馴れ合いみたいなことは、俺を巻き込まずによそでやってくれ。そう思うのに、この温もりがじんわりと身体を締め付けて、振り払うことを躊躇わせる。
「あ、イッキしないと」
「え?」
「だって、ほら」
佑真の指さす先には、公園の石垣に腰掛けてカップ酒を煽る老人がいた。佑真の左手が俺の手からするりと解けて離れる。その手はビニールから取り出した500mlのビール缶のプルを勢いよく開けた。
「待て、それ俺の…」
言い終わらないうちに、炭酸がビシャビシャと湧き上がってはじけ飛ぶ音がした。ビール特有の苦くて芳醇なにおいが一面に広がる。ワンカップのじいさんが、口を開けて俺たちの方を見つめていた。馬鹿が。普通に考えて、あんなに振り回してたらこうなるだろ。大体、こいつビール飲まないって言ってたよな。
「あっははははは!うわーやっちゃった」
「ばか! 勿体ないだろ! 溢れてんの飲めって」
佑真は慌てて缶に口をつけて啜りだす。溢れているのに傾けるから、こぼれた液体でTシャツがどんどん濡れていく。
「んー、んんっん」
「はぁ? 何言ってるか、わかんねえよ」
佑真が手足をバタつかせて何かを訴える。笑っているのか、すごく苦しそうだ。つられて、俺も笑っていた。こいつが初めて家に来た時のことを思い出す。あの時も麦茶をこぼしてTシャツを汚して、それを脱がせてやったのが始まりだった。
「んふふふふふはははは」
「あはっ、やめろってそれ、ハハハ…腹いたい…」
夜の公園で、二人の成人男性が腹を抱えて笑っている。そのうちの一人は、笑うことすらずっと忘れていた男だ。もう一度石垣の方に目をやると、老人はもう何もなかったかのように、うまそうに酒を啜っていた。
*
「すぐつまみ洗いしないとシミんなるぞ」
「はぁーい」
自分の発言にオカンかよと突っ込みたくなった。佑真は言われた通りTシャツを洗い始める。こいつは確かに、息子力が高いかもしれないぞ、とまだ見ぬ佑真の母親に思いを馳せた。さぞ、可愛がって育てたことだろう。ぬくぬくと、まっすぐと育っている。
そんなご子息が上半身裸で寒そうにしているから、エアコンをつけてやろうと思って、壊れていたことを思い出す。一人でいる時は、自分で厚着をしてしまうから、そんなに不便していない。だから空調に気を留める、ということは、やはり他人に干渉されている証拠だ。今エアコンを新調したら、こいつのためみたいになるから、意地でも買わないと決めた。
「うー、やっぱさみー」
壊れたエアコンを放置している当てつけか? とむっとしたので冷たく返す。
「そんな薄着でいるのが悪いんだよ」
「そんな薄着も、着れなくなっちゃいました」
一瞬、捨て犬のような顔をする。冷静に考えて、こいつが皮肉なんて機知に富んだことを言えるはずがない。しばらく思案して、電気ストーブがあったことを思い出した。風呂場で布とほこりを被ったそれを、二人がかりで引っ張り出してくる。ベッドの横の延長コードにつなげると、電熱線がぼんやりと灰色からオレンジに変わった。
「はぁ、あったけー。ほら千章さんも」
ベッドに並んで腰掛けて、ストーブにあたった。しばらく沈黙が続いた。佑真が黙っている時は、俺から仕掛けられるのを待っている時だ。そっと佑真の肩に手を置くと、顔をこちらに向けて瞼を閉じている。写真でも撮って後でからかいたくなるくらい、無防備な顔だ。唇を広げて佑真の口元をついばむと、べたべたと苦いビールの汁が張り付いていた。
「汚れたら、洗っとけよな」
「ん…すんまふぇん」
そう言いながらも、口の周りを舌で拭ってきれいにしてしまう。野生動物がするグルーミングを思い出して、少しきまりが悪くなった。
「うん、苦い」
佑真の手が、もう我慢できないというように俺の体躯をなぞる。佑真の手が触れたところだけ、発熱したように火照っていった。そういえば今日はずっとPCに向かっていて、佑真に待ちぼうけをくらわせていた。
余裕なさげな手が俺を急かす。逞しく伸びた首筋に顔を寄せ、マットレスに押し倒す。腰のあたりに馬乗りになって見下すと、精悍な眼差しが俺を捉えた。爽やかな、と形容するに相応しいルックスでありながら、本人にはその自覚がまるでない。そういうところこそが、人を惹きつけるのだろう。こいつの周りには、街灯の下に虫が群がるようにいつも人が取り巻いている。人をそうさせる理由は、何となくわかってきた。でもそんな「植村佑真」も、この家の中では俺のワンコだ。夢中で好きなところを舐め、我を忘れて腰を振る。佑真を外部から遮断されたこの家に閉じ込めて、俺だけに熱中させることは、優越感に似た感情を呼び覚ました。
まだキスしかしていないのに、俺の下で佑真の下半身がはちきれそうに形を変えている。その部分に手を翳すとじっとりとした熱を感じた。これを奥まで呑み込ませてしまいたい。何度行為を重ねても、薄れることはない高揚感。佑真のそこはいつも、今までの誰よりも、熱い。
騎乗位のまま、硬い肉棒を押し沈めようとすると慌てて制止される。
「まって、ゴム…」
「いい。このままで」
「ダメですって。さっき買ったんだから」
千章さんの体大事なんで。そう言われたのを思い出す。いくらナカに出したって、子供ができるわけでもあるまいに。労わられるのは好きじゃない。本当は、俺が病気持ちなんじゃないかと疑っているのではなかろうか。俺の思考パターンはいつも、悪い方に、疑り深く働く。佑真は、よっ、と俺をどかして玄関に放置されたままの袋を取りに行った。自分の寝具の上なのに心許ない。玄関から、佑真の間の抜けた声が聞こえた。
「あ、パピコ」
こんな時に、どうして。どうして俺だけに集中しないんだ。いらだちが募る。全裸のままアイスとコンドームの箱を持ってベッドに戻ってくる佑真に、嫌悪感を抱いた。こいつは間違いなく、俺を不機嫌にさせる天才だ。
「ほら、千章さん」
「もういい」
冷めたわけじゃない。佑真を待ち構えていたナカはひりひりと疼いているし、ぐちゃぐちゃに抱き潰してほしいとずっと思っている。でも、もういい。もう嫌だ。恥ずかしい。こんなに期待してしまっている自分も、こんなことですぐに機嫌を損ねる自分も。
「え?何ですか」
「嫌だ。構うな」
慌てて佑真から顔を逸らす。脳みそがカッと沸騰して、目頭がじんじんと熱い。
「はぁ、めんどくせー人だなぁ」
後ろから、ぎゅうっと抱きすくめられる。裸の肌は、表面だけ熱を失って少しひんやりしていた。だめだ、ほだされる。そう思っても、その体を振り払うことができない。
くしゃくしゃっと頭を撫でられると、自分の中にはびこる劣等感や不甲斐なさが、一時的に鎮静化されるように引いていった。こんなことでいいのか。己の容易さに慄然とする。これでは、どちらが年下か分からない。
「何で…」
こんな男に構うんだ。向き合おうとするんだ。俺だったら、絶対こんなやつは御免だ。
「俺は、千章さんが好きです。偏屈で、めんどくさいけど、ほっとけない」
この男に、何度も面と向かって好きだと言われた。その度に、俺は適当にはぐらかしてきた。それが本心のわけがない、本当の俺も知らないくせに、そう思って、秘かに腹を立てていたからだ。でももう、分からなくなってくる。こんなに真直ぐな気持ちをぶつけられたら、逃げることはできない。こいつのペースに呑まれて、上手いように転がされているだけだ、と今まで通りの俺が脳内で警告する。
でもそれでもいい。恥の多い人間が、これ以上醜態を晒したって何も変わらない。
「…やっぱ変わってるよ、お前」
「そうかもですね」
そう言って佑真は俺の目に少し溜まった涙を拭った。そのまま、深いキスをされる。まただ。頭がしびれて、もう他のことは考えられない。
「佑真…挿れて…」
「はいはい。これ、付けますよ」
「…勝手にしろ」
ぬるりと、佑真の一部が俺のナカに挿入ってきて、ゴムを通して体温が伝わってくる。いつもより一歩遠ざかったようで、少し物足りない。けれど、息づかいや俺に触る動作から、佑真の愛情を感じた。きっと、たくさんの人から愛を一身に受け止めて、ここまで生きてきたのだろう。今はその大きな器から、とめどない慈雨が俺に注がれている。
「んっ、あっ、きもちぃっ…!」
「…はっ…もっと、俺でいっぱいにっ、なって…」
俺の一番深いところまで、一直線に佑真は降りてくる。何度も何度も、腰を打ち付けて心も体も脳みそも全部とろかすように。今まで何人の男に抱かれたか分からないけれど、こんなに奥まで来てくれた男は初めてだった。それはいつも、佑真が俺を抱きすくめるように腰を落として、必ずキスをしながら絡み合うからだ。
「んはぁっ…あぁっ…んあっ…!」
佑真の体温を全身に感じて、汗が止まらない。過呼吸になりそうなほど息が荒くなる。
「も…出ちゃう…」
「ん、俺も…」
佑真の性器が膨らんで脈打つ。その瞬間、全身の力が抜けて、芯から熱が広がった。俺の性器はそれだけで射精してしまう。触らずにナカだけでイくのは、佑真と初めて寝た日にできるようになった芸当だ。その日から、もう佑真としかしていないけれど、毎回のようにできている。手を使わずにイくと、扱いて出す時の何倍もの快感が来る。頭が真っ白になり、そこにチラチラと火花が飛ぶような快感が、ずっと続く。
「あっ…あ、イってる…だめ…」
体を仰け反らせると、翻った首筋に佑真の歯が当たった。このままぷつん、と血管を噛み切られるのではないかという想像が、興奮を増強させる。そんな秘かな願望は叶えられず、佑真の歯は痕ひとつもつけることなく、荒い呼吸だけが首元にかかった。人肌より少し冷たい液体が、薄い膜の中と二人の腹の上でとろとろと流れ出る。
まだ抜いて欲しくなくて、両腕で佑真の背中を固定していたのに、佑真は腰だけを器用に動かしてゴムごと性器を抜き取り、先の方を捻って結わいた。剥き出しになった佑真の性器は、白濁したヴェールをうっすら纏ったまま、ぶらりと下がっている。
佑真は俺から体を離すと、ベッドの横に投げ捨てられたレジ袋をつかみ取る。俺もその中に入ってるタバコを取りたい。裸の背中に手を伸ばした。
「やっぱ溶けてるかー」
またアイスの心配か。バカバカしくて、もう小言を言う気力もない。うちの冷蔵庫は小さくて、冷凍庫はついていない。だからこの類のものを買ってきたらすぐに食べるのが鉄則だ。暑がりで、俺よりもアイスにご執心の佑真にとっては、さぞかし不便な家なことだろう。
「ほら、半分」
「要らねえ…ヤニ取って」
「だーめ」
切り取った半分を押し付けられたので、しぶしぶアイスを手に取る。セックスの直後は、余韻のせいでどうも従順になってしまうから困る。こんなもので禁煙しろとでも言うのだろうか。五年近く染みついた習慣かつ娯楽が、そんな簡単に取り上げられてたまるものか。蓋を切り離すと、佑真がしたようなパキッという爽快な音はせず、ぐにゃりと溶けた中身が指に溶け出した。指を舐め、切り口をしゃぶると、カルーアミルクのような甘ったるい味が広がった。糖分が侵食してくるような感覚だ。やっぱり甘いものは好きじゃない。嫌な記憶が呼び起こされる。まだ冷たい部分と、ぬるくなった部分に分かれていて、気持ちが悪かった。
もっと溶ける前にと、一気に吸い上げると佑真がじとっとした目で顔を覗き込んでくる。
「なんか、エッチっすね」
「あ?」
「だめだ。言って自分で恥ずくなったわ」
「何してんだよ」
飲み干すと、空になった容器が空気を孕んでボコっと歪な形状になる。中に白濁した液体を少し残した細長い入れ物に、なにか既視感を抱いた。まるでさっきの。
「これみたい、っすね」
先を固結びで縛った使用済みのコンドームを拾いあげる。思わず、ふっと笑いが漏れた。普段の感性は丸で違うのに、変なところで同じことを考えてしまう。佑真が、安心したように眉を下げた。三つの容器をゴミ箱に放り込んで、佑真は俺の方へ居直った。
「千章さんの機嫌が直ってよかった」
「…るせえ」
確かにこいつは、俺の機嫌を損ねる天才だけれど、同時にまた俺の機嫌を直す天才でもあるらしい。やっと佑真から離れて、久しぶりに摂取するニコチンは、身体の隅まで酸素をもたらすもののように思えた。吸って、吐いて、吸って吐くうちに、普段の俺が戻ってくる。でもなぜか後ろが気がかりになって、視線を回すと佑真がベッドの上で大の字に伸びている。びゅうびゅう風が吹いて、寒さが骨まで届きそうだ。流石の俺でもこれは堪える。ガラガラと窓を閉めると、体が勝手に温かい方へ引き寄せられた。仰向けのまま佑真が俺に手を伸ばす。ストーブを中心に、去年までは想像もしなかった小さな世界が出来上がっている。
*
ゼミの帰り道、俺と佑真は一緒に帰るようになった。周りからの目線を気にする俺に対して、佑真は友人たちに「今日も千章さんの家行くから! じゃあな!」とあっけらかんと話す。友人たちも、さして気に留めていないようだった。こいつのそういうところを見ていると、俺の知らない人間関係の築き方があるのではないかという気にさせられる。でも、きっと一生、俺には実践のできない方法でそれは成し遂げられるのだろう。
「恋愛小説とか、そういうのは書かないんすか?」
唐突に、佑真が切り出す。今日ゼミの中で、俺が創作した短編を教授が取り上げたからかもしれない。
「昔は、書いてたけど」
「えー、意外」
「書いてちゃ悪いかよ」
「でも千章さんのことだから、どうせ超暗いんだろうな」
「おい、どういう意味だよ」
「そのままの意味ですけど」
以前より、スムーズに会話できるようになったのは、やはり一緒に過ごす時間が長くなったからだろう。口ではキレても、本気でこいつを相手取ってイラつくことは減ったように思う。
「まあ確かに、両方生き残って結ばれる、みたいな話は書いたことないけどな」
「やっぱし。ハッピーエンドとか嫌いそうですもんね」
「一概には言えない。二人とも死んだって、ハッピーエンドにはなり得る」
「はぁ…?」
佑真は、さっぱり要領を得ないという顔をしている。
「昔は、二人で同時に死ぬことこそ、至高の愛の形だって思想も流行ったんだ。今じゃもう時代遅れかもしんないけど、俺は何となくわかる気がする」
どうして俺はこいつ相手だと、べらべらと饒舌になってしまうのだろう。
「人はいつか心変わりするものだからな。その前にお互いに命を捧げてしまえば、その恋は永遠化できる。それが一番の幸せだって…」
「俺は、一緒に生きてくことが幸せだって思うけどな…」
分からないやつだな。その感情が信用できないと言っているんだ。やっぱり前言撤回。こいつはどうしたって俺をイライラさせる天才だった。思わず語気が荒くなる。
「生きてたら、嫌なことがたくさんあるだろ。どんな好きな相手でも、絶対に嫌いになるんだよ」
「でも、俺ならそれよりも、もっといいところを探します」
「童貞のくせに、分かったような口きいてんじゃねえ」
「ひどっ。もう俺童貞じゃ、ないんで!」
筆おろししてもらった相手に向かってムキになれるなんて、こいつには恥という概念が備わっていないのだろうか。こんなに素直に、俺が放ったらきれいごととしか捉えられない言葉を次々と紡ぎ出す相手に、無性に苛立った。何が違うのだろう。俺とこいつとでは。全てが違う気もする。生まれる前から辿っても、共通点が一つも見つからない確信があった。自分のことをこいつに分かってもらいたいわけではないけれど、俺のような人生もあるのだということを、無性に伝えたくなった。
「お前さ、死にたいとか思ったことないだろ」
「んー、ないっすねー」
少し考えてから、あっけらかんと答える。手ごたえがない。検索をかけて、ノーヒットだった時の焦燥感によく似ている。
信号待ちで止まった二人を、街灯が煌煌と照らしていた。濃い影が、俺の前にだけ伸びている。
「俺はよく、こういう交通の多い道路で賭けをしてた」
「賭け?」
俺の気持ちなんて分からないだろう。分かってたまるか。少し意地の悪い声が出たと思った。
「次に来たのが一発で轢いてくれそうなトラックだったら、飛び込むって」
えっ、と小さく息を呑む声が聞こえた。引いただろうか。もう、俺には関わりたくないと思っただろうか。しかし佑真は改めて「ええー⁉」と大げさな反応をして、取り繕うように明るい声を出した。
「怖いなー。これだから、文学やってる人って心配んなるんすよ」
明らかに動揺している。それなのに、まるでコンプライアンスに違反した芸人をなだめる司会者のように、二人の会話を、健全なところに引き戻そうとしている。
「でも、トラックが来なかったから、今ここに千章さんはいるんすよね。よかったっす」
「…そうだよな。お前に話しても、そうなるよな」
「千章さん?」
憎い。心底憎い。お前は悪くない。でも、これだから厭なんだ。人と付き合うのは。必ず、絶対に分かり合えない。
「悪いけど、今日は帰れ」
明日、来られても困る。どんな顔をしたらいいか分からない。だから。
「もうお前とは会わない。俺のいないところで、楽しくやってくれ」
「いやだから、どうして、何でも一人で決めちゃうんですか⁉」
佑真が叫ぶ声が少し遠のく。ああ、俺は、また一人で歩きだしたんだ。
「俺はいつでも一人で決めてきた。いつでも周りに流されてきたお前とは違う」
ちがう。俺には自分の意志なんて一度たりとも介在したことがなかった。周りに流されて人生を送ってきたのは、俺だ。分かっているのに。俺の喉には浄水器のような器械が備わっていて、本音やきれいごとを邪魔なものとして排除して、ろ過するようにできている。
「嫌です千章さん。俺が悪いんです。だから…」
なぜだ。どうしてここに来てまで、こんなにも俺に従順なのか。洗脳めいたことをした覚えはないんだけど。こんな人間の底辺にも及ばないようなクズに、佑真のような男が縋りついていることが耐えられなかった。
「お前、何か勘違いしてるよ。俺にはお前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ」
ちがう。本当はそんなことを言いたいんじゃない。代わりが掃いて捨てるほどいるのは俺の方だ。佑真みたいな奇特な男、他にいるわけないだろ。
「そう、っすよね」
いつもうるさく跳ねているビーサンは、一点でぴたりと止まったままだ。代わりに乾いた革靴の音だけが、一定のリズムで俺の耳に縋ってくる。
いいんだ。これでいいんだ。何度も言い聞かせるうちに、別の声が生まれる。本当にいいのか。うるさいアンチテーゼだ。聞きたくない。でも繰り返す。「佑真を失ったら俺はまた一人だ」と。
でも佑真は違う。そう気づいた時、ハッとした。だからいいのか。もう、自由にしてやろう。俺の中で弁証法は完結して、声は止んだ。
二十四歳。触れたら爛れそうな感情を、タバコの火を絶やすように揉み消した。
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