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後編

夕刻、男の前に姿を現したのは、小柄な従者だった。 「勇者様でなくて、申し訳ありません……」 扉を開けた男に、開口一番そう謝罪するロッソの目元には深い隈が刻まれている。 「お前……寝てないのか?」 「ええ、いえ、問題ありません」 すぐさま言い直すロッソに、男はほんの少し眉を寄せる。 「そうか……悪いな」 ろくに寝ないままの体で、この寒空の下、今までずっと仕事に追われていたのだろう。 ただ、その原因が自分達である以上、男にできるのは謝ることくらいだった。 「いえ……お気遣い感謝いたします」 くたびれた顔で儚げに微笑むロッソに案内されて、男はリンデルが待っているという、村の裏手の丘へと辿り着く。 「……よくこんなとこ知ってたな」 男は、この村で生活を始めてもう二十年にもなるが、こんな場所へ来たのは初めてだった。 「情報収集は、専門分野です……」 と、小高い丘の急勾配に息を軽く切らしながら答えた従者が、ぐらりと傾ぐ。 「おっと」 後ろを歩いていたカースが、片腕で従者を抱き止める。 「大丈夫か?」 「……っ、すみません、ちょっと目眩が……」 苦しげに目元を手で覆ったままに答える従者の様子から、ほんの一瞬の立ちくらみではなく、まだ今も目眩に襲われているのだと男が察する。 「このまま上まで登りゃいいんだろ?」 「え、ええ……。そうですね、私の事はお気になさらず……」 置いて行けと言い出しそうな従者を、男は片腕でひょいと抱きかかえた。 「なっ……にを……っ」 言葉の端が小さく萎む。まだ目眩が続いているのだろう。 「お前の寝不足は俺のせいだろ? お前こそ気にすんな」 そう告げると、カースはザクザクと雪を踏みしめながら丘を登ってゆく。 「す、すみません……」 小柄な従者は肩の上に乗るほどではなく、男の腕に腰掛けるようにして抱えられている。 「いいや。お前が小さくて助かったぜ」 そう笑うカースの、揺れる黒髪がロッソの鼻先をくすぐる。 男の首筋から、ふわりと花のような香りがして、ロッソはなんだか居ても立っても居られないような気分になる。 こんなところをもし勇者様に見られたら、一体どんなお顔をされるだろうか。 ともすれば、悋気を抱かせてしまうのでは無いだろうか……。 ロッソがそう思った時、丘の上から声がした。 「ロッソ!? 何があった!」 鋭い声とともに、リンデルが丘を駆け降りる。 「何もねぇよ。ちょっと目眩がしてるだけだ」 カースが答えると、張り詰めていた勇者の気配が和らいだ。 「そっか……、寝不足だったよね、ごめん……」 カース達のところまで来ると、リンデルはしょんぼりとロッソに謝った。 「いえ、私の健康管理の問題で……」とロッソが答える間に「俺が持つよ」と両手を差し出すリンデル。 「物じゃねぇんだぞ」とカースに嗜められて、リンデルは「そうだね、ごめん」と謝ってから「ロッソは、俺が抱くよ」と言い直した。 「……」 従者は俯いていて目元は隠れていたが、男には腕の中の小柄な従者の体温が上がるのが伝わった。 カースはじろりとリンデルを見る。リンデルは勇者の鎧の上から防寒のためかローブを羽織っていた。 「お前、この雪ん中甲冑着てて寒くねぇのかよ」 「うん、中に断熱材挟んでるから、意外とあったかいよ?」 にこりと答える青年に、男は軽くため息をつく。 「お前は寒くなくても……」 「あ、そっか。ロッソが寒いか」 その返事に、また男が丘を登り始める。もう頂上は見えている。 正直腕は痺れつつあったが、それは己の日頃の運動不足を呪うことして、黙って歩く。 「あの、もう降ろしていただければ……」 その声がまだ僅かに震えているのを感じて、男は苦笑する。 「もうちょっとだから、我慢しとけ」 やる事のなくなったリンデルが 「俺、上で食べ物広げとくよ。もう腹ペコで……。あ、先に食べててもいい?」 と首を傾げるので、男が頷いてやると、嬉しそうに丘へ駆け上がって行った。 その背を見送りながら、男が囁く。 「悪かったな、あいつに渡さなくて」 「!」 ピクリと小さく従者の肩が揺れる。 「いいえ……」 そう呟いた従者の体がまた熱くなるのを、男は気付かぬふりして歩いた。 頂上は、吹きっさらしではあったが、簡易的な机と椅子が備えられていた。 「二人とも、座って座って!」 ただの丸太の椅子ではあったが、早くから雪を払っておいたのか、座っても濡れそうには見えなかった。 「座れるか? 横になる方が良さそうなら……」 「おかげさまで、もう大丈夫です」 カースがロッソをそっと椅子に下ろすと、ロッソは深々と礼をしようとして、男に額を押さえられた。 「頭は下げなくていい。また目眩がしても困る」 「あ……、は、はい……」 その間も、リンデルは嬉しそうに机の上に広げた品々を紹介している。 「〜って言ってたよ、だからこれは油で揚げてあるんだって、で、これはトリを串にさして焼いたやつ。カーシュ、どれ食べたい?」 男は、リンデルがさらりと昨日決めた名で呼んでくる事に感心しつつ、答える。 「俺は残ったもんでいい。お前達が好きなのを食え」 「えーっ、せっかくカーシュが好きそうなの色々選んできたのに……」 あからさまにガッカリと肩を落とす青年に、男は卓上をもう一度眺めた。 言われてみれば確かに、並ぶ品々はどれも男の好みに合う物ばかりだった。 そこに、焼き饅頭の姿は無い。 「それにしても、三人で食べるにしちゃ多過ぎないか?」 「ん? えへへ……、カーシュに食べてもらえると思ったら、ついつい……」 少し照れ臭そうに、それでも嬉しそうに答える青年に、男は目を細めつつも、ぞんざいに返した。 「お前が腹ペコだっただけだろ」 「あっ、飲み物買うの忘れてた!」 勇者がガタンと勢いよく立ち上がり、丸太の椅子が倒れる。 「ぁあ? もういいだろ……」 「よくないよっ、喉に詰まったら困るし。俺ちょっと買ってくるっ」 「勇者様っ! 私もお供し……っ」 駆け出す勇者を追おうと慌てて立ち上がった従者が、ぐらりと揺れて机の端に掴まる。 その背を男が支えて言う。 「……まあ、露店で買い物するくらい、一人でも大丈夫なんじゃねぇのか?」 「っ、ですが……」 従者が苦しげな表情で勇者の駆け去った方向を見つめている。 心配でたまらないといった横顔に、男はじわりと胸が痛んだ。 もしかしたら、こいつは昨夜もずっとこんな顔をして、宿の戸を見つめていたのではないのか。 大事な主人が、他の奴に抱かれていると知りながら……。 色白で線の細いロッソの顔の中では、くっきりと染まった隈は余計に目立つようだった。 「……先ほど、勇者様と屋台を回っていた時も、相当数の誘いを断ってきたんです……」 視線はそのままで、ぽつりぽつりと、従者が呟くように零す。 「誘い? お偉いさんが、一緒に祭りを過ごそうってか?」 「それもありましたが、ほとんどは女性です……」 「あ? なんだ、あいつモテんのか!?」 「勇者様という肩書きが、人を惹きつけるのです。……良くも……、悪くも……」 その暗い響きに、男は昨夜の会話を思い出す。 そう言えば、あいつはサラリと媚薬を盛られた事があると言っていた。 おそらく、それ以外の薬を盛られた事もあったのだろう。 「……それに、勇者様は……」 「ん?」 「女性を無下に出来ない方ですから……」 そこまで聞いて、男にもようやく、この従者がここまで心配する理由が分かった。 「分かった。俺が見てくる。お前はここで待ってろよ」 駆け出す男の背に「お願いします……」と祈るような声が届いた。 ---------- 祭りの会場を抜け、もう少しで丘が見えるだろうというところで、リンデルは民家を背に周囲をぐるりと取り囲まれ、身動きが取れなくなっていた。 会場内で声をかけてきた可愛らしいお嬢さんや、清楚な女性達とはまた違う雰囲気の、どこか妖艶な色香を纏った女性達は、この雪景色の中では心配になる程に露出が多く、ふわふわの毛皮の上着の下は各々が色とりどりのドレスを身につけていた。 彼女達は、彼が何と言おうと引く気がないらしく『未来を誓った人がいる』と言ったところで全く効き目がなかった。 (……弱ったな……) リンデルは、笑顔の裏でため息をつく。 両腕に抱えた飲み物から、こうしている今もじわじわと熱が奪われてゆくのが、何とも歯痒い。 俺の我が儘に付き合って、寒空の下待っているあの二人に、せめて温かいものを届けたかったのに……。 思わず下げかけたリンデルの顔を、その冷え切ってしまった頬を、一番手前の女性が両手で包む。 「え? ちょ……」 動揺するリンデルに、女性が何かを囁きながら顔を近付ける。 男が目にしたのは、そんな光景だった。 淡く輝く金色の花に、夜の蝶が群れでたかっている。 その数に、金色の花は食い潰されそうに見えた。 男は、一瞬で左目の布を解くと叫んだ。 「おい! てめぇら!!」 男の声に、女性達が一斉にこちらを向く。 そして、紫色の輝きに囚われる。 男は、残らず全員に術がかかったことを確かめると、女達の群れからリンデルを引っ張り出す。 リンデルは流石に術の発動と同時に目を伏せたようで、俯いたまま、腕を引くカースに従う。 男はリンデルを物陰に隠すと、女達へ告げる。 「この事は忘れろ。さっさと家に帰れ」 全員の返事を受け取り、男は術を完了させる。 正気に返った女達が「なんでこんなとこに?」などと口々に話すのを背で聞きながら、男は素知らぬそぶりで物陰へ向かった。 「よぉ、モテモテじゃねぇか」 「カース……ありがとう」 ホッとした表情で、リンデルは男を見上げて息をついた。 女達が立ち去ったのを見届けると、男は青年に合図をして丘へと向かう。 「こういうこと、よくあんのか?」 「え、あ。うーんと……。いつもは、ロッソがうまく躱してくれるんだけど……」 バツが悪そうに苦笑する青年の横顔に、男はあの従者の苦労の一端を窺い知る。 話しながら、器用に片手で左眼に布を巻き付けている男を見て、リンデルが呟く。 「また隠しちゃうんだ……」 「そんな残念そうにすんなよ」 男は眉だけで苦笑した。 「勇者様、お帰りなさいませ」 頂上では、少し落ち着いた様子のロッソが、食べ物を三人分に取り分けていた。 「ロッソも先に食べててよかったのに」 「そうはまいりません」 言われて、勇者が苦笑する。 「じゃあ改めて、乾杯しようか」 紙袋から、リンデルは三人分の飲み物を取り出す。それは暖かい酒だった。 「何に乾杯すんだよ」 「三人で共に過ごせる、この冬の日に」 そう言って、勇者はカップを掲げる。 黒髪の二人は、少し表情を和らげて、それに倣った。 食事が終わる頃には辺りはすっかり暗くなり、机に置いたランプの明かりが三人の顔を照らしている。 キンと冷え切った空には月もなく、溢れんばかりの星がまたたいている。 「……っくしゅんっ」 小さな音を立て、ロッソが肩を震わせるのを見て、カースが言う。 「冷えてきたな……。俺のローブ羽織るか?」 「いえ、それでは貴方が風邪を引いてしまいます」 と答えるものの、従者の小さな肩は隠しようもなく震えていた。 「じゃあ俺のを着る?」 「お前のは鎧用でデカすぎんだろ」 「うーん? そうかも……? えへへ」 たったあれだけの酒が回ってきたのか、妙にヘラッとするリンデルを見て気付く。 リンデルもまた、昨夜は少ししか寝ていないはずだった。 「お前ら、もう帰って寝た方がいいんじゃないか?」 一人だけしっかり休んだ男が心配するが、リンデルは 「えー。明日にはここを離れないとだから、もうちょっとだけ……」 と食い下がる。 男にも、彼らがこの場所で何を待っているのかは分かっている。 「……じゃあせめて、こいつは俺があっためるぞ、いいな?」 「!?」 ポンと頭の上に男の手を乗せられて、ロッソが困惑する。 「うーん……。分かった」 リンデルは、ちょっとだけ困った顔で返事をした。 「ほら、来い」 ロッソが、男に呼ばれてそちらを見ると、男がローブの前を広げて待っている。 「……え?」 「察しが悪いな。寝不足で頭回ってねぇんだろ」 「え??」 「生憎片腕しか無いもんでな。お前がさっさと来ねぇと、俺は寒いままなんだよ」 男がわざと選んだ言葉に、ロッソは不安そうにリンデルを見た。 苦笑を浮かべたリンデルに視線で促され、ロッソはおずおず男の膝の上におさまった。 男がロッソを包むようにしてローブを閉じる。 「これでもうしばらくは凌げるだろ」 「……ぁ、ありがとう、ございます……」 消え入りそうな礼の言葉に、男は低く優しい声で「気にすんな」と答えた。 男の懐は、とてもあたたかかった。 ロッソの、冷え切ってろくに動かなくなっていた手足が、じわりと熱を取り戻してゆく。 全身に知らず入っていた力が、ゆっくりゆっくり解れてゆくのを感じる。 人肌のあまりの心地良さに、瞼までもが緩みそうで、ロッソはチラリと視線を上げた。 この男は、私を懐に入れて、一体どんな顔をしているのだろうか……。 視線に気付いてか、男の森色の瞳が降ってくる。 深い夜の森のような瞳は、ただただ優しく、静かにこちらを見つめ返した。 「……羨ましい」 リンデルの声に、見つめ合っていた二人がギクリとそちらを見る。 そこには、金色の瞳を半眼にして、じとりとこちらを見ている勇者の姿があった。 「ゆ、勇者様……」 ロッソの焦りを肌で感じつつ、男は苦笑する。 昨日まで必死で嫉妬を隠そうとしていたリンデルが、素直にそれを見せてくれたことを、どこかくすぐったく、しかし心地よく感じる。 まだ羨ましそうにこちらをじーっと見ている金色の瞳に、男は悪戯っぽくニヤリと笑うと低く囁く。 「……お前は後で、たっぷり可愛がってやるよ」 「本当!?」 頬を染めて破顔する青年。 「おいおい、冗談だ。明日に備えてお前ら今夜はしっかり寝とけって」 男が顔を顰めて言う。 「ええーーーー??」 非難の声に視線を逸らした男が、空にポツリと浮かぶ灯りを見つける。 「お。そろそろか」 その声に、リンデルが振り返る。 男の胸元で、ロッソも小さく身じろぎする。 村を見下ろせば、その中心に沢山の光がぎっしりと集まっていた。 ひとつひとつが不規則にゆらゆらと揺れて、まるで何か大きな生き物のようにも思える。 「さっきのはウッカリだな」 「ウッカリ?」 「ああ、合図の前にウッカリ手を離しちまったんだろうよ。もしかしたら、今ごろあそこで泣いてるガキでもいんのかもな……」 そう言って、光の束を見つめる男の眼差しは、どこかもっと遠くを映しているようにもみえる。 「始まるぞ」 男の言葉通り、光の束は大きくうねるように蠢くと、ゆっくり空へと動き出す。 次第に近づいて来るひとつひとつの光の粒がハッキリ見えてくる頃には、光は視界いっぱいに広がっていた。 「わあ……」 リンデルがその輝きを瞳に映して声を漏らす。 「美しいですね……」 男の胸元で、ロッソも小さく呟いた。 「そうだな……」 男は、あたたかな光の奔流に照らされて、キラキラと輝く金色の青年に目を奪われていた。 幸せそうに笑みを浮かべたその横顔を、あたたかく輝くその金の瞳を、まだずっと……、明日も、明後日も見たいと思う。 (……明日になれば、また離れ離れか……) 音もなく男達の前を通り過ぎ、次第に離れてゆく光の粒が、男に別れを連想させる。 光の海は風に揺れ、いくつもの波を作りながらゆっくりと揺蕩い広がってゆく。 三人が黙ってから、どのくらいの時が過ぎただろうか。 光の海は遥か上空へと上り詰めていた。 天へと一途に向かう光の粒を彼方まで見送るリンデルが、こちらを見ないままに呟く。 「カーシュってさ、子ども好きだよね」 「……そうか?」 男が怪訝そうに答える。 「俺が引退したらさ、一緒に子ども育てない?」 「……は?」 「俺とカーシュの子ども」 「はぁ!?」 「魔物に親をやられた子どもたちを引き取ってさ、孤児院みたいなの、どうかな?」 青年の言葉に、男がどう返事をしたものかと思ってから、ふと、こんな時に何も言わないはずがない従者を見る。 リンデルも同じくそう思ったのか、男へ向き直り、一瞬驚いた顔をした。 男の胸元では、小柄な従者が静かに寝息を立てていた。 「……寝ちまったのか」 男の呟きに、リンデルがロッソを哀しげに見つめる。 「俺……また……俺のために限界まで頑張らせて……」 男は、その『また』の部分が、過去のこいつにかかっているのか、昨夜の自分にかかっているのか、若干気になりつつも、 「それより、こいつどうすんだよ」 と、この先の問題を指摘する。 「俺が宿まで抱えてくわけにもいかねぇだろうし、かといって、お前じゃこいつが凍死すんじゃねえか心配だしな……」 「うーん、そうだね。一度帰って、鎧置いてから迎えに来ようかな。それまでロッソの事頼んでいい?」 ああ、と答えようとして、カースはついさっき女達に囲まれていたリンデルの姿を思い出す。 あの時はまだ、大きな甲冑がなんとかリンデルと女達の間に物理的な距離を作っていた。 その上での、あの状態だ。 もしこれが、甲冑を着ていないリンデルだったなら……。 男は一瞬迷ってから、口を開いた。 「……なあ、こいつこのまま、俺が連れ帰るんじゃマズイか?」 「…………カースが?」 「ああ」 「カースの家に?」 「ああ」 「ロッソだけ?」 「…………ああ」 「…………」 黙ってしまった青年を、男は内心にじわりと焦りを浮かべつつ見つめる。 「…………どうして?」 真顔で尋ねる青年の表情から、感情が全く読めず、男は仕方なく思っている事を正直に話した。 お前がまたあんな目に遭ったらと思うと、俺はたまらない。と。 話を聞いて、青年はほんの少し淋しげに笑った。 「……わかった。じゃあ今日は俺がいいようにしとくから、ロッソはカースのとこで、起きるまで寝かせてあげて」 明日の出立は昼過ぎだし、少々遅くても大丈夫だとリンデルは言いながら、カースの耳元へと顔を擦り寄せる。 「……でも、もう、俺以外の人としたらダメだよ?」 耳元で囁かれて、カースはびくりと肩を揺らした。 「なっ…………!?」 それは、カースにとって考えてもみない事だった。 「そっ、んなことあるわけないだろ!?」 言い返されて、リンデルは笑ってみせる。けれど、冗談のつもりではなかった。 カースの胸元で眠るロッソがこの大声にも目を覚さないことに、若干胸は痛んだが、それ以上に、そんなロッソが羨ましかった。 「俺も、後から宿抜け出そうかなぁ……」 「もうやめとけって」 大ため息をつく男に優しく頭を撫でられて、金色の青年は渋々荷物をまとめる。 「明日、見送り来てくれる?」 どこか不安気に振り返る青年に、男は微笑んで答えた。 「まあ、遠巻きにな」 「うん……ありがとう……」 しょんぼりと背を向けようとする青年を、男は指先で呼ぶ。 「何?」 寄ってきた青年が手の届く範囲に来ると、カースはランプを机の下に下ろす。 途端に辺りが真っ暗になる。 暗闇の中、男は青年の顎を優しく引き寄せそっと口付けた。 「んっ……」 僅かな水音と、時折苦しげに漏れる息の音が、キンと冷えた冬の夜空に吸い込まれ消えてゆく。 しばらくして男がようやく唇を離すと、青年は潤んだ瞳で男を見つめた。 男は言い含めるように、諭すように、ゆっくりと伝える。 「俺は、もう……、この先ずっと、お前だけのものだ」 青年は以前の言葉を思い出してか、ねだるように可愛らしく首を傾げた。 「それって、俺に誓って?」 「ああ……、お前に誓うよ、リンデル」 その言葉に、金色の瞳がゆるりと滲む。 「ありがとう……、カース、大好きだよ」 囁くと、青年はもう一度男に口付けた。 ---------- 翌朝、ロッソは見覚えのない部屋で目覚めた。 警戒しつつ周囲を探れば、隣に黒髪の男が眠っている。 同じベッドに。同じ布団で。 慎重に昨夜の記憶を辿ると、空に登りゆく光を見上げたあたりで、それは途切れていた。 (私は、眠ってしまったのですか……) 昨夜、自分に体温を分け与えてくれた男を見る。 こうやって一緒に寝ていたと言うことは、彼はあのまま私を、ここまで抱いてきてくれたのだろう。 あの暗い夜の中を。片腕だけで。 ランプを持つ事はできたのだろうか。 雪に足を取られやしなかっただろうか。 そんな事が次々と浮かんで、ロッソは胸に湧き上がる感謝の気持ちを伝える事もできずに、ただ小さく震えた。 目の前で静かに眠る男は、この国の中ではほとんど見かけない浅黒い肌をしていた。 最初は何となく薄汚れた印象を受けた肌が、近くで見れば驚くほど滑らかで引き締まっていて、美しいと思った。 浅黒い肌へ緩やかにかかる黒髪は、自分の髪よりももっと細く、艶やかで男の繊細さを感じさせる。 睫毛はリンデルよりも長いようで、髪と同じ黒色が今は静かに伏せられている。 この瞼の下には、深くあたたかな森の色が隠れていることを、ロッソはもう知っていた。 この人に、触れたい。 そう思ってしまってから、ロッソは激しく動揺した。 違う! そうではない! そんなはずがない!! そう、昨夜、男の懐で、もし父が普通の、優しい父であったなら、こんな感じだったのかも知れない。と。 そう思った。 その父性に惹かれた。 きっとそれだけだ。 混乱する頭を落ち着けようと、順に思い返す。 私はこの男を、ずっと妬ましいと思っていた。 勇者様の愛を、一心に受けるこの男を。 この男さえいなければ、勇者様は私のことを見てくれるのではないか。と、何度も思った。 けれどそれは土台無理な話だった。 この男がいなくては、そもそも勇者様は勇者様になることもなかった。 私の敬愛する、今の勇者様を生み出したのは、紛れもなくこの男だった。 現に一度、男の好意に甘え、勇者様の前から姿を隠してもらった時、勇者様は自身を見失った。 それは記憶の戻った今だとしても同じだろう。 いや、今では余計に酷い事にもなりかねない。 だからこの男は、勇者様のためにも、この国のためにも必要な人だと、大事に扱うべき相手だと、そう判断した。 それだけだ。 それだけのはずだった。 なのに、この男は会えばいつだって、当然のように、私を労い、気遣う。 こんな……、人の心の痛みも分からず、主人の傷すら癒せない私を。 勇者様に仕えるためだけに生まれてきた、道具のような私を。 まるで自分と変わらぬひとりの人間のように、大事にしようとしてくれる……。 それは、勇者様から与えられる安らぎと、同じ形のものだった。 自身の指先が、震えているのに気付く。 男の寝顔は、手を伸ばすだけで十分届く距離にあった。 触れたいと、そう気付いてしまった心は、もはや偽れないほどに大きくなっていたのだと、ロッソはようやく理解する。 しかし、それが許される行為ではないことも、ロッソはよく理解していた。 そして、自分にとって一番大切な存在が勇者様であることも、また揺るぎようのない事実だった。 ロッソはようやく心を落ち着けると、男の顔から目を背けるように、彼の眠りを妨げないように、静かに体を起こす。 しかし、粗悪な木製のベッドは、それでも小さく軋んだ音を立てる。 そのほんの僅かな音で、男は目を覚ました。 「……ん……」 低く掠れた声。 ゆっくりと開かれる瞼。 その下から、森の色と、ロッソはあまり目にしたことのなかった青空が広がる。 どこまでも澄み渡るような広い空を思わせる水色に初めて見上げられ、ロッソは息をのむことすら出来なかった。 「ああ、起きたか……。添い寝で悪かったな。ベッドも布団も、これしかないんだ」 いつもよりも声が掠れているのは、寝起きだからだろうか。 低い声がところどころ掠れて、何故かとても艶めいて聞こえる。 ロッソ自身も高い声ではなかったが、童顔のせいか、あまり低い声は出せなかった。 「昨夜は、お世話になりました……」 ロッソが深く頭を下げる。 視界から空色が失われると、なぜか心にまで喪失感が押し寄せた。 「気にするな、と繰り返し言ったんだがな……」 男は苦笑してから、 「まあ、いつもあいつが世話になってる礼みたいなもんだ」 と続けた。 ロッソの胸が酷く痛む。 この男が自分に親切なのは、全て勇者様のためなのだと言われたようで。 けれど頭では、自分のことを棚に上げて、勝手に期待して、勝手に傷付いている自身を、なんて浅はかで身勝手なのだろうか。とも思う。 男は体を起こすと、時計を指して言った。 「時間は大丈夫か?」 言われて、ロッソは時計を見る。 まだ朝方ではあったが、夜明けは疾うの昔に過ぎている。 勇者様はお目覚めだろうか。 体調はお変わりないだろうか。 途端に、今日のチェック項目がずらりと頭に並んだ。 「も、申し訳ありませんが、私はこれで」 慌てて立ち上がる従者に、カースはリボンを手渡す。 「これは私の……」 「寝辛いかと思って、勝手に解かせてもらった」 「いえ、ありがとうございます……」 ロッソは男に背を向けると、受け取ったリボンで手早く髪を束ねる。 この男が、昨夜私の髪に触れていたのかと思うと、顔が熱くなってしまいそうで、努めて冷静に、表情を引き締める。 靴を履くロッソが男へ上着の場所を尋ねようとして、やめる。 振り返れば既に、男の手でロッソへ上着が差し出されていた。 「色々とお世話になりました。このご恩は必ず……」 「お前はまた……。もう本当に、気にすんなって……」 玄関で、男がうんざりという風にため息をつく。 ロッソは、この男が自分を決して名前で呼ばないことに気付いていた。 けれど、それに不満はなかった。 ……今日までは。 「もしよろしければ、私の事はロッソとお呼びください」 突然の申し出に、男が半眼にしていた目を丸くする。 鮮やかに輝く森と空の色に見つめられて、ロッソは『男の瞳がいかに美しいか』をよく語っている主人の姿を思い出すと、心の中で深く同意した。 「俺が……呼んでもいいのか?」 「はい。呼び捨てていただいて構いません」 「……そうか。ありがとう、ロッソ」 ほんの少し照れ臭そうに、それでもどこか嬉しそうに呼ばれて、ロッソの心臓が跳ねる。 それに気付かぬふりをして、ロッソは丁寧に頭を下げると男の家を後にした。 ---------- 太陽が真上を回った頃、カースは村を出て少し行ったところの、街道を見下ろせる場所にいた。 村の方から、鳥に跨った勇者一行が出てきたのが小さく小さく見えている。 まだこの辺りを通りかかるまでには、もうしばらくかかるだろう。 男は、まだ雪を葉の上に残している木へ、慎重に背を預ける。 雪は、全部降ってきたところで死ぬほどの量ではなさそうだが、進んでかぶるつもりもない。 悴む手を擦り合わせようにも相手がないので、短く残った右腕を左手で擦った。 はぁ。と吐く息が白く揺らめいて消える。 足元でキラキラと日差しを反射する雪に、昨夜の青年の横顔が過ぎる。 金色の瞳を輝かせて、淡い金髪を夜風に靡かせて、リンデルは嬉しそうな顔で光の粒を眺めていた。 この横顔をいつまでも見ていたいと、そう思った。 ……あんな顔がまた見られるなら、来年も寒空の下、夜を過ごしたっていいだろう。 俺も、最初の何年かはあの光に感動したりもしたが、そのうちに慣れてしまって、最近は会場に行くこともなかった。 そう思ってから、少し違うことに気付く。 もしあの男がまだ元気だったなら、きっと今も、毎年祭りに顔を出し、焼き饅頭でも買って帰っていたのだろう。 俺が、そんなに食うと体に障るぞ。と言って。あの男は、全く耳を貸さずに笑いながら饅頭を食ったんだろう。 ぽた。と足元へ、葉に積もった雪が溶けたのか、水滴が降った。 いつの間にか俯いていた顔を上げれば、リンデル達の乗る鳥の列がもうすぐそこまで来ていた。 リンデルは俺に気付くだろうか。 そう思った途端、先頭の青年が顔を上げる。 金色の青年は、俺と目が合った途端、破顔した。 「おいおい……勇者隊の隊長ともあろう奴が、部下の前でそんな無防備な顔していいのかよ……」 思わず呟く。 男の場所から街道までは、高さもあれば距離もある。 今のところ他の奴らが気付いた様子はなさそうだ。 村では見送りのやつがわんさといただろう。 そんな中でこんな顔をさせてはマズイと、男はわざわざ村を出たところで待っていたのだが、それは良かったのか、それとも……。 きっと村の中じゃ、俺を見つけてもグッと我慢したんだろう。とも思う。 結局、俺が笑顔を見たかっただけなんじゃねぇか。と男はやっと気付いて、自身の情けなさに自嘲を浮かべる。 リンデルはそんな男を見ると、周囲を視線だけで確認し、もう一度顔を上げた。 金色の瞳で男をしっかり捕らえると、ふわりと微笑みウインクを送った。 大好きだよと、愛してるよと、囁くように。 「っ!!」 男が手の甲で口元を押さえるのを見て、リンデルは満足そうに微笑む。 あの仕草だけで、カースが声を漏らしそうなほどに自分を感じてくれたのだと、リンデルには十分に伝わった。 たとえ男に、伝える気がなくとも。 斜め後ろに控えていたロッソが、主人の口元に浮かんだ笑みに気付いて視線を辿る。 そこには、木の影に隠れるようにして、男が佇んでいた。 「ありがとうございます」とロッソが唇で伝えると、男は精一杯表情を引き締めて「リンデルを頼む」と返した。 それに頷きで返す従者がどことなく淋しそうに見えて、カースは付け足す。 「ロッソも、無理するなよ」と。 途端、顔色こそ変えないものの、従者がピンと背筋を伸ばす。 元気が出たようでよかったと男が思う頃には、勇者達は目の前を通り過ぎ、後を隊員達が続いてゆく。 それを横目に、男はそっと木の裏へ回った。 まだ瞼には、あの青年の瞬きがくっきりと鮮やかに残っている。 どうしようもなく、目を閉じる。 が、それは逆効果だった。 真っ白な雪に照り返されて、キラキラと輝く金色の柔らかな微笑みが、男の耳元でそっと愛を囁く。 「……っ!」 男は、耳まで真っ赤に染まった頭を抱えてしゃがみ込む。 もう去ってしまったのに。 次はいつ会えるともわからないのに。 こんなに心を奪われたままで、俺は一体どうしたらいいのか。 「……ああくそ…………いっそ、ひと思いに殺してくれよ……」 男は雪の中、手渡された愛を腕いっぱいに抱え込んで、途方に暮れる。 「……リンデル……」 縋るように名を呼ぶと、男の胸で金色の青年が鮮やかに笑った。

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