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前編
簡素な木の扉を、大仰な甲冑とマントを身につけた淡い金髪の青年が叩く。
白い息に包まれた青年の横顔は、その重厚な出立ちに見合う精悍さだったが、どこか優しげな温かみのある顔立ちをしていた。
わくわくと期待を滲ませた青年勇者の口元が既に緩みかけているのを、斜め後ろに控える小柄な従者が苦々しく見る。
村外れにポツンと建つこの家の周りには、村人の姿は無い。
その口元を引き締めさせるべきか否かと従者が思案している間に、扉へと人の気配が近付いた。
ギイッと木の軋む音をさせながら、扉が開く。
「ああ、来たか」
扉を開けた男は、体の左前で肩下に括られた黒髪を揺らして、金色の青年へ僅かに微笑む。
「あれ、残念。驚かないんだね。俺が来る事、知ってたの?」
「……これだけ張り出されてればな」
男は顎で、通りの奥にある雑貨店を示す。そこへは、冬祭りを知らせる張り紙が貼られていた。確かに、ここまでの道すがらこの張り紙はたくさん目にしたが、どうやらそこへ来賓として勇者が来るという事も書かれていたらしい。
「ふふ、そっか」
少し残念そうに、しかし嬉しそうに、金色の青年が苦笑する。
「ほら、外は寒いだろう。中に入れ」
今は雪は止んでいたが、景色はそのほとんどを白く染めている。
「まだ仕事中か?」
「ううん。今日の仕事はもうおしまい」
ニコッと笑ってそう話す青年に、後ろから従者が声をかける。
「勇者様、夜には宿に戻ってください。村をあげての歓待ですので、あちらに戻らぬわけにはまいりませんよ」
「ああ。わかってるよ」
まるで子どもに言い含めるかのような注意に、勇者と呼ばれた青年は振り向き苦笑を見せる。
「部屋が冷える。さっさと入れ」
男の言葉に、慌てて上がろうとする青年と、背を向けようとする従者。
「お前も入れ。凍えたいのか」
そこでようやく、浮かれていた青年も従者が外に控えようとしている事に気付く。
「ロッソもおいで」
主人から微笑みと共に手を差し出され、思わずその手を取りそうになった従者が、平静を装いながら後に続く。
「では、お言葉に甘えて……」
男は、相変わらずの二人の様子に、白い息をひとつ外に残すと扉を閉めた。
「お前達、腹は減ってないか?」
男の問いに、従者は自身も含められたことを意外に思いつつも答える。
「いえ、私達は済ませて参りましたので……」
「シチューを作っておいたんだが」
その言葉に、金色の青年がぴょこんと跳ねる。
「シチュー!?」
「ああ」
金の瞳が期待にきらきらと輝いている。
「カースのシチュー、俺大好きだよっ」
「……そうだな」
その嬉しそうな姿に、男はたまらず青年の金髪を撫でる。
「少しだけ食うか?」
「うんっ!」
破顔する青年とは裏腹に、従者が申し訳なさそうに申し出た。
「失礼ですが、先に少しいただいても良いですか?」
「毒見か。気を遣わなくていい、いくらでもやってくれ」
快く応じる男が、小さめの器にひと掬い入れようとするのを、従者がそっと制する。
従者は、いつも持ち歩いているらしい布に包まれた銀製の小皿とスプーンを取り出すと、シチューを掬って銀の小皿の上を滑らせた。
色が変わらない事を認めると、香りを確かめてから口へと運ぶ。
「…………美味しい……」
ぽつりと一言、寡黙な従者が零す。
それを珍しいなと思いながら、青年が胸を張る。
「ふふん、美味しいだろう?」
何故か自慢気に返してから、青年は男に自分の分をねだっている。
従者の感想を、許可と取ったのだろう。
「ほら。熱いぞ、気を付けろよ」
男がそう言い添えて差し出す木の器を、青年は少しだけ苦笑しながら受け取る。
青年には、二十歳近く離れたこの男や、十歳以上離れた従者が、どこか自分を子ども扱いしてくる事が、嬉しくもあり歯痒くもあった。
黙々と、銀の小皿に入れたシチューを残さず食べた従者に、男が声をかける。
「お前の分も作ってある。少し食って行くか?」
見上げた従者が、深い森のような色をした男の視線に包まれていた事を知る。
「では……その……、少しだけお願いします……」
なぜか恥ずかし気に、従者が俯いて答えるのを、勇者は楽しそうに眺めていた。
「これは……ご自分で作られたのですか?」
食後の胃にも多過ぎない程度の、軽く椀に注がれたそれを口へと運びながら従者が尋ねる。
「ん? ああ、俺の生まれたとこじゃ麦や小麦をたくさん作ってたんだ。
良い粉を正しく使えば、良い料理になる。それだけだ」
男も席に着き、こちらはたっぷり注がれたシチューとパンを口にしている。
「そうですか……。とても美味しいです」
従者の言葉に、男は顔をあげると「そいつは良かった」と目を細めて答えた。
「俺おかわりもらおうかなぁ」
と空の器を両手に捧げ持つ青年に、男が「また明日な」と声をかける。
暗に明日も来ていいと言われたのが嬉しいのか、金色の瞳が嬉しげに揺れた。
「そっか……、うん、また明日。俺の分、ちゃんと残しといてね」
「分かった分かった」
ぞんざいに返しながらも、男は腕を伸ばしてテーブル越しに青年の金髪を撫でる。
気持ち良さそうに目を細めた青年が、男の手に頬を擦り寄せると、自分の手を重ねる。
「明日のお祭りは、カースも見に来てくれる?」
上目遣いに見上げられ、男は心臓が大きく鳴るのを感じながらも、素知らぬ顔で返事をする。
「何だお前、挨拶でもするのか?」
「うん。一応、主賓だから」
「そうなのか。ならまあ、見に行こうか」
「うんっ。俺、頑張るよ!」
ぎゅっと空いた方の手で握り拳を作る青年を見ながら、男が補足する。
「そんな前まで行かないからな、遠巻きにだからな?」
当日、自分を探してキョロキョロしてしまいそうな青年を心配しているのだろう男の言葉を、分かってか分からずか、青年が作った拳を胸元に運ぶ。
「でもなんか……カースに見てもらえると思ったら、緊張するな……」
不安気に呟いた青年に、男がほんの少し口端だけを上げた。
「じゃあ、俺は見ないでおこうか?」
「い、いやいや!!」
「なんだ。緊張するんじゃないのか?」
揶揄う様子の男に、そうと気付かないまま青年が縋る。
「えと……その……俺、カースに、俺の事見てほしい……」
懇願する声、潤んだような金の瞳にじっと見つめられ、男は芯を射抜かれつつも、
「わかった。よく見ておくよ」
と苦笑を添えて答える。
「っ、ありがとう!」
弾ける、嬉しそうな金色の笑顔。
その眩しさに黒髪の男二人は目を細めた。
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翌朝、村の大広場に設られたステージの、隣に建てられたテントに勇者は居た。
いつもの勇者の鎧に、さらに色取り取りの煌びやかな飾り帯が幾重にも飾られた式典用の装いで、来賓用の椅子の中でも、一際大きな椅子へ腰掛けている。
甲冑を身につけたままのリンデルには、そのまま掛けて十分な大きさのものが用意されていた。
リンデルは、手の平大の小さな紙に、小さな字でびっしり書かれたメモを時折チラと見ながら、口の中でぶつぶつと挨拶の内容を唱えている。
その斜め後ろに立つ従者は、主人のそんな珍しい姿に、勇者に就任したばかりの頃の、初々しい少年の横顔を思い出していた。
初めの頃は、確かにこうして、毎回緊張しつつも必死で挨拶をしていたはずだ。
それがいつからだろうか。
人前で話すことに慣れてきたのか、内容は大体覚えているからと、緩やかに構えるようになったのは。
それで大きくミスをすると言うことも無かったので、ロッソもあまり煩くは言わなかったが、本来ならこのくらい誠心誠意をもって公務に励んでいただきたいものだと思う。
リンデルに残された勇者としての時間は残すところあと二年。
勇者の名に縛られ続ける、長く苦しい十五年間のはずだった。
ロッソは、初めからそのつもりで覚悟をしていた。
なのに、蓋を開けてみれば、彼はよく泣きもするが、同じくらいによく笑う。
元隊長が負傷から引退した後は、しばらく不安定な時期もあったが、それもあの男に会って、すっかり落ち着いた。
毎日を溌剌と、勇者として胸を張って生きる主人の元で、ロッソは人生の中で初めての心穏やかな時を過ごしていた。
戦いはいつでも死と隣合わせではあったが、それでも、この人の側で死ねるなら、この人のために死ねるなら、ロッソはそれが一番の幸せであるような気がしていた。
セリフの暗記に余念がない勇者と、それを熱の篭った視線で見守る従者。
カースが覗いたのは、そんな場面だった。
時折、村の重役がリンデルに話しかけ、挨拶を交わしているようだが、そんな姿も、カースにはまた遠くの存在に思える。
広場を囲むようにぐるりと出された出店では既に営業が始まっていたが、広場の大看板に張り出されていたプログラムを見る限り、リンデルの挨拶まではまだ時間がありそうだ。
広場に背を向け、一度自宅に戻ろうとしたカースは、あの男の好物だった焼き饅頭の屋台を目にしてしまう。
思わず足が止まると、脳裏にあの男が饅頭を頬張る姿が浮かんだ。
あの男は、顔に似合わず甘いものが好きだった。
そんなに食うと身体に障るぞ、と注意する俺の言葉なんかちっとも気にせず、バクバクとよく食べた。
一度動きを止めてしまった足は、中々言うことを聞いてくれない。
仕方なく、カースは焼き饅頭を2つ買うと、人混みを抜けて墓へと向かった。
墓と言っても、協会の裏手でもなければ、共同墓地でもない。
ただ林の端に、目印がわりの石が積んであるだけだった。
そこにあの男は眠っていた。
穴を掘ったのも、そこへ寝かせたのも、土をかけたのも俺だ。
あいつがここに眠っていることを知っているのも、もう俺だけだった。
カースは積まれた石の上に饅頭をひとつ供えて、祈るでもなく、ただ墓を見下ろしていた。
嫌なやつだった。それは間違いない。
あいつのせいで、いつだってどこか痛かった。
人でなしの酷いやつだ。
……それでも、あいつが恩人であることもまた、間違いのない事実だった。
いつの間にか降り出してきた雪が、ひらりと鼻先に舞い降りて、カースは首を縮めると墓に背を向けた。
振り返るとそこには、あの勇者の側にいつもいるはずの小柄な従者がいた。
「……なんだお前。あいつを放っといていいのか?」
カースは、小さく肩を揺らしてしまった事実を無かった事にして、なんでもない風に尋ねた。
「祭りの間は、勇者隊から腕の立つ者が警護にあたっています」
ロッソはカースをまっすぐ見て答える。
むしろ、祭りの間だからこそ、勇者の側を離れることができた。
この男と二人で話せるのは、今しかなかった。
「……俺に、なんの用だ」
男から若干の警戒を感じて、ロッソが丁寧に礼をする。
「あなたと話せたらと……思ったまでです」
ロッソはそう言って微笑んだが、ピリッとした空気は変わらず二人の間にあった。
沈黙の中、従者は内心ため息をついた。
遠回しに言ったところで警戒が強まるだけだろう。
ここは単刀直入に切り出す方が良さそうだ。
そう判断して、口を開く。
「あなたは、ゴルラッドの方だったのですね」
男は一瞬目を見開いて、すぐに伏せた。
酷く顰められた眉が、地を見つめている。
とうの昔に捨てた名だった。
あの消えてしまった国と同じ名は、あの日、国と一緒に消えたはずだった。
消えて無くなって、もう、誰にも呼ばれなくなって久しかったのに。
「……よく分かったな…………」
絞り出すようにそう答えた男の、纏う気配が、ゆらりと揺れて重くなる。
「それを知って、どうするつもりだ」
チリッと、殺気のようなものが肌に触れ、ロッソは思わず半歩後退る。
「また、あいつに近付くなとでも言う気か」
暗く低く、唸るような声。
「そうではありませんっ」
ロッソは慌てて叫んだ。
「そうではなく……。ただ、私は、お名前をなんとかしていただければと……」
ロッソが自らの悪手に後悔を滲ませながら、カースへ必死で訴える。
その名は、この男にとって決して触れてはいけない部分だったのだ。と今さら気付く。
「……名前?」
カースの全身から溢れた澱みが、じわりと薄まる。
「ええ、その……『カース』では人前で、その……」
つまりは、従者としては『呪い』を指す単語を、光の象徴である勇者に度々口にしてほしくないと言うだけの話だった。
「俺の事は、好きに呼んでくれればいい」
カースは暗い影を霧散させ、ぞんざいに答える。
ロッソは、以前にもこの男にそう言われていた。
けれど、そう言われたところで、人の名などつけたこともないこの従者に「じゃあこう呼びましょう」と言うのは土台無理な話だった。
「……っ、ですが……」
本当に、心底困ったと言うような顔の従者を見て、男はやっと気が付く。
この生真面目そうな従者は、もしかしたら、友達にあだ名すらつけたことがないのかも知れない。
相手の良いようにと委ねたつもりだったが、この従者にそう言ってしまうのは酷なことだったのか。
理解した男が、立ち尽くしてしまった従者の小さな背を励ますようにトンと叩いた。
「!?」
従者が、いつの間に距離を詰められていたのかと、驚愕の表情で見上げる。
そんな顔を見下ろして、カースはほんの少し口元を緩める。
「困らせて悪かった。俺もすぐには思いつかん、が、決めておこう」
森の色をした瞳が、優しくロッソを見ている。
それに気付いて、ロッソは息が詰まりそうになる。
「……あ、ありがとう、ございます……」
礼を言うのが精一杯という様子の小柄な男の頭を、カースはすれ違いざまにひと撫でして慰める。
カースはそのまま数歩進んでから、足を止めた。
振り返らずに告げる。
「もう、俺のことは詮索するなよ」
背後で従者が息を呑む音がした。
「はい、決して……」
その言葉にカースはひとつ頷いて、振り返らないまま、墓を後にした。
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日も陰り、薄暗くなってきた村の中を、足早に進む人影がひとつ。
雪は風とともに強くなり、視界を白く染めてゆく。
ノックの音に、カースは扉を開けた。
「カースっ」
「とにかく入れ」
男は、自身を一目見るなり破顔した青年に苦笑を浮かべつつ、その肩をぐいと中に引き込むと、扉を閉めた。
風とともに勢いよく室内に飛び込んだ雪が、力を失いふわりと舞い落ちる。
「どうだった? 見ててくれた?」
目深に被っていたフードを脱ぎつつ、青年が期待を浮かべて尋ねる。
「ああ、立派だったよ」
ふ。と口角を上げて、森色の瞳が緩やかに青年を撫でた。
「そっかー、ふふふ」
簡潔に褒められて、青年は見えない尻尾をブンブンと振る仔犬のように体を揺らす
。
「お前一人か?」
扉の外に、人の気配はない。それでも男は念のため尋ねた。
「うん」
「あの従者はどうした」
「ロッソは……俺の身代わりになってくれた」
「ん?」
どこか不穏なその単語に、カースはリンデルの次の言葉を待つ。
「俺は日中の疲れが出て、宿で休んでることになってるんだ」
「……それでそんな格好で来たのか」
カースは僅かに入ってしまった肩の力を抜きながら、金色の青年を上から下まで眺めた。
リンデルは、ラフな普段着の上から全身を包むようなローブを着ていた。
ちょうど雪も吹雪になりつつある今なら、そう怪しい格好でもないだろう。
(しかし、あの従者が、こいつを一人にするなんてな……)
カースがどこか信じられないような顔をしているので、リンデルは小さく苦笑する。
「俺だって、村の中くらい一人で歩けるよ」
「夕飯は済ませたのか?」
「ううん、まだ。だってカースのシチュー食べる約束したよね?」
「……毒見はいいのか?」
「カースは、ロッソに信頼されてるんだよ」
リンデルの濡れたローブを片腕で器用に干していたカースが、その言葉に振り返る。
……そうなのだろうか。
こんな、呪われた俺を?
そう長く、共に過ごしたわけでもないのに?
それどころか、今日なんて、あの従者を殺気で炙ってしまったと言うのに。
「……早く名を決めないと、な……」
あの従者の顔を思い浮かべて、カースはポツリと呟いた。
「名前……?」
リンデルが首を傾げる。
「ああ、俺の呼び名だ」
「カース……?」
「……お前がその言葉を口にするのは良くないようだ」
カースはリンデルを椅子へ座らせると、食事の用意を始める。
先に、ほんの少しの軽い酒を出されて、リンデルはそれに口を付けた。
「ロッソが、そんなこと言ったんだ……」
「責めてやるなよ? あの従者は間違っちゃいない」
「……」
リンデルは両手で酒の入った小さなグラスを包んでいる。
その水面を、じっと見つめていた。
「考えてはいたんだが、なかなかこれというのを思いつかなくてな」
リンデルは何も言わなかった。
しばらく、二人の耳には食事を用意する音だけが聞こえる。
「……カースの、本当の名前はなんていうの?」
静かな声だった。
問われて、男が振り返ると、金色の瞳が真摯に男を見つめていた。
墓の前でロッソに言われた言葉が、耳に蘇る。
もう二度と、聞くことはないだろうと思っていたその名……。
男は、その金色から目を逸らして、掠れた声で答えた。
「……ゴルラッド・ディ・クルーヴ」
この名をまた口にする日など、来るはずがないと思っていた。
たとえリンデルに問われたとしても、生涯伝えるつもりはなかった。
なのに、なぜか、今、口から零れてしまった。
「クルーヴって言うんだ?」
呼ばれて、男が表情を嶮しくする。
「……やめろ」
苦し気な男の様子に、リンデルは優しく尋ねた。
「どうして? 俺はカースの本当の名前、教えてもらえて嬉しいよ」
「もう捨てた過去だ……」
「……そっか」
リンデルがそれきり黙った事に、男は内心安堵しつつ、作業に戻る。
昔から、こいつはなんでも聞いてくるやつではあったが、こちらが嫌がればそれ以上踏み込むことはなかった。
どうやら、そんなところも、変わらずにいてくれたらしい。
心の奥が安心感で温かくなるのを感じながら、男は器にシチューを注ぐ。
間もなく、二人分の食事が食卓に並べられ、男も青年の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、新しい名前は俺がつけてもいい?」
顔を上げれば、温かい金色の瞳が二つ、男を見つめている。
目の前でもうもうと湯気をあげている料理よりも、なお温かな色をした瞳。
男はゆっくり頷いた。
「んー……、シチューが美味しいから、シチューとか?」
「おい……」
森色の瞳が半分隠れる。半眼を向けられてリンデルは悪戯っぽく笑った。
「カースはさ、今の名前が好き?」
「……いや……。そんな、ことは……」
ほんの少しの動揺を滲ませた男の言葉はそこで途切れる。
カースというのは、あの男が付けた名だった。
名を捨てた俺を、あいつが勝手にそう呼んだ。
お前にはお似合いだと、そう言って、クックッと喉の奥で笑っていた。
茶色がかった黒髪を、手入れのされていないボサボサの頭を揺らして。
ここではないどこかを見ながら黙ってしまった男を、青年は見つめる。
なんとなく、分かってはいた。
この家には、ほんの少しだけれど、あの獣と煙の臭いが残っていたから。
でも尋ねたことは無かった。
俺と離れてから、今まで、誰と過ごしていたのか。とは。
今、彼が一人なら、それでいい。
ずっと、そう思おうとしていた。
それでも、こんな風に、時折心を奪われている様を見せられると、どうしようもなく暗い何かが心に滲んでしまう。
この人の前でだけは、あの頃のままの、まっさらな自分でいたいのに……。
「リンデル、冷めるぞ」
声をかけられて、リンデルはハッとする。
手の中の木の器から、少し冷めてきたシチューを掬って口に入れる。
あの頃と同じ。
あの頃と同じ味がするはずなのに。
今の自分にはどこか苦く思えた。
「お前が……呼んでくれるなら、なんだっていいよ」
男が、そっと労わるように言う。
リンデルが黙っているのを、名前に悩んでいるからだと思ったのだろう。
リンデルは、ほんの少し迷った後、心を決める。
今の名をつけたのが誰かは、もう考えないことにしよう。
カースが今の名を捨てたくないと思うなら、やはりここは、彼の気持ちを優先したい。
「……じゃあ、カーシュっていうのは、どうかな?」
「カーシュ……」
男が、確かめるように繰り返す。
「これなら、俺がうっかり呼び間違えても誤魔化せるしさ」
リンデルが悪戯っぽく笑うと、
「そうだな」
と男が口元を緩めた。
「それに、全部変えなくても、俺が外で呼ぶときだけでいいよ」
「分かった。そうしよう」
穏やかに目を細める男を、リンデルはどこかホッとしながら見た。
自分の中の醜い部分を、今日もこの人に気付かれずに済んだ。と。
しかし、ここで安心したのはまだ早過ぎたと、リンデルは後から気付くことになる。
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リンデルは「明け方までに帰れば大丈夫だから」と、食後も男の家に残った。
諸々を済ませ、男の寝室に案内された時、リンデルは男の背後でほんの一瞬眉を顰めた。
やはり、そこには一人で寝るには大きすぎる寝台が、一つだけあった。
男は初め、リンデルを宿に戻そうとしていた。
今までも、男の村にリンデル率いる勇者隊が駐屯することはあったが、宿や、テントを手配するロッソが勇者の部屋だけをうまく他隊員から離してくれていた。
そのため、カースはいつもそちらへ出向いていたのだが、今回は違った。
村の祭りの主賓として呼ばれた勇者達の部屋は、全て村の者が手配をしていたし、部屋割りも、隊員同士ならともかく勇者に関しては変更できそうになかった。
しかし、
「次いつ会えるか分からないから……、もう少しだけ、カースの側にいたい……」
と懇願するリンデルを無下にすることは、男にはどうしてもできなかった。
「俺は暖炉の前で十分だよ」
と微笑むリンデルを、カースは渋々寝室へと案内した。
こう寒くては、火が弱った隙に凍えてしまうかも知れない。
けれど、この寝室に青年を入れることに、男は若干の抵抗があった。
リンデルは勘がいい。
何か……あの男の残した影を、見つけてしまうかも知れない。
この部屋には、あの男が残した煙管が一つだけ、引き出しに入っている。
が、それを見られないとしても、リンデルのことだ。何か勘づいてしまったとしても、おかしくはない。
そんな焦りが男から滲む。
この部屋の何よりも、あの男の影が濃く残っているのは自分自身だという事に、カースはまだ気付けなかった。
「カースの家は、どこもかしこも綺麗にしてるね」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、リンデルが男の寝台に寝転んでいた。
「カースも、こっちに来て……?」
腕を伸ばされ、男がその手を取る。
その時やっと、カースはこのベッドが一人で寝るには大きすぎるサイズだったことを思い出す。
リンデルは、何か思っただろうか。
恐る恐るその目を見ると、金色の瞳はゆっくりと妖艶に瞬いた。
「カース。俺と、えっちなこと……、しよ?」
「あ、ああ……」
何も言われなかったことに、男がホッとしようとして、思い止まる。
何も言われないのは、気付いてないからじゃなく、もう、既に、リンデルは全て分かってるんじゃないか?
だから敢えて……、何も言わないんじゃないのか……?
ゾクリと背筋に寒気を覚えて、男が身を震わせる。
「……カース?」
リンデルは、男を胸に抱き、その黒髪を優しく撫でた。
「どうしたの? ……震えてるの?」
尋ねながら、リンデルは括られた黒髪を手に取って、口付ける。
カースの顔色が少し青ざめていることに気付くと、心配そうに眉を寄せた。
「寒い……? 風邪でもひいちゃったかな。熱は……」
と、男の額に自身の額を寄せる。コツンとくっ付けてしばらく目を閉じた後、
「今のとこ無さそうだね」
と呟き、男の頬に、虚ろな瞼に、口付けを降らせる。
「カース、どうかしたの?」
「……いや、何でも……な………いや、その……」
はっきりしない男に、リンデルは首を傾げる。
しかし、その心中は穏やかではなかった。
この男の心が、今、ここにはない。
それがどうしても耐えられず、リンデルは、縋るようにその唇に口付けた。
「ん……っ」
男が、目を見開いてリンデルを見る。
自分を見てもらえたことに安堵しながら、リンデルは男の中へと舌を入れる。
男が、求めに応じるように口を開く。
カースの頭を抱き寄せて、その中へと、深く侵入する。
どうかこのまま……。
リンデルは祈る。
カースの中を、俺だけで埋め尽くしていられますように。と。
息が詰まりそうなほど深い口付けに、青ざめていた男の頬がほのかに染まる。
繰り返し繰り返し、浅く、深く、唇を交わすと、リンデルの頬にも、じわりと赤みが差してきた。
重ねた唇はそのままに、リンデルが手探りで男を愛撫する。
服の上からでも、胸の突起が分かるようになると、金色の青年はそれを懸命に撫でた。
一瞬でも手を止めてしまうと、腕の中の男がまた、別の人の事を考えてしまいそうで……。
「……っ、ん……」
口の中に小さく漏れる男の声に、リンデルは頭がじんと痺れるような感覚を覚える。
カースが体を支えず済むように、優しくベッドへと押し倒す。
木製のベッドが、ぎしり。と軋んだ。
その音に、カースが一瞬肩を揺らす。
カースにとって、この音は聞き慣れた音だった。
あの男がまだ元気だった頃は、このベッドで、あいつが果てるまで、毎夜のように嬲られた。
もう、思い出したくもないのに。
今も、この音を聞くと、耳元であいつの囁く声が聞こえる気がした。
あいつは痛みを与える度、愛を囁いた。
傷を刻む度、愛していると繰り返した。
いつだって自分勝手に俺を組み敷き、気の向くままに殴りつける癖に。
俺が壊れることを、あいつは何よりも怖がっていた……。
「カース……?」
リンデルの声に、カースがびくりと体を強張らせる。
一瞬、あいつに呼ばれたのかと思った。
あいつの声は、リンデルより、もっとずっと低くて潰れた声なのに……。
気付けば、男は帯を解かれ、胸元を露わにさせられていた。
足元に居たリンデルがずるりと男の下着を下ろすと、現れたそれに長い指を絡める。
青年の両手に包まれ、ゆっくりと、大事そうに扱かれて、男はようやくリンデルを見た。
そして驚いた。
金色の青年は、まるで今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「リン、デル……?」
「カースっ」
青年が、ぎゅっと男の胸にしがみつく。
「やっと、俺を、呼んでくれた……」
顔を擦り付けられて、ようやく男は目の前の青年を置いてけぼりにしていた事を知る。
「あ……ああ。すまない、俺は……」
ふっと、男の空と森の色が陰る。
リンデルは、また男を攫われるのが耐えられず、縋った。
「カース、俺を見て。お願い、カース……」
力強く唇を吸われて、男が心を揺らす。
自分を必死で求めてくれる、この青年を悲しませるつもりなんてなかった。
なのにどうしてか、今日に限って、あの男の影が離れない。
あの茶色がかった黒髪が。
焦げ茶の瞳が。
今も、俺の側にいた。
ぽたりと頬に温かいものが降って、男は目の前の青年が涙を零したのだと気付く。
「リンデル……、泣かないでくれ……」
青年の涙を指の腹で拭って、男はその伏せられた瞼に口付ける。
ぎゅっと口を一文字に引き締めて、眉間に皺を深く刻んだ青年の顔には、悲しみよりも悔しさの方が強く滲んでいた。
青年が、震える唇で尋ねる。
「俺じゃない人の事、考えてたんだね……」
「……そんな事は……」
「っ、言いたくないなら、もっと、ちゃんと、隠してよ……」
青年の言葉の端が掠れて消えると、男の上に、ポタポタと雫が降り注ぐ。
「リンデル……」
男は、青年の頭を抱き寄せると、その頬へ、耳へ、首筋へと慰めるように口付ける。
小さく肩を震わせた青年の服を捲ると、短い方の腕で押さえて、胸へも口付ける。
青年は、時折息を漏らしながらも、男の体を気遣ってか、男の上から足を下ろすとその隣へと横たわった。
ぎしり。と音が鳴り、男の表情が一瞬歪む。
リンデルが、男を奪われまいとその唇を塞いだ。
「んっ……カース……」
口の中で囁かれ、カースがその侵入を受け入れる。
ぎゅうっと男の頭にしがみついてくる青年のズボンを、男は片腕で緩めると、じわりとずらした。
「ふ……んぅ……」
夢中で唇を重ねる青年が、息苦しげに声を漏らす。
下着越しにも立ち上がっていると分かるモノをひと撫ですると、青年の腰がびくりと浮いた。
「ンンッ」
そんな反応を愛しく思いながら、男は後ろ側へと手を伸ばす。
男が触れやすいようにと青年が腰を寄せると、下着越しに、男のそれと青年のそれが触れ合った。
「ンッ……」
小さく肩を揺らす青年に、男は目を細める。
青年の下着を下ろすと、飛び出したそれがまた男のものに重なる。
「ッ……」
衝撃に跳ねるように、慌てて唇を離した青年は、真っ赤な顔をしていた。
「どうした?」
空色と森色の瞳がまっすぐ自分を見ている事に、リンデルは心躍る。
「カース……」
「どうかしたか?」
男に尋ねられて、リンデルは恥ずかし気に俯いた。
「だ……だって、カースの、が、俺のに当たって……」
その耳までもが赤く染まる。
そういえば、あの頃未精通だったリンデルには、こんなことは初めてだったのかも知れないな。と男は思いながら、自分と青年のものを合わせて扱き始めた。
「あ、あっ。ん……っ、カース……っ」
「なんだ?」
「は、恥ずかしい、よ……」
金色の瞳を隠すように、伏せられた睫毛が震えている。
「何が恥ずかしいんだ、お前は。俺を平気で誘う癖に……」
呆れたように返しながらも、男は青年のその新鮮な反応を楽しんでいた。
ゆるゆると扱いていると、次第にどちらのものか分からない汁でぬるぬると滑り始める。
「ん……ぅ……んん……」
水音が聞こえだすと、リンデルの堪えるような熱い息が男の肩へかかるようになる。
「ふ……、う……、っう……ん、ぁ」
くびれ同士を重ねて、その溝をくるりと撫でると、ビクビクと青年の肩が揺れる。
「あ……っ、やぁ……んっ……」
もじもじと何かを我慢するように、青年が身じろぎをする。
男にはリンデルの欲しがっているものが分かっていたが、残念ながら男の手は一つしかない。気付かないフリをしてさらにその手を早めた。
「ふ……、ぅ……、んん、んんぅ……っ」
ぎゅっと男の服を掴んでいた青年の手に力が篭る。
そろそろ限界だろうか。と男は少し残念に思う。
「ぅ、あ……。ん……やだ、カース……ぅ」
切実そうに、滲んだ瞳で見つめられて、男は求めに応じる。
後ろへと手を回すと、青年のそこはすでにヒクヒクと震えて熱を持っていた。
「入れるぞ」
告げて、既に二人の体液でドロドロになった指を、ゆっくりと挿し入れる。
季節のせいか、いつもより冷たく感じる指にヒヤリと体温を奪われて、リンデルは身震いと共に息を吐いた。
「は……っ、あ……」
青年が、男の肩に顔を埋める。
「相変わらず、キツイな……」
日々重たい甲冑を支え、剣を振るう筋肉がぎゅっと詰まった体は、一見ごつごつとはしていない割に重く、その中までもが引き締まっていた。
何とかゆるゆると動かせる程度に解し、二本目を添える。
「ふ、う……っぅうん……っ」
ずぶずぶと内壁を押し広げて、二本目が根元まで入る。
緩やかに動かすと、青年から可愛らしい声が漏れる。
「んっ、あっ、あっ、ああっ」
それに合わせるように男が腰を揺らすと、二人のモノがぬるりと擦り合わさる。
「んぅっ、はっ、ああんっ」
うっとりと目を細めて、快感に囚われる金色の青年を、男が上気した眼差しで見つめる。
髪と同じ金色の眉が切なげに寄せられて、滲んだ瞳の瞳孔は開きかかっている。
長すぎず整えられた金色の髪は、男の指が動く度にゆらゆらと揺れて、そんな艶めかしい青年の表情を彩っていた。
三本目をそっと当てがうと、入り口が期待に震えている。
求めに応じるように、男は中へと三本目を這わせた。
「は……ぁう……ううん……っっん」
金色の瞳を包む細い金のまつ毛が、悦びに震えている。
三本の指で青年の中を優しくかき混ぜると、その度愛らしい声が零れた。
「んんっ、ああっ、あっ、んっ、ああんっ」
グチュリと音を立て奥まで指を突き立てると、青年の体がびくりと跳ねる。
「ああああっ!」
青年が、縋り付くように、両手で男の肩を掴む。
「や、気持ち、い……っふあっ、ん、……カースっ、あっ、お願……んんんっ」
追い詰められてきた青年に、潤んだ瞳でねだられて、男は指をずるりと引き抜く。
「ぅあ……っ」
とろりと、半開きのリンデルの口端から唾液がこぼれる。
それをぺろりと舐め取って、男が尋ねた。
「入れてほしいのか?」
「ん……入れて……ほしい……」
金色の瞳が、期待に滲む。
「カースのを……。俺の、中に……入れて……お願い……」
待ちきれず、男に跨り、男のそれに手を伸ばしてくる青年に、男は口端を上げて応える。
ベッドの軋んだ音も、今は気にならなかった。
「力抜いとけよ」
「ん……」
リンデルは、甘く痺れた頭の隅で思う。
その言葉は……。
カースが……きっとゼフィアに言われた言葉なんだ……。
ずぶずぶと肉を割き、男のそれが入り込む。
それを迎え入れるように、青年も男の腹へと腰を落としてゆく。
「あ……っ、はぁっ……っあああっ」
切望していた男のそれが、自身に入っている。と、そう思うだけで、リンデルの頭の中は快感に埋め尽くされ、思考が途切れた。
「あったかいな……」
男は幸せそうに呟いて、下から突き上げ始める。
「あっ、あ、んんっ、あああんっ、あっあああっ」
リンデルの元々高い声が、さらに上がって鼻にかかったような甘い響きになる。
その声に誘われるように、男はさらに深く、強く突いてゆく。
「うぅ、ん、あっ、あああ、ああっ、んっ」
「リンデル……」
男に囁かれ、青年は熱の高まりを感じる。
「は、あっ、カース……、カース……っっ」
男は、まるで縋り付いてくるように自身をきゅうきゅうと締め付けてくるリンデルの内側に、背筋をのぼる熱を次々と感じる。
「ああ……、リンデル。お前は可愛いな……」
男の囁くような声にリンデルは、快感に押し潰され、ぎゅっと閉じてしまった金の瞳を、何とかじわりと開く。
空の色と、森の色は、今、愛しげに青年だけを見つめていた。
「……っ、カースっ、ああっ……、カー、ス……っっ」
嬉しさに、涙が込み上げる。
じんと熱くなった胸に呼応するように、下腹部へも熱が集う。
「ぅ、あ、……っあっ、イ、イキそ……う……っっ」
必死で堪えるような表情とともに告げられ、男が速度を上げる。
「あ、あっ、ああっ、あああっ、あっああんんんっっ」
ガクガクと膝が震えて、リンデルの瞳から涙が零れる。
「ああっ、はぁっ、うあっ、あっあああんっ、イイっ、気持ち、い、……っ」
涙声の訴えに、男が青年の腰をぐいと引き寄せる。
「あっあああっ、カースの、気持ち、いい……よぉっ、んっ……」
頬を赤く染めたカースの眉間に、皺が深く刻まれる。
「……俺もイクぞ」
「あああっ、きてっ、俺の、ナカっ、ああんっ、いっぱい、来て……っっ」
男が、激しく腰を突き動かすと、青年もそれに応えて腰を振る。
ずくんと痛いほどに大きくなった男のそれが、青年の中を満たす。
「あああああっ! おお、き……っ!」
それを、さらに男が奥まで突き立てる。
ミチミチと内側を広げられて、青年がビクビクと跳ねながら仰け反る。
「ぅぁあああああああああっっっっっ!!」
「……っ」
男の熱いものが中に注がれ始めると、呼応するように青年のそれも男の上に精を吐いた。
「……っあ、…………はぁ…………っふ……」
体がびくりと痙攣する度に、吐息と共に、声を漏らす青年。
溢れる快感を飲み込みきれずに大きく仰け反っていた青年は、涙と涎に濡れた顔に恍惚とした表情を浮かべている。
反対に、男は何かを堪えるように、顔を顰めて背を丸めていた。
しばらく、静まり返った室内に、二人の粗い呼吸が続く。
少し息が整ってきた男が、自身のそれを抜こうとすると、青年が縋りついた。
「あっ、や。待ってカース、抜かないで……」
しがみついてこようとする青年を、男が体の間に腕を入れて制する。
「……カース……?」
不安げに青年が尋ねる。
男は答えないままに、手探りで枕元にかけてあった手拭いを取ると、自身の腹から胸元にかかった青年の精液を拭き取った。
「来ていいぞ」
許可をもらって、リンデルが素直に男に抱きつく。
ぎしり。と耳元で鳴った音に、男が眉だけを顰める。
男はそれを思い出すまいと、青年の金髪をゆっくりと撫でた。
「カース……好き……大好き……」
男の首筋に顔を埋めて、青年が囁く。
「ああ、俺も………………」
『愛してる』と言いかけて、男はそれを飲み込んだ。
ここでだけは、それを口にしたくなかった。
まるで、あいつと同じになってしまいそうで、それだけは、どうしても嫌だと思った。
……俺は違う。
あいつのように、一方的に奪ってはいない。
埋め合わせのような言葉ではない。
リンデルは俺を求めてくれて、それで……。
「……っ、リンデル……」
掠れた声で囁かれて、青年は男の顔を覗き込む。
まるで、助けてくれと、言われたような気がした。
「カース……?」
その透き通る空のような瞳にも、深い森の瞳にも、抱えきれないほどの憂いが滲んでいる。
「……カース……悲しいの?」
「悲しい……?」
問われて、男は小さく繰り返す。
俺は、悲しいのだろうか。あいつが死んで。
居なくなればいいと思っていた奴が死んで、果たして悲しいものだろうか。
喜びこそすれ、悲しむ理由などどこにもないと思っていた。
拾われたことへの、生かされたことへの借りはあった。
けれどそれ以上に、いっそ殺してくれればよかったと、ずっと思っていた。
だから、悲しいなんてこと、思うはずが…………。
青年の長い指が男の頬に触れる。
「カース……」
そっと森色の目元を拭われて、熱い雫が青年の指を伝う。
つられて空色の瞳から溢れた雫を、青年は唇で拭った。
「ごめんね……」
金色の瞳を揺らして、青年は男の頭を胸元に抱き抱えた。
「……どうして、お前が謝る……」
「俺が、我儘言ったからだね……」
「それは違う。お前は何も悪くない。悪いのはーー」
青年が、胸元の男をぎゅうっと胸に押し付ける。
胸板に口を塞がれ、男の言葉は途切れた。
すっかり萎えた男の物がずるりと抜け落ち、青年がほんの僅かに肩を震わせた。
姿勢を変え青年が男の隣に横たわると、男は黙ったまま、溢れる体液を手にしていた手拭いで拭ってやる。
「……ねえ、ゼフィアは今、どこにいるの?」
リンデルの言葉に、男は動きを止めた。
金色の瞳が自分を見つめているだろう事は分かっていたが、男は視線を上げないまま答えた。
「土の下だ」
「そう、なんだ……」
リンデルがしょんぼりと肩を落とす気配に、男は何故だか焦った。
「悲しい、の、か……?」
思い切って顔を上げると、悲しみを浮かべた金色の視線が、やはり男を包み込む。
「うん……悲しいよ」
「あいつが死んで、お前が悲しむ必要がどこにある?
お前だって、あいつには酷い目に遭わされただろう!?」
「……でも俺は、お頭の事好きだったよ」
「……っ!!」
男が激しく動揺したのが、リンデルには分かった。
「カース……」
「…………そんなにも、簡単に……。お前は悲しめるんだな……」
「カースは、悲しめないの?」
「俺は…………」
それきり言葉を紡げなくなった男の頬を、青年が優しく撫でる。
「悲しい時に、悲しむのを我慢してたら、辛いよ……」
「俺は別に……悲しくなんか……」
しかし、そう呟く男の瞳からは、まだ静かに涙が溢れ続けている。
「ゼフィアは、いつ頃亡くなったの?」
「もう……五年も前の話だ……」
その言葉に、青年の胸がギリっと痛んだ。
五年前……。
俺と再会する少し前まで、カースはずっと、ゼフィアと一緒だったんだ……。
沸き出る暗い感情を押し隠して、青年は続ける。
「ゼフィアはカースの恩人なんだよね?」
「それは……」
「カースがゼフィアを嫌いなのは知ってるよ。憎んでるのも知ってる。
でも、だからって、死んだ人を悲しんじゃいけない事にはならないよ……?」
「……っっ!!」
男の瞳から、涙が堰を切って溢れ出す。
堪え切れずに声を上げて泣き出した男の頭を、青年は苦笑を浮かべて優しく抱き寄せた。
どうしてこんなに、この人はいつも我慢してしまうんだろう。
不器用なのは、結局のところ、彼が純粋すぎるせいなのかも知れない。
リンデルは、そんな彼を愛しく思う反面、至らない自身を歯痒く思う。
カースがこんな風に、誰にも頼れずに、泣くこともできずに居たのを、俺は今まで三年も、どうして気付けなかったのか……。
「カース、ごめんね。今まで気付いてあげられなくて……」
後悔の色濃い青年の懺悔に、男が青年の胸で首を振る。
まだ嗚咽の止まない男の黒髪を、リンデルは繰り返し、愛を込めて撫でた。
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