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駄犬と秋猫 第五章
「これで設置完了ですね。古いのは、持ってっちゃいますね」
「お願いします」
これでうちにもついに、空調が完備された。佑真がいないのをいいことに、デスクに向かいながらタバコに火をつける。
後ろでガタン、と音がした。ああ、そうか。艶やかな黒目がじぃっと俺を捉えている。佑真の得意げに諫める声が聞こえた気がした。
「あー。わーったよ!」
煙がウサギの方へ流れないように、結局ベランダで吸うことになる。こいつは佑真の分身だな、と苦笑いしてしまう。室外機の上の灰皿には、シケモクが溜まっていた。この吸い殻は、俺が誰かを気遣った時間を表しているのだ。
煙を燻らせながら、ウサギの名前をどうするか考えた。俺の好きなものから取ろうかと思ったが、それだとタバコかロクな死に方をしなかった作家の名前になってしまう。やっぱり今度、佑真につけてもらうことに決めた。
昨日、佑真は俺のデジタルタトゥーを消すと言い出した。どこからその自信が来るのか、教えてほしいくらいだ。根拠なんてないのに、佑真が断言すれば、どんなことも叶うのではないかという、一人では絶対に生まれない希望的観測が俺の胸に生まれる。
でも、そのためには、佑真じゃなくて俺自身が自分の問題に向き合わなくちゃいけない。それはとりもなおさず、宮川彩佳と、そして俺の過去と対峙しなければならない、ということだ。
俺は厳格な家庭で育った。両親も、じいさんも伯父さんも従姉も教師だ。皆国語の教員で、本を読むようにしつけられた。
そのくせ両親は、高校を卒業するまで男女交際をするな、とただ一度言ったきり、恋や愛だといった話は二度としなかった。勿論食卓でも性的な話題はタブーとされていた。恐らく夫婦仲はずっと冷え切っていたのだろう。
しかし純粋な俺は一度言われた言いつけを律義に守った。姉の恵理は小学校から女子校育ちで、周りに俺以外の同年代の異性はいなかったから、それを守るのは簡単だったことだろう。でも共学に通っていた俺にとって、それを守るのは、なかなか骨の折れることだった。さりげなく恋愛のネタになったら身をかわし、女子から好かれている気配を感じたら逃げる。とにかく俺は、両親に逆らわないよう必死だった。
しかし高校生のある日、俺はふと気づいてしまった。なぜ俺はこんなに、一度言われただけの言いつけに縛られているのかと。その時芽生えた火種は今に至るまで、俺を苛む火傷のようになっている。きっかけは当時の友人から投げかけられた一言と一冊の本だった。
「いくら親に言われてたって、好きになる時はなんだろ」
それもそうだ、と思った。何の気もない言葉だったかもしれない。でも俺にとっては、禁じられていることを言い訳に、お前は逃げていたんじゃないのか、そう刃先を突き付けられたような気がした。
そんな時、三島由紀夫の『仮面の告白』を読んだ。女性を愛することができない、育ちの良い主人公が自分と重なって最後まで読むことができなかった。もしかしたら。そんな不安の芽が顔を出すたびに、必死に摘み取って目を背けた。そして俺は、第二志望だった鳴律大学へ一般入試で合格した。
四月、同じ高校から一緒に進んだ知り合いの紹介で、文芸サークルに所属した。そこで出会ったのが宮川彩佳だ。パッと見は地味で清楚だが、よく見ると薄紅色の頬や毛先が丸くカールした黒髪など、作り込まれていることがよく分かる。初対面から、そういうところが少し苦手だった。それでも、「千章くん、カッコいい。大好き」と言われるとあまり強く拒むことはできない。外野からの猛プッシュも加勢して、付き合うことになった。でも最後は、自分の意志で決めたわけであって、その決断の裏で、俺は異端者ではないという証明を欲していた。
相手の言われるままに、ペアルックを着て、写真を撮って、甘いものを食べに行った。どれも楽しくはなかったが、周りに美男美女カップルという称号を与えられる時だけが、それらの行為に意義を冠した。
そして付き合って三か月が経った頃、サークルの飲み会帰りに、二人で抜けてホテルへ行こうと誘われた。その日は酩酊していて、彩佳が可愛いと思えた。でも、いざ行為が始まると、その「可愛い」は子供や小動物に寄せるようなものであって、性的衝動ではないと気づいた。ピンク色のレースの下着や、柔らかい肌に、俺の性器は全く反応を示さなかった。その時俺は悟った。今までAVを見て抜けていたのは、女優ではなく、男優の射精への焦燥感や快感に息を漏らす声に興奮していたのだと。まざまざと己の実態を見せつけられ、俺は絶望した。その時もう、終電はとっくになくなっていて、タクシーを呼ぶ金もない俺たちは、四時半の始発まで、狭いホテルの一室で気まずい時間を過ごした。背中合わせにケータイを見たり本を読んだりして、互いに一言も交わすことはなかった。
駅で彩佳と別れ、ミントみたいにひんやりとした朝の空気の中、最悪の気分で帰宅すると、母親が自室から飛び出してきた。
「こんな時間まで、どこ行ってたのよ!」
「もう大学生なんだから、どうでもいいだろ。何も悪いことしてるわけじゃねえし」
「なに、千章? 何か後ろめたいことでもあったのね?」
「ねえよ!」
教師の経験が長く無駄に勘が良い母親が、こういう時酷く苦手だった。母親が想像していることを、俺は何一つしていない。できなかったんだ。ずっと言いつけを守ってきれいな体でいたのに、今更こんな汚い疑いをかけられることが不快でたまらない。俺はずっとお前らに従ってきたから、おかしくなったんだ。そう叫びたかった。
でも違うことくらい分かっている。高校生までは子ども扱いをされてきたくせに、急に大人としての役割を求められることに拒絶反応が止まらなかった。彩佳の胸のふくらみや、すべすべした肌が鮮明に掌に残っている。自分が持っていないそれらに、俺は恐怖を覚えた。
それから俺は、自暴自棄になっていった。彩佳とそれきり何の連絡も取らないまま、サークルを休みがちになり、ゲイ向けのマッチングアプリを始めた。男と駅や喫茶店で待ち合わせをする時は、心臓がバクバクして、自己嫌悪で堪らなくなる。でも帰ることもできず、成り行きで酒を煽り、体の関係を持った。彩佳の時とは違って、どんなに恐怖を感じていても、体はしっかりと反応を示す。男たちとの愛情のないセックスは、自分の中でしっくりきた。その中で学んだことは、男という生き物は、性的欲求を満たすことしか考えていない、ということだ。でも俺にとっては、何を考えているかすら分からない女の方が、それの何倍も恐ろしかった。そうやって俺は少しずつ自分の性的指向を受け容れていった。
そんな時だった。突然彩佳から呼び出しがあった。別れ話だろう、くらいに思っていたが、俺が複数の男と体の関係を持っていることが、なぜかバレていた。罵声を浴びせられれば、まだ良かったと思う。全く否定しない俺に対して、彩佳は静かに「そう」と言って踵を返した。
しかしその数日後、同期にどうしても参加しろと言われた飲み会の最中、俺は意識を失った。
雪が降りそうなほど寒い日だった。目が覚めると、朦朧とする意識の中で、男の性器を咥えさせられていた。公園のトイレだったと思う。あまりの寒さに上下の歯がガチガチと鳴りそうなほどなのに、勃起した性器がめり込んでくる。歯を立てたら殴られる、と咄嗟に思った。覚えたことを意識しながら、舌を這わせようと必死になる自分に、慄然とした。
それでも相手の規格外のモノが俺の喉をめがけて貫いてきた時、強烈な吐き気が襲ってきた。それでも何度も何度も、相手が俺の顔に青臭いものを吐き出すまでそれは続いた。
*
それをきっかけに俺はサークルを辞めた。しばらくして、付き合いがあった同期から突然連絡が来た。お前の動画、SNSで晒されてるぞ、そう送られてきたサイトには、俺の大学名と名前が違わず載っていた。リンク先のサイトにはあの日の俺の醜態が映っていた。
見るうちに、あの時と同じ吐き気が再現されて、トイレに駆け込んだ。終わった。終わった。殺されたんだ、俺の人生を。多分、彩佳の復讐だ。愛されなかった女の嫉妬心が、どんなに狂気に満ちているか、俺は曲がりなりにも知っているつもりだ。彩佳なら、やりかねないという予感もあった。でもそれよりも、当時は彩佳に直接会うことが恐怖だった。道で彩佳に似た服装と髪型の女子とぶつかりそうになると恐ろしさのあまり全身が硬直した。次第に女性全般が恐ろしくなった。レイプしてきた相手のような派手な男も、拒絶の対象に入った。交際範囲は限られるようになり、家族と固定のセフレ二、三人以外の人間との関わりは最小限に留め、息を潜めるようにして生きた。
それから二年後に就活が始まると、動画の件が大きく影響したのか、いい線まで行った第一志望に落ちた。業界や業種を広げても落ち続け、早々に院進を決めた。そうやってモラトリアムを延長しても、二年後に同じことを繰り返すことは火を見るよりも明らかだ。でも、その時の俺にはそれ以外の選択肢が見えなかった。
それだけではない。恵理の婚約者の田中という男が俺の名前を検索して、あのサイトを見つけたと言い、両親共々実家に乗り込んできた。そこで俺の両親は、その時に俺がゲイであることと、デジタルタトゥーを抱えていることを知った。そして姉とはその場で縁を切る運びになった。意地汚い、風采の上がらない男のために肉親を裏切る姉なら、こちらから願い下げだと言ってやったのだ。田中とその両親は逆上し、収拾がつかなくなって俺の親父が土下座をした。大学院の金は払うから、もう寄り付くなと言われ、本当にそれ以来会っていない。俺は両親の言いつけをよく守る息子だ。育ててくれた両親には感謝している。でも。
俺が一体何をしたっていうんだ。俺は被害者じゃないのか。彩佳との付き合いを終わらせないで不特定多数と関係を持ったのは、確かに良くなかった。でも、そんなの誰だってしていることじゃないのか。相手が男だというだけで、なぜこんな目に遭わなくちゃならないのだろうか。ゲイは間違ってて、ホモフォビアが偉いのか。ゲイの親は土下座をしなくちゃならないのか。悔しくて悔しくて、何度も破壊衝動に駆られた。自分の人生を呪うとはまさにこんなことを言うのだろう。
ある時、何とはなしにSNSを眺めていたら、彩佳が一流商社の一般職に内定したと知った。俺の人生を踏みにじった女は、真っ当な社会人の格好をして、似た者同士で結婚して家庭を作り、ままごとに興じて同じような子供を量産し、それらに囲まれて幸せに死んでいくのだ。実にバカバカしい。
俺には何も残らなかった。死のうと思った。大学院へ進んだってどうせ同じことだ。卒業しても就職はできない。小説だけで食べていくのは星を掴むように難しい。恥で死ぬことができたら、と願った。
でもなかなかに、死ねるものではない。轢いてくれそうなトラックは、滅多に通らない。俺は死ぬことすら上手くできない、出来損ないだった。
いつの間にか、不遇をかこつことにすらもう辟易した俺は、自分の心だけ殺して生きていくことにした。相手に合わせて、相手が望むものを与えて、ポーズを作って生きていくことにした。何かの振りをして生きるのは意外と簡単だったし、性に合っていた。でも、そんな俺の人生は佑真が登場して一変した。
佑真がもたらした生活は、あまりに突拍子もなく、あまりに楽しくて、これまでの俺の人生が全て無意味なものに思えるほどだった。だから俺はきっと焦ったんだと思う。そして佑真にとって俺は害なのだと勝手に合理化をして、突き放した。
でも、深夜に訪れた佑真の涙を見た時、あいつにも俺が必要だったのだと知った。そんなことありえないと決めつけるのは、俺だけではなく、佑真のことも傷つけることだった。俺は、いつも自分の中でだけで物事を完結させようとしてきたのだ。相手の気持ちなど、考えているようで、考えていなかった。佑真が傍にいたいと思うなら、気がすむまで傍にいたらいい。俺も、佑真の傍にいたい。もう、佑真を誰にも渡したくない。佑真に会えない日なんて意味がない、とさえ思う。佑真には口が裂けても言えないけれど。
ずっと唾棄してきた恋愛というものは、思ったよりずっと簡単なことで、自発的にするものではないらしい。これまで滅びてしまえと思っていた恋人たちにも、それぞれに抱える物語があるのかもしれないとさえ思うようになった。そんな初歩的なことに俺はやっと気づけたのだ。
SNSを全て消している千章さんの代わりに、俺が宮川彩佳という人のアカウントを探すことになった。千章さんの元カノで、手掛かりを知っていそうな重要参考人だ。
カギをかけていなかったため、インスタはすぐに見つかった。フォローして監視していると、連日高級ホテルのような場所でお茶やらディナーやらに興じている日常がつづられていた。アフタヌーンティー、シャンパン、エステ、カクテルパーティー、リムジン。耳慣れない言葉が、眩暈のするような華やかな写真と共に連日アップされている。加工されて肌が陶器のように凹凸のない宮川彩佳の顔は、人工的で美しいとは思えなかった。
ぼうっとしたまま、SNS上で他の知り合いの投稿に一つずつハートのマークを送る。時々ひっかかるものには質問やコメントを投げかける。これが今の大学生の交友関係サバイブ術だ。千章さんはこういうことをしないから友達が少ないんだなあ、などと考えていると、「なーにニヤニヤしてんだ」とサークルの一期上の先輩たちに、背中をどつかれた。
「えっ、俺今そんなニヤニヤしてました?」
「してたよ。それはそれはいやらしい顔だったよな」
「マジでそれ」
「それより佑真、俺の先輩がやってる居酒屋あるんだけど行かねえ?」
二つ返事でオーケーし、そのままのこのこと大学の隣駅まで歩いて行った。ボウリングの日の俺の奇行は、サークル内でまあまあ話題になってしまっていて、その挽回の意味も込めて俺は今まで以上に集まりに顔を出していた。商店街の中にあるその店の座敷の席は広く、飲みサーの大学生がひしめき合っている。中では下品な笑い声と、俺でも聞いたことがないコールが飛び交っていた。
「あ、亮さん! こっちこっち!」
奥から金髪マッシュの店員が近づいてくる。俺の連れを見るなり、うぇーいと発した。
「ゆーま、こっち、亮さん」
亮さん、と呼ばれた男は、飲食店にはおよそ似つかわしくないシルバーアクセサリーをじゃらじゃらとさせてニヤリと俺を見下した。180㎝はあるだろうか。ハデハデで威圧感がある。
でも、どこかで見たことがある、と思った。初対面に間違いないのに妙だ。
「はじめまして。あの、テレビとか出られてます?」
俺の問いかけはボケだと受け取られたらしく、周りの先輩からも何言ってんだよ!と総ツッコミを食らった。既視感の正体を突き止められないまま、俺たちは酒盛りに興じた。
「枝豆と、コーラハイメガね」
亮さんという人の手が、ジョッキを俺の前に置いた時、その手の形にピンときた。千章さんの頭を、鷲掴みにしていた手だ。それから、声も一致している。ダルそうな低い音。顔に見覚えがあったのは、宮川彩佳の上げていた写真に写っていたから。俺の中で、最悪の点がみるみる繋がっていく。
「あの」
「お、今度は何?」
また俺がこの人を相手に変なボケを繰り出すんじゃないかと、周りが一瞬こちらに注目する。でもそんなことに構っていられない。
「宮川彩佳さんとお知り合いですか」
「アヤカ? ああ、もうずっと会ってないけど。お前と何繋がり?」
先輩たちは、知らない話題を二人で始めたことにニヤニヤとして会話に注目している。
「いえ、直接会ったことはないんすけど、仲本千章さんの…」
千章さんの名前を出した瞬間、亮の表情が強張るのが分かった。当たりか。だとしたら、そこには、罪の意識が介在しているということなのだろうか。それとも、それは彼にとっても消したい過去なのだろうか。
「あなたは、あの動画の人ですよね」
「…お前、閉店まで待ってろ」
周りに人がいながらできる話ではないと察したのだろう。当然だ。外野の先輩たちは、ポカンとした顔で俺を見ている。適当に話を誤魔化したけれど、何か殺気めいたものが俺たちの間に一瞬流れたことはその場にいた誰もが感じただろう。俺はそのまま先輩たちについて二件目に行き、ソフトドリンクを挟みながらセーブして、先輩を送り出し、亮の居酒屋が閉店する時間にきちんと戻ってきた。
*
「彩佳が良いって言うなら俺は消してもいいけど」
あの動画を消してもらえませんか、と持ち掛けて返ってきた第一声に俺は拍子抜けしてしまった。あまりに呆気ない。この男にあの動画への執念はほとんどないのだ。そんな人間のほんの数挙動に、千章さんの人生は愚弄されたのだと思うと、腹の底で怒りが煮えたぎる。
「連絡先、教えてもらえますか?」
「いいけど」
次の言葉を言うよりも前に、タバコの縁をガリっと噛んでから一服する。
「何で他人のためにそこまでできんの?」
冷ややかな目が向けられる。怖い。ここで下手な答えをすれば、協力してもらえないかもしれない。でも、本当はこの男が堪らなく許せない。
「…ほっとけないんで」
「お前、あいつの何? 付き合ってんの?」
付き合ってはいない。でも、この間のことでずいぶん距離は縮まったと思っている。でもそれは、俺の勝手な解釈であって、千章さんの中で俺はまだ、都合のいいセフレに過ぎないかもしれない。でもあの時お前の変わりはいなかったって言ってくれたし…。でも、でも、と脳内の無限回廊を急スピードで駆け回ってるみたいだ。答えられずに俯いていると、相手が待ちくたびれてジャッジを下した。
「ってわけじゃ、なさそうだな」
煙に混じって、スーッとしたにおいが漂ってくる。この人の視線に似ている。手元には見慣れない、青い箱。この人の吸うタバコは嫌いだと思った。
「でも彩佳、消していいなんて言うかなあ。女の嫉妬って根深えし」
「そんなことで、千章さんの将来を縛っても、何の利益にもならないって俺が説得します」
「ふ…ゾッコンってわけか」
「そうですよ。何が悪いんですか」
「や、別に。俺も両方いけるし分かるよ。あいつは確かにエロかったなぁ」
自制しきれず、下から睨みを効かせる。長い金髪から覗いた相手の白目は、鈍い色に変色しているようだった。無精ヒゲを撫でるしたり顔が気に入らない。飲食業のくせに、清潔感のないこの風貌が腹立たしい。嫌がる千章さんにしゃぶらせて、そんなに気持ちよかったか。トラウマを植え付けて、愉快だったか。俺にはそんな趣味、絶対理解できない。
「でもなんかめんどくさそうなやつだったな」
「そうっすよ。千章さんがめんどくさいってことは、俺が誰より知ってます」
そうだ。口が悪くて、態度も悪くて、性格も根性もひん曲がっていて最悪にめんどくさい。
「でも、好きなんです」
亮さんは、俺のしつこさに気圧されたのか、亮は宮川彩佳の電話番号を渡してさっさと帰るように言った。ついでにOB・OG訪問ってことにして会えば逃げられないんじゃね?とアドバイスまでよこした。わざわざそんなことを言うということは、多少は罪の意識が芽生えたかと思ったけれど、表情を見る限り、ただの気まぐれだったのだろう。
俺はさっそく翌日の昼、宮川彩佳に電話をかけた。亮に言われた通りにすると、話はツーカーで進んだ。電話口での印象は意外にも、丁寧で当たり障りのない印象だった。
「あ、ごめんなさい。もう一回お名前伺ってもいい?」
「はい、鳴律大の植村佑真と申します」
「…ちょっと待って。植村くん、明日空いてたりする? 勉強になりそうなものを見せてあげられるんだけど…」
「空いてます」
「じゃあ、明日の…そうね、一時に本社のエントランスまで来てもらえる?」
「分かりました」
「それから、このことは誰にも内緒で、一人で来てね。意味分かる?」
「あ、はい」
守秘義務的なことなのか、それとももしかして、俺の名前を聞いて千章さんのことだと気づいたのか…いやまさかな。そうは思ったものの、ここまで釘を刺されると千章さんを連れて行くことはできないように思った。交渉をするからには、相手の条件をある程度飲まないことには始まらない。それに千章さんに、トラウマの元になった人と会わせるのは、俺も心が痛む。事後報告になってしまう後ろめたさはあったが、ここはまず一人で様子を伺いに行こうと決めた。
*
「君が植村佑真くんね。私、済青商事の宮川彩佳と申します。よろしく」
名刺を渡す指先は、品の良いピンク色で、つやつやと光っている。漂ってくる香りも、絵に描いたような良い匂いだ。思わずたじろぎそうになるが、俺は戦いに来ているのだ。こんな作り上げられた色香に惑わされてはいけない。
「それで、今日は何のお話をすればいいのかしら」
「すみません。今日は会社のことを聞きに来たんじゃないんです。嘘をついて申し訳ないです」
「うん、知ってる。千章くんのことでしょう?」
まあまあ、と余裕をもって形のいい手指をひらつかせる。なぜ千章さんの名前がこの人から先に出るのか。一気に相手が一枚上手なのではないかと言う恐怖が駆け巡る。
「どうしてっ」
「もうすぐ、彼も来る頃よ」
彼? 亮の事だろうか。と思っていると、見覚えのある猫背のシルエットが近づいてきた。大きなオフィスビルに不似合いなリネンシャツとチノパンという出で立ち。どこにいても自分のスタイルを確立させて飄々としている。今日はそこにイラつきMAXの不穏なオーラが加えられ、半径三メートル以内に誰も寄せ付けない威厳を放っていた。
千章さんは、入学式以来初めて腕を通したリクルートスーツ姿の俺に向き直り、聞きなれた怒号を飛ばした。
「佑真! 何でお前がいるんだ!?」
「千章さんこそ…」
「お前、連絡もしないで勝手な真似して、後で許さねえからな」
真っ白で天井の高いエントランスに、千章さんの少し掠れた凄みのある声が響いた。俺の下であんあん言ってる時は、あんなにエロい声なのに。同一人物とは信じがたい。そう思うと、こんな時なのに奮い立ちそうになる。だめだ、鎮まれ、鎮まれと何度も言い聞かせていると、彩佳さんがすっと立ち上がって、獲物を見つけた女豹の眼を投げかけた。この人もネコ科か。千章さんとは相性が悪そうだ。
「随分仲が良いのね。二人って、付き合ってるの?佑真くんもゲイ?イケメンなのに残念」
「どういう意味だよ。それに、佑真はゲイじゃない」
「ええ?でもぉ、千章の彼氏なんでしょ?」
ここまで来て、隠し通すことなんて何も考えていない。俺はいつも通り、俺が思うことをそのまま伝える。それがたとえ、バカだと詰られようとも。
「彼氏じゃないです。でも、俺は、そうなりたいって思ってます」
「おい佑真」
制そうとする千章さんの声はからは、あまり感情が読み取れない。でも、因縁の相手を前にしても冷静さを欠いていない様子に、少しだけ安堵した。
「なになに?おもしろーい!それで今更二人揃って、元カノに何の用だったのかしら?」
「単刀直入に言う。俺の、ネットに上がってる動画を消してほしい」
「えー、何の事かしら」
人差し指を口元に当てて猫なで声を出す。昔だったら、こういう女の人にまんまと騙されていたかもしれないが、今は違う。大体、その反応からして確信犯に間違いない。しらばっくれるのもいい加減にしろ、と千章さんの代わりに怒りまくりたくなった。でもここは、千章さんに合わせるしかない。
「あの時、連絡してくれた同期の川口に聞いたんだ。やっぱりお前がバイの先輩使ってやらしたんだってな。その石山亮とかって先輩、直後にベラベラ喋ってたらしいぜ」
「俺も、亮さんから、いろいろ聞きました」
「あいつ…」
「亮さんなら、彩佳さんが許可したら消すって言ってくれましたよ」
畳みかけると、あからさまに彩佳さんの表情が曇っていく。ここまで来たら、どうしたって逃げられない。しかもここはこの人の職場なわけで、下手なことはできないはずだ。そこまで頭が悪そうには見えなかった。だからこそ、気になる。疑問をそのままぶつけてみることにした。
「あなたにとって、明らかに分が悪いのに、何で俺たちを同じ場所に呼んだりしたんですか?」
「さあ、分からない」
返ってきたのは、拍子抜けするような答えだった。しかしその表情からは、さっきまではみじんも感じられなかった真剣さがうかがえる。まだこの人の話を聞こう、とこちらに思わせるような雰囲気が漂いつつあった。
「でも言えるのは、あなたたち二人を見てると、ますますイライラする…ってこと。千章くん、付き合ってた時、私の事なんて気にしてくれたことなかったでしょ。でも佑真くんには、全然違う。ぜんっぜん、違うの」
泣いてはいない。でもその分、その言葉だけは嘘じゃないんだと思わせる説得力となって、俺の胸に突き刺さった。女の体をもって生まれて、美しく成長したのに、愛した男に愛されることができなかった彩佳さんの切実な苦悩が、声の端々から伝わってくる。この人は、俺たちの二人の間にある空気を確かめたかったのかもしれない。自分が、納得するために。でも、この人がしたことは、やはり許せない。
「私…、最初からずっと分かってた。この人は私を愛してなんかないって。でも、悔しくて。千章くんが男の人に乱暴されて、怖い思いしたらゲイじゃなくなってくれるんじゃないかと思ったの」
「そんな、メチャクチャっすよ…それであんなこと」
「佑真」
もういい。もういいから。そう聞こえたような気がした。
「彩佳、俺は最低なことをした。許してほしい」
苦しんだのは千章さんなのに、苦しめたのはこの女なのに。でも千章さんは、それは逆だとでも言うように頭を下げた。その背中は磁力を持っているのだろうか。俺もつられて体を二つに折り曲げる。
「この通りだ」
「俺からも…お願いします」
大理石の床と面と向かう。千章さんは隣で、目を開けているだろうか。周りからの視線が背中に突き刺さっているのを感じる。彩佳さんが声を発するまでの時間が、永遠にも思えた。
「なんか、千章くん変わっちゃったね」
隣でゆっくりと千章さんが体を起こす。だから俺も起こす。彩佳さんの眼はもう、誰のことも捉えてはいなかった。
「私はさ、もっと尖ってる千章くんが好きだったんだよなぁ」
何だよそれ。尖ってるって。それは、苦しんでたってことじゃ、ないのかよ。もがいて戦ってた証拠じゃないのかよ。俺だって、千章さんのことは何も分からないけれど、この人はもっと分かっていないと感じた。
「いいわもう、消すわよ。これじゃ私が悪者みたいじゃない」
お前は悪者だろ、と言いたくなるのを、ぐっとこらえた。それはきっと、この人が誰よりも思っている。でなければ、こんな顔はしない。こんな、今にも壊れそうな顔は。
*
摩天楼を背にして、千章さんは俺なんか見えていないみたいにずんずんと人波の中を泳いでいく。俺はただ、いつものようにその背中を必死で追いかける。人通りが少し落ち着いた道に差し掛かった時、千章さんはようやく歩みを緩めた。
「すいませんでした。勝手なことし…」
「バカ! これは俺の問題だろ」
振り向きざまに大声で怒鳴られて、思わず背筋がピンと伸びる。
「でも、ありがとな。正直、ここまでしてくれるとは思わなかった」
ツン→デレがジェットコースター並みのスピードで繰り出されて、俺は硬直したまま目玉すら動かせずに、きれいな顔を見上げていた。
「…なあ、佑真」
その彫刻のような白い頬が、ほんのりバラ色に染まった。長い睫毛が伏されると、真昼の日差しが影を濃く落とす。
「俺、甘いもん苦手だし、写真も、人多いとこも、嫌いだけど、それでも…」
「何の話ですか?」
口を大きく開けないから、何を言いたいのかさっぱり分からない。千章さんは右手で頭を抱えてそのまま人差し指を折り曲げて額を掻いた。
「だから…さっき、言ってたろ」
「さっき…?」
「彼氏…って。クソ、言わせんな」
人生初の修羅場らしい修羅場に動じて、俺は自分が発した台詞を失念していた。そういえば、俺なんて言ったっけ? 元カノの前で、彼氏じゃないけど、なりたい、的なことを言わなかったか? これまで、好きだと言ったことは何度かあった。千章さんに会ったばかりの頃だ。でも段々、迷惑だと悟って、引っ込めて隠した。それ以来、ずっと我慢してきたのに、どうして言ってしまったのだろう。火事場のバカ力ってやつか、と思って少し違うか、と脳が熱くなる。
いいや、今はそれよりも、俺の告白に千章さんが応えようとしてくれていることが非常事態なんだ。応えてる?告白に?ここまで状況を理解するまで、かなりの時間を要した。
「あ、ああ、あああ!」
オフィス街に、俺の叫び声がこだまする。
「黙れ! やっぱ取り消す!」
「それはいやだあああ!」
「こんなやつが俺の彼氏なんて、考えただけで虫唾が走る」
千章さんが放つ「彼氏」という語感が魅力的過ぎて、自分がディスられていることなんてどうでもよく思えた。まだ、これが現実だと受け入れられない。ウザがられることは百も承知の上、何度も確かめたくなってしまう。
「いいんすか⁉ 俺が、千章さん独占して、いいんすか?」
「わざわざ聞かなくても、もうお前以外に抱かれたりしねえよ。何度も言わすな」
いつもに増して速足で駅へ向かう千章さんの背中は、遠ざかっているのに、今までのどんな時より近くに感じた。俺はよっしゃあああっと心の中でガッツポーズを決める。これ以上うるさいと言われないように、心の中で。俺が急に静かになったからか、千章さんが振り返る。そして悪態をつく時の顔―右の口の端を引き上げる―をして毒を吐いた。
「てか、ほんとスーツ似合ってねえな、お前。ドラフト会議の高校生かよ」
「…ドラフトん時は学校の制服っすよ」
「チッ、お前は一言多いんだよ」
「千章さんが間違うからいけないんす!」
恋人になっても、俺たちの中のパワーバランスは何一つ変わらないみたいだ。
*
結局、その後彩佳さんは亮さんに連絡をしたらしく、後日確認すると、あの投稿と動画は消えていた。その日、俺たちは回らない寿司(スーパーで買ってきた)を食べてささやかな祝杯を挙げた。千章さんは俺の好きな痛風ネタを全部譲ってくれて、照れながら「ありがとな」と言った。千章さんが、ごめんとありがとうをちゃんと言える大人になったことは、大きな進歩だと言える。
亮さんからは一度だけ、電話がかかってきた。
「投稿、消してくれたんすね」
「ああ、あの後すぐ彩佳から連絡が来たからな」
「今日はどうしたんですか」
「仲本千章くんの連絡先を聞きたくて。俺も、謝っておきたいから」
以前会った時と、対応が大きく異なっていて面食らった。彩佳さんから、何か言われたのだろうか。
「千章さんが何て言うか聞いてからでもいいですか」
「ああ。頼む」
「でも、何で急に?」
「俺さ、俺もバイなんだけど、この前勝手に知り合いにバラされてさ」
いい気味だ、と思ってしまったのは、最近千章さんに性格が似てきてしまったから、ではきっとないだろう。
「自分からカムアウトするのと、他人にアウティングされるのって、全然違うんだよ」
今まで、セクシャルマイノリティとかとは縁だと思ってきた俺にはよく分からなかった。でも、俺の彼氏はこれからは千章さんで、外から見れば俺だって同性愛者ってことになるのだろう。他人事じゃない。
「ほんとに、俺は酷いことをしたんだ。軽率だった」
一時の感情でしたことの重さを、今になって痛感した、そう彼は言った。
「けど、一つだけ言わせてほしい。俺も彩佳も動画を撮ったしネットに上げた。だけど実名は載せていなかったんだ」
きっと本当だったのだろう。今更嘘をつく必要もこの人たちにはない。それに、二人に実際会ってみて、そこまで卑劣なことをする人には、少なくとも俺には思えなかった。ただ、二人とも自分が可愛かっただけだ。
「だとしたら、他にわざわざ実名で投稿し直した人がいるってことですか」
「そうなると思う。それも、心当たりがないか彼に聞いてみてほしい」
*
大学から千章さんの家に向かう道すがら、亮さんの伝言をそのまま伝えると、いかにもな答えが返ってきた。
「心当たり、多すぎて分からん」
「そっか、けどまあもうその部分も消えてますしね」
「それだけネットは怖えってこったな」
その通りだ。少しの悪意が何百倍にも膨れ上がってひしめき合う。千章さんには、これからなるべく人の恨みを買わないような生き方を心がけてもらいたいと切実に願った。
「あ、亮さんが謝罪したいってのはどうします?」
「いや、いい。むしろあいつの顔なんて覚えてねえけど見たくもねえ」
そうだよな。当然だ。トラウマを植え付けられた相手だ。家族を失うことにもなった相手だ。今更謝罪なんて、ふざけるなと思うだろう。
「じゃあ、そう伝えときます」
駐車場を横切る時、大きめの砂利がギシギシと足裏に刺さる。千章さんの身の上を聞いてから、やはり家族のことが気にかかっていた。今聞いたらまた怒られるかと考えたけど、もう躊躇するのはやめようと勇気を出した。
「家族のことは、いいんすか?」
千章さんは、足を止めるでも歩幅を変えるでもなく、少し目を細めて暮れなずむ空を見上げた。
「まあ、おいおいだな。この間、久しぶりに電話でお袋と話した」
「良かったっすね!」
「まだ、だいぶ偏見は残ってるみたいだけどな」
一度壊れてしまったものを戻すのは難しい。でも、双方がまたやり直したいという気持ちを持っていれば、必ず良い方向に進むだろう。俺と千章さんがそうだったように。素直になることができればきっと大丈夫だ。千章さんは、もうきっと分かっている。
「子供、生まれたらしいんだよ。俺がおじさんだって笑っちゃうよな」
「荷物お持ちしましょうか、おじさん」
「…間に合ってるよ」
「そういえば、最近よく同じ話何回もしますよね、おじさん」
「うるせー! 俺はまだ二十よ…五だよ!」
子供か。恋愛、結婚、出産と続く「普通のライフステージ」というものから、俺たちは外れているのかもしれない。けれど俺には、来年も再来年も千章さんと過ごす人生が、節目はなくても最高のライフステージだと思う。
いつか千章さんの家族も俺の家族も、俺たちの幸せを分かってくれる日が来るだろうか。そうしたら、その子供の二人のおじさんとして、たくさん遊んでやりたい。
*
「エアコン、ついてる!」
千章さんの部屋は、少しだけ変わった。ちゃんと使えるエアコンが導入され、ペットが増え、灰皿がデスクの上からベランダの室外機の上へと移動した。ちゃんと、ウサギのために気を遣って生活している千章さんを思うと、なんだか可笑しい。
「何ニヤニヤしてんだ?」
「いや別に。おー、お前元気だったか?」
俺が駆け寄って干し草を手に取ると、鼻をひくつかせながら強い力でゴリゴリと草を貪る。こんなに小さな動物でも、野生では俺たちよりずっと逞しい生命力を見せるのだろうと感心してしまう。ウサギの額を撫でる俺に、千章さんが甘くしたコーヒーをくれた。
「なあ、佑真、こいつに名前つけてやってほしいんだけど」
「え? そんなの千章さんの方が向いてると思いますけど」
「いいんだよ。ほら、何か考えろ」
「うーん」
名前を付けるなら、何か連想されるものから取るのが一般的か。うちの犬は、仔犬の時にお尻がモモみたいだから、という弟の感想により、モモになった。ウサギを見下すと、こんがり焼けたような色の背中が、ぬーんと伸びる。このフォルム、どこかで見たことあるような。
「コッペパン。とかどうすかね。ほら、長くて茶色いから」
「コッペパン」
口の中で語感を噛み砕くようにして、千章さんがふっと笑った。
「いいな」
千章さんに抱きかかえられて、餅みたいにでろんと伸びるコッペパンを、俺はまた羨ましいと思った。タバコに嫉妬したり、コッペパンに嫉妬したり、俺のライバルはいつも人間ですらない。千章さんの掌の中がよほど心地いいのだろう。耳を後ろに倒して目を閉じている姿は、本当にウサギではなくてパンみたいだ。こんなに甘えん坊なのに、捨てられてどんなに心細かっただろう。良い人に育ててもらえて幸せだな、と目で語りかける。
「そういえば、ウサギは寂しいと死んじゃうってのも、都市伝説っすか?」
「さあな」
俺をちらっと見ると視線を戻して、またコッペパンを撫でる。そんな千章さんに俺も構ってほしくなって、わがままを言ってみることにした。許されるよな。俺はもう、千章さんの彼氏なんだから。
「俺は寂しいと死にます。だからほっとかないで下さいね」
「お前はウサギってより犬だろ。俺だけの忠実なワンちゃんだ」
「は? 何でそうなるんすか!」
「…でも忠犬ってより駄犬か。駄文悪文しか書けねえんだもんな?」
「長らく忘れてたことをまた…」
この人が獲物を捕らえたような顔をしたらもう勝ち目はない。尻尾を巻いて大人しくなるしかないのだ。
「だとしたら、千章さんは、猫っすね」
「そりゃ、ネコ一筋だからな」
「そういうことじゃなくて…」
気まぐれで、自分が都合のいい時だけ甘えて後は知らん顔をしているところがって意味なのに、理由も聞かずにまたそっぽを向くとこも、また猫っぽい。でも千章さんは、淑やかな飼い猫には収まらなさそうだ。悠々自適に好きな場所で日向ぼっこをしているのが似合う。
さて、駄犬の俺はそんな千章さんを、決して寂しがらせないようにしてやるんだ。コッペパンをケージに戻して立ち上がる千章さんに、後ろから抱きついて無い尻尾をぶんぶん振る。
「ねえねえ、千章さん!」
「んー、暑苦しい!」
「いいでしょ寒いんすから!」
「もう寒くねえよ」
もう、寒くない。千章さんから聞くその言葉がなんだかこそばゆい。まだ冬は終わらないけど。毎年冬は来るけど、もう二度と寒い思いはさせないと、俺は秘かに決めた。
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