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駄犬と秋猫 第四章

数日間、俺はろくに眠れなかった。千章さんとの最後の会話も、あの動画のことも、忘れられるはずなどない。弁護士のサイトを見て、ネット上に残る悪質なイタズラを消す方法を一晩中探した。それによると、千章さんの動画のケースだと、上げた本人が大元の動画を消すしか方法はないらしい。その結論に至って、俺は千章さんに不要と言われたのだと思い出し、絶望する。 その結果、俺のメンタルはそろそろ限界だ。講義中も屍同然に突っ伏しているし、同期に引っ張られていった飲み会でも空回りばかりしている。それでも誰も俺を仲間外れにしないのは、今までの俺が必死に皆を笑わせて、頑張ってきた功績が皆の中に残っているからだ。帰ってもまた落ち込むだけだしな、と思っていたら、オールボウリングまでだらだらとついてきてしまった。 「おーい、次、ゆーまの番!」 「ん、おけー」 「見せたれよ! 植村の十六ポンドの威力!」 笑いを取るために、いつも無理して使っていた十六ポンドの球に指を入れる。グッと指先に力を入れたのに、落としてしまいそうになって左手で支えた。今日はダメだ。俺には重すぎる。脂汗が滲む。本当なら、その場に座り込んで嘆きたいくらい、精神はすり減っていた。真っ白な心に、千章さんのタバコで根性焼きをされたみたいに、その部分が絶え間なく痛いと訴える。そして千章さんは、もっと痛いんだぞと主張を続ける。やっぱり帰った方が良かった。もう終電は丁度終わったくらいだろうか。でもそれができないのが俺の性分で。 「いったるでー!」 カラ元気を体現したような動き。思い切り投げた黒いボールは、一直線に右のガーターへ吸い込まれた。リアクションが上手くできない。俺がこうしている間にも、千章さんは、と考えると居ても立ってもいられない。普段ならすぐに後ろのストッカーから取りに行く二球目も、投げたボールがベルトに乗ってガタゴト戻ってくるのを待っていた。 「ゆーま今日調子悪くなーい?」 「どしたどした?」 ベンチに座る女子の声。いつもなら反応して笑いに変えるのに、今日は聞こえない振りをした。当然のように二球目もガーター。無理もない。俺はストライクなんて、一ミリも狙っちゃいない。 ミスすることも、いじられることも、いつもなら笑いの渦に変えて見せるのに、異常なほど落ち込んだ。自分の番が終わると、ちょこんと離れたプラスチックの椅子に座って、カラフルなボールがレーンを転がっていくのを漠然と眺めていた。今までは、友人のボールがどんな動きを見せて、何本ピンを倒すのか、スコアは誰が優位なのか、そんなことに全力になれた。でも今、皆が投げるボールは全部、関係のない人や車の流れと同じようにしか見えないのだ。 このままいると、人間関係に亀裂が入りそうな予感がして、俺は屋外へ出た。来た時に羽織っていたMA―1は、皆がいるベンチに置きっぱなしだ。ゲームはまだ一投目だった。でももう戻ることはできなかった。 布団の上に倒れ込みたい。このままじゃ、どうせ熟睡なんてできないだろうけれど。それに東横線に乗ることももうできない。それでも俺は大学の方へ向かって歩いた。大学へ行っても何もない。でもそこから千章さんの家まで歩くことはできる。そう唱える思考回路は、純粋な子供みたいだと思った。もうあの人のところへは行けないんだよ、と言って聞かせても、どうして?と聞いてくる子供のように、聞き分けが悪い。 大学の前の通りに差し掛かったところにある公園に、大きな箱が落ちているのが目に留まった。普段なら、ホームレスのものか、くらいで特に気にしないけれど、なぜかそれが無性に気になる。数歩近づいて覗き込むと、ちょうどボウリングの球くらいの大きさの毛玉が目に入った。 「ウサギ…?」 思わず声を発してしまった。ケージごと段ボールにすっぽりと入っている。しゃがんで中を覗いてみると、やはりそこにいたのはウサギに間違いない。濃いベージュで、新聞紙の中で微かに震えている。手を翳すと、ほのかに生き物の温もりが感じられた。 「よかった…生きてる」 今の時代、しかも寒くなってきている時期に、道に動物を捨てる人間がいることに衝撃を受けた。このまま俺が放置したら、この小さな命は絶えてしまうかもしれない、という責任感が顔を出す。ケージを目の高さまで持ち上げると、つやつやと街灯の光を反射する漆黒の目と目が合った。大好きな人にお前の代わりはいくらでもいると追い出された人間と、どんな事情があったか知らないが、寒空の下に放置されたウサギの間に、奇妙な縁が生まれた。そう考えると、今はこの小さな動物が、唯一の友達のようにも感じられた。 しかし、実際に飼うとしても、俺の実家には弟がモモと名付けたビーグル犬がいる。加えて母親がそいつの世話だけで既にヒステリー気味になっているので、これ以上動物を飼うことはできない。となると、思い当たる場所は一か所しかなかった。 * 呼び鈴は一度だけ、ピンポーン、と鳴る。その後空白の時間が続いてしばらくすると、ガチャガチャっと解錠されて、眠そうな顔が現れるのが決まりのパターンだった。でも今日は、普段の二倍も三倍も長く静寂が続いている。やっぱり、ダメか。もう一度呼び鈴を鳴らすつもりは毛頭なかった。俺は追い出されたわけだし、今更自分の都合で飼えない動物を押し付けようとするなんて、いくら俺でも無礼だと分かる。 ところどころ塗装の禿げた扉を眺めていると、その奥にいた頃の自分が、心底憎たらしく思えた。気づかないうちに、いくつもの言葉で千章さんを傷つけていたんだろう。今更後悔しても、覆水は盆に返らない。五秒数えて、そして二度とここに来るのはよそう、と決めた。 五、四、三、二、…。そこまで数えて「一」が来るのが怖かった。それでも二の次は、一なのは変わらない。加えて悪あがき、ゼロ、と唱える。 虚しい笑いがこぼれた。お兄さんが間違ってたみだいだ。帰ろうな、と心の中でウサギに話しかける。でも、どこに?と問われたら、黙るしかない。左手に提げたケージの金網が、呼応するように掌に食い込んだ。その時、軽い鉄製の扉が、錆びついた音を立てて開いた。 「…もう、来るなって、言っただろ」 久しぶりに聞いたその声は頼りなかった。砂漠で十日間彷徨った人がいたら、きっとこんな声を出すのだろう。今なら、覆せるかもしれない、咄嗟に思った。悪い言い方をするなら、つけ入る隙があると思ってしまった。 「千章さん、誕生日プレゼントです」 俺の悪い癖で、全く言うつもりのなかった言葉が咄嗟に口をついた。千章さんの誕生日が先週だったことが突然思い出されたのだ。おずおずと、ケージを掲げて差し出す。おい違うだろ、俺。ちゃんとしろ。言いたかったことを言うんだ。千章さんは、呆気にとられて怒る気力も失せた、と言う顔で俺を見下している。 「え。なにこれ…ウサギ?」 「…そうです」 「要らねえよ…困る」 「…ですよね」 気まずい時間が流れる。でも今日の千章さんの言葉は、いつものような棘や勢いがない。お前は要らないと宣告されたことは、俺の見た悪夢だったのだろうか。千章さんは俺を拒絶しない。 「とりあえず、上がれよ。そいつ、弱ってる?」 「はい。さっき拾って…」 一歩踏み込むや、部屋の変わりように言葉を失った。何日も喚起していない籠ったにおいがする。見渡す限り酒の空き缶とシケモクの山が広がっていた。一体何本の酒と何箱のタバコを摂取したんだろう、と心配になる。やっぱり、俺が千章さんを追い詰めたんだ。 「何か、食べさせてやんねえと。人参とか、あります?」 「あると思うかよ」 会話をするうちに、少しだけ、いつもの調子が戻ってきた。でも今にも頽れそうな体を見ていると不安になる。 「それに、ウサギはそんなに人参は好きじゃねえよ」 「そうなんですか」 ケージをダイニングテーブルの上に置き、中をよく見ると、固形の餌がざくざく入っていた。見た感じ、まだそんなに時間が経っていないようだ。これだけ生き永らえる分の餌を携えておきながら、捨てるという選択をした人の行動の矛盾に腹立たしさを覚えた。 「水、飲ませないとな」 千章さんがウイスキーを飲むための円筒形のグラスを洗って水を入れる。 「ウサギって水のまないんじゃないんですか?」 「馬鹿。マジでそんなの信じてんのかよ」 千章さんは、やっぱり頼りになる。ウサギの事にも精通しているみたいだ。それとも俺が常識知らずなだけなのだろうか。 二人で、耳を後ろに倒して千章さんが与えた水を、ウサギがごくごくと飲んでいるウサギを見つめた。どうして、こんなことになったのか。数時間前の俺には想像もつかなかったことが起きている。千章さんに会ったらすぐに謝ろうと思っていたのに、イレギュラーの連続で、どんどんタイミングを計れなくなっている。 千章さんの横顔は懐かしい。小さな命に向いた眼差しは、俺がよく知っているもののままだった。自分の方が、今すぐなにか食べた方がいいと思うくらい痩せさらばえてしまっているというのに。この人はひたすらに、優しい人なのだ。だからこそ、そんな人を貶めたやつが許せない。今日はなんだか、見知らぬ人を相手に怒ってばかりだ。 「ウサギは水飲まないって、誰が言ったんですかね」 独り言のように呟いた。徐々に目頭に溜まった熱が、今にも零れ落ちそうだ。声がくぐもってしまう。 「そんな噂、広めた人がいるせいで、ウサギは困ってるっすよ」 千章さんは、それだけで何かに勘づいたようだった。いつもなら訳わかんねえよ、とツッコんでくるのに、ウサギをじっと見て黙っている。 「あの、俺、千章さんに謝りたくて」 一気に畳みかけようと息を吸うが、予想外の千章さんの言葉が遮った。 「謝るのは、俺の方だ」 やっと、俺の方を見た。なかなか真直ぐ見てはくれなかった目は、迷子の子供のように心許ない。そして、今にも消えそうなほど儚くてきれいだ。 「酷いこと言った。佑真を傷つけた。悪かった」 ダメだ。まだ俺の謝罪が終わってない。それに、それは違う。そんな千章さんは見たくない。絞り出すような声を聞く間、ブンブンと千切れるくらい強く首を横に振った。 「俺だって、千章さんのこと、何も知らないで勝手に酷いこと言った」 「お前は悪くない。でも…」 急に目線を下へ逸らす。きっと、不本意な嘘を吐く準備をしているからだ。 「でも俺は、お前みたいな男と一緒にいていい人間じゃない」 「また、勝手に決めつけんなよ!」 二人が不穏な空気を出したからか、ウサギがびくっと反応して金網が不快な音を立てる。その余韻が、ありえないほど長くこだました。そこに不協和音のように、否定的な言葉が重なって聞こえる。 「俺は一生まともに就職もできないし、実家からも勘当されたようなゴミクズだ」 「千章さんは、ゴミクズなんかじゃない!」 こんなに、思ったことをストレートに伝えたのは今日が初めてだ。だって不快だった。千章さんは悪魔みたいに余裕で笑っているのが似合うし、そんな蠱惑的なところに惚れた。悪魔にそそのかされて狼狽える方じゃない。俺の言葉の率直さに少したじろいだのか、千章さんの声量が削がれた。 「何も知らないくせに…」 「でも、知ってることだってある」 俺だって、遠いところから見ていただけだけど、それだって分かることは山ほどある。伝えたいことは、山ほどある。文学部落ちこぼれの植村には難題だけど、時間をかけて全部を伝えていきたい。そのために、千章さんにはずっと、声が届く距離にいてほしいんだ。全身に力が入る。 この感覚、初めてじゃないと思った。そうか、よく見ていた夢と一緒だ。また間違えると、千章さんは今度こそどっか遠くへ行ってしまう。小さく息を吸って、夢の中でのことを思い出す。俺がいつも溺れるのは、力みすぎているからだ。ならば考えすぎちゃだめだ。ありのままの思いを、伝えるんだ。駄文悪文でもいいから。 「千章さんは、強がってるけど、本当は誰よりも傷ついてるってこと。本当は誰のことも傷つけられないくらい、すごく優しいんだってこと」 一度引っ込んだはずの涙が、今度は堰を切ったように流れて止まらなくなる。バカ、止まれ。お前が泣いてどうするんだ。でも、体が言うことを聞かない。意志とは無関係に流れ出る涙は、俺から遠慮や敬語を洗い流していく。 「俺が…全員に言ってやる。千章さんのことを悪く言ったり、悪意のこもったイタズラが百万あるなら、俺が千章さんは優しくてカッコよくて魅力的な最高の人間だって。俺が大好きになった人なんだって、一億人に伝えるから! それでいいだろ!」 「…佑真。やっぱ見たのか、あれ」 急に、凍ったように言葉が途絶えた。何て言えばいい。元々華奢な千章さんの肩が、みるみる薄くなっていく。今すぐ抱きしめないと消えてしまいそうなのに、一歩も踏み出すことができない。千章さんの周りに、突然透明のバリアが形成されたような気がした。今、千章さんがどんな気持ちなのか、想像もつかない。急に、俺が直前に放った言葉が、ペラペラに思えてならなくなった。脳内はフル回転でお湯が沸きそうだ。時間にして一秒もあったか分からない沈黙が、俺たちをの間に深い溝を作ってしまった。 「…ふふ、なかなか、ヌけただろ…」 「面白くないっすよ」 全然面白くない。この空気が、千章さんにそんなことを言わせているのだとしたら、俺がぶっ壊すしかない。自嘲なんて、これ以上見たくない。 「サイッテーすよ。あんなことすんの。卑怯ですよ。消させましょう。アップした人間なら、きっと消すこともできるし…」 「そんな簡単なら、とっくにやってるよ」 分が悪すぎる。正義感だけで、どうにかなる問題ではない。ましてこのことを知って数日の俺が介入できる問題でもない。今、どんな言葉を紡いでも、千章さんを囲うバリアに当たってボロボロと崩れ散ってしまうだけだという確信だけがあった。結局、俺には何もできないじゃないか。千章さんにとって、俺は何の価値もない。 「俺、昔編集者になりたかったんだ」 沈黙を破ったのは、千章さんの呟きだった。俺に向けているのかすら分からない。でも、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちて広がるように、ある青年の物語が広がっていく。 「大学四年の時、憧れてた出版社の四次面接まで行ったんだ。ほぼ決まりってとこまで行ってた。なのに、社長面接の前に突然呼ばれて、すぐあのことだって分かったよ」 千章さんはケージの扉をゆっくり開けた。ウサギの頭に手を翳しても、噛んだり逃げたりする様子はない。毛並みに沿って指を這わせて優しく撫でる。今、千章さんを癒せるのは、俺じゃなくてこいつなのかもしれない。 「ずっと、祈りながら生きてきた。どうか誰も、俺の名前を検索しないでくれ。頼むからって。でも、採用活動である程度まで行くと、調べるんだ。どの会社も。バイト先だって、大手の塾はそれでやんわりとクビにされた」 俺はただ全身で千章さんの言葉を聞いた。俺に向けた言葉じゃなくても、耳以外の部位も全部、フル稼働させて言葉に集中する。 「小学校の校長やってる親父にも、あのことがバレて、俺の家は大変なことになった。姉がいたんだけど今は他人だ。散々キモイって、罵倒された。両親にも、金だけ貰ってこの家に越してから、一度も会ってない」 淡々と語っているようだけど、それは負ったダメージを他人事みたいに扱おうとしているからだと、すぐに分かった。お姉さんからぶつけられた言葉を口にした時、千章さんの体が少し強張った。思わず考えた。もし、弟に縁を切りたいと言われたら、俺は生きていけないかもしれない。ただ一人の兄弟に、そんな風に拒絶されたら。人生の大半を共にしてきた家族を失ったら。 沈黙の後、できるだけ感情の乗らない声で尋ねた。今なら、すんなりと返答が返ってくる気がした。 「アップロードした人は分かってるんですか」 「大体…見当はついてる」 「話しました? その人と」 千章さんはそのまま足元を見て動かない。きっと怖いのだ。そりゃあそうだろう。話すことは、イコール嫌な思い出と真っ向から向き合うことだ。でも、このままじゃ、千章さんが不利な状況は変わらない。 俺は高校まで、バスケをやってきた。相手が強くて勝てそうもない時、怖い選手と向き合うのは誰だって嫌なものだ。でも、点を取りたければ、相手の陣地に踏み込んでいかなければ、相手に自分の弱さを明け渡したも同然になる。千章さんの苦しみは途方もない。けれど、やっぱり動かないと、その苦しみにピリオドを打つことは、いよいよできない。 「消しましょう。俺も、手伝います。必ず、千章さんのデジタルタトゥーを消して、何でも好きなことを胸張ってできる人生を取り戻しましょう」 また、きれいごとを言うなと怒鳴られる覚悟だった。でも千章さんはただ鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見ていた。 「俺、佑真のこと傷つけたのに、いいのか?」 意外だった。俺に対して負い目に感じることなんてないはずなのに。 「それは、俺には本気でぶつかってくれたからじゃないんですか? あの日だって、俺があれ以上いたら俺がもっと酷いことを言うだろうと思って、ああするしかなかったんじゃないんですか⁉」 千章さんの手の中で、ウサギが目を閉じる。 「それに、そうやって傷つけたって言えるのは、優しい人だって証拠ですよ」 千章さんは照れたように小さく、うるせー生意気と呟いた。そして、駄々っ子が泣き止む時に大人を試すような目で、もう一つ尋ねた。 「お前は、引かないのかよ。あんな、ビデオ見て」 「そりゃ、ビックリしたし、ショックでしたけど。でも、千章さんは悪くない。あんなの、嫌がってるってすぐに分かるし。全然、ちげーから。その、俺とする時と…」 「いい、も…黙ってろ…」 俺が失言したのがどうでもよく思えるくらい、赤くなった千章さんはひたすらに可愛かった。思わず、俺より数センチ背の高い華奢な体を両腕で抱きすくめた。千章さんの周りを覆っていたバリアは、そんなもの最初からなかったかのように弾け飛んで消えた。そうか、最初からこうすればよかったんだ。何を言おうかと散々考えあぐねたけれど、俺には千章さんを温めることができる体があったと、やっと気づいた。一つではあまりに未完成で頼りない命が三つ、小さなアパートの一室に寄り添っている。互いを、温め合っている。 俺の肩にずん、と頭を埋めて、俺の名前を呼ぶ千章さんの声は、少し湿っぽかった。同時にじわりと熱いものが肩口に広がる。 「…お前の代わりなんて、どこにもいなかった」 その言葉が、恋をする俺にとっては一番嬉しい。それ以外の感情はなかった。 「お前以外の男に抱かれても、全然悦くねえし」 待てよ。何だそれ。千章さんは、一言で俺を有頂天にして、また一言で俺を地の底へ突き落す。そうそう、これでこそ、俺が知っている仲本千章だ。 「…抱かれたんすか」 「いや、最後まではヤってねえ。帰った」 「ったく…。ちょっと目離すとこれなんすから」 「あ? そんなん俺の勝手だろ?」 でもさっき、俺以外に抱かれても悦くないって言ってたな。単純ポジティブすぎる俺の脳みそは、今更歓喜に弾んでいた。 千章さんが耳と耳の間を指でわしゃわしゃと撫でると、ウサギが嬉しそうに頭を下げる。言葉も表情もないのに、感情がちゃんと伝わってくる。動物にも、裏切りとか、義理とかって存在するのだろうか。 「こいつ、メシもちゃんと食うかな」 「何か食べさせねえとヤバいのは、もう一匹いますけどね」 「匹って言うな。匹って」 ムッとした顔になる。そうそう、これを見るために言ったのだ。それ以上に、痩せすぎた首元が心配だったのもあるけれど。 「ちゃんと食ってます?」 「ビールで腹ふくれんだよ。要らねえ」 「食わないと。ほら、コンビニ行きましょ」 「やだ」 まだ駄々っ子作戦か。姉がいたと聞かされた直後だから、お兄ちゃんの俺は無条件甘やかしたくなってしまう。 「…やだ」 でも二回目の「やだ」はさっきと全然色が違った。前言撤回、この人は正真正銘えっちなおねーさんで、こうやって、肝心な時いつも俺を惑わしてくる。顔を上げて俺の右目をじっとり見る目は、潤んでピンクだ。 「そんなことしたら、俺もう…」 ただでさえ、他の男に抱かれかけたって聞いて気が気じゃねえのに。 「我慢、できない…っすよ」 今度は右耳の近くで、掠れた声が最高音質で鳴った。 「…すんなよ」 結局、飯に辿り着かせるのは、一汗かいた後になりそうだ。

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