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第38話
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畳を踏みしめる音が夢の向こうからしてきた。そこではしっかりと腕の中に抱いていはずなのに、温もりがなくなっている。
「ん…………リョータ?」
「おはよう、シオリさん」
ちゅっと軽く口づけられて重いまぶたをこじ開けた。
「今日も行くのか?」
「えーっと……はい」
リョータはすっかり着替えを終えたらしく、手首のボタンを留めている。
高校を卒業後、キッチン君津のアルバイトを続けながら、元丸の不動産屋で雑用係を経て正社員になった。受付や、内見の案内などをこなしながら、ゆくゆくは宅建の資格を取るため、仕事の傍ら勉強もかかさない生活だ。
そんな、普段はいくら言ったっておはようのちゅーをしてくれないリョータが自分からキスしてくれるのは、これから行く先が由悟の元だから。
彼なりにシオリへの遠慮があるのだろう。
「まだ、変化はないんだな。由悟」
「そうみたいです」
あの日、アパートに置き去りにした由悟は開けっ放しの不審なドアに気付いた近隣の住民に通報され、その後救急搬送された。眼球を抉られた姿に、当初は事件の疑いになったが、のちに自分で取り出したことが判明したらしい。
取り出した眼球がどこにあるのかとか、そもそもなんでそんなことをしたのだとか、状況には謎が多すぎるが、怪我が自演であることと、目撃者などもいなかったことから、件の件はすぐに忘れ去られてしまった。
病院に搬送された由悟はといえば、数年経った今も意識が戻らない。身体には異常がないようで医師も首をかしげているが、まさに眠ったまま目覚めないような状態らしい。
今回のことで由悟には身寄りがないことが判明したが、今はなぜか百目が後継人になって入院費他、その身柄を請け負っているそうだ。
リョータは今でも十日に一度ほどは由悟の元を訪れている。なけなしの給料で花を買い、病院に行く。帰りには店主がいなくなり閉まったままの古着屋、ヌードフラワーの周りを掃除している。
理由を聞いても何も言わない。何度かそのことでけんかになったが、近頃やっとリョータにはリョータの理由があるのだと、理解はできなくとも意向を受け入れるようになった。要は黙認だ。我ながら狭量極まりないが、これでも随分譲歩したと思う。
由悟がリョータに惹かれたのも、前世からの因縁だけでなく、そういうところなのだろう。シオリも同じだからよくわかる。
「じゃあ……いってきます」
「おう。うまい昼飯作って待ってるからな。何がいい?」
いつになく素直に送り出すと、振り返ったリョータが一瞬意外そうな顔をしたのち、破顔した。
「シオリさんが作ってくれるものなら、なんでもうれしいです」
消し去りは今も続いていて、定期的にリョータは霊に取り憑かれ、シオリはそれを腹の中に収めている。
ふたりの先にあるものは悲しい未来かなんて、誰にもわからない。そもそも幸せか不幸せかだって、人の感じ方で全然違う。だから随分前からシオリは先のことを考えるのをやめた。
いつものように君津で定食を作り、食べっぷりのいい男子に目を細めてはリョータに睨まれる、変わらない毎日。
今はそんなリョータとの日々が一日でも長く続いていくことだけを望んで、淡々と生きている。
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