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第一章 第1話
「あのー、やっぱりここで飲み食いすると、帰れなくなっちゃったりするんですかね?」
このところよく見かける、タツキという名の若い男。おそらく自分よりも年下で、明るい茶髪にピアスをしている。
タツキの前にはとても大きなプラスチックのカップがあり、ストローが刺さっていた。
中身は滑らかな氷状のカフェオレで、上にホイップクリームがたっぷりの、見るからに甘そうな代物。
甘いって、どんなだか忘れてしまったけれど。
「いつもばっちり飲みたいのがでてくるからすごいよね。思わず口つけたくなっちゃう。これが霊界クオリティ? ねーお兄さん。そういえば、名前なんていうの?」
「名前……ですか?」
そういえばなんだっけ、俺の名前。頭にかかっている、うすぼんやりとした靄が黒い色を帯び始めた時、カウンターの向こうから静かに呼ばれる。
「不二夫 」
静かな、だけれど澄んだ声が届いた。
そうだ、不二夫だ。俺の名前。白さんにもいつもそう呼ばれているじゃないか。自分の名前をなんで忘れていたのだろう。
白 は、不二夫が給仕をする喫茶店のマスターで、死神だ。
三つ揃えのスーツは白色に少し黄身がかった象牙色で、ともすると野暮ったいくらいのクラシカルなもの。着る人を相当選びそうなデザインだが、それを纏う白は洗練されている。
やや長めの髪はハイトーンの金髪で、スーツと同じ象牙色の山高帽をかぶっている。見惚れるほどの美しさだが、時折キラリと光る赤目には威圧感があり、不意打ちで目が合うと、少し怖いときがある。
不二夫の知識としては、死神は真っ黒なものだった。
実際は黒い死神もいるそうだが、喫茶店を訪れることはない。店に来る彼らは皆色とりどりだ。
白はといえば、いつも能面のように表情が変わらず、ほとんど笑うこともない。だが死神皆そうではなくて、いわゆる笑顔のような表情をみせる者もいる。千差万別なところは人間と似ているかもしれない。
だがやはり死神――。
白を筆頭に、例えばどの死神も例外なく、今までお目にかかったことが無い程の美形だ。それは人間が理解できる範疇を超えた、異形の存在である故だろう。
「不二夫、今のうちあのテーブルを片付けておいて」
白の指示で自分のテーブルを離れてゆく不二夫をにこにこと見守っていたタツキが、不意に身体を震わせた。寒気の正体を探るため見回した視線は白とぶつかる。
「お客様、そろそろお帰りにならないと。私以外の死神に見つかったあとの保証まではできませんよ」
「どういう意味ですか?」
「言葉のままです」
白の言うとおり、死神たちは仕事柄この店へ頻繁にやってくる。滞在時間が短いとはいえ、今までタツキが白以外の死神と鉢合わせていないのは、単に運がよかっただけだ。
この店を回すのが仕事の白にとって、特に支障がないタツキの存在はどうでもよかったのだろう。だがもうすぐ来店する死神の気配を感じているのかもしれない。
「飲み物に手をつけなかったのも幸いですね。もといた世界に、格段に戻りやすくなりますから。あなたには野生の勘でも備わってるのかな?」
「えっと……死んだばーちゃんが俺と同じような人で『あちらの世界のものは、絶対口にしちゃいけないよ』って何度も言われていたので」
「それは命拾いしましたね。実はあなたの飲み物は、私たちの管轄外ですから」
「えーっ! うそでしょ……嘘ですよね? 不二夫さん」
「それは……本当だと思います。俺も提供していないので」
不二夫は白に支持されたお客様にしか給仕しない。それなのに目に入ったときにはいつも、タツキの前には飲み物が置かれていたから、不思議だったのだ。
「うちの者ではない誰かが用意したのでしょう」
「何のために?」
「そりゃあ……ねぇ」
早急に点数稼ぎがしたい死神の前に、誰のお手付きでもないフリーの魂があったら。それは最良の据え膳でしかない。素人の不二夫にだってわかることだ。
これまでにこにこと面白そうにしていたタツキも、さすがに青ざめた。
それに死神は切羽詰まっていなくたって、気まぐれを起こすこともある。もし罪悪感や遠慮といった気持ちを持ち得ない死神に見つかってしまったら――。
タツキがこの店を訪れるようになったのは、ちょっとした好奇心からなのだろう。
幽体離脱ができるとか、次元を行き来する能力を持った『生きた人間』が訪れることはこれまでにもあった。それはこの店の立地がそうさせている。
――あの世とこの世の狭間。
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