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第21話

 見合いの日に連絡先を交換してから、不二夫からはちょくちょく連絡が入るようになった。学校やバイト先の友人もいるらしいが、地元時代からの知り合いである白臣はそれとは別で、なにかと心強いらしい。 「うわー、おいしそうですね! どれにしよう……迷っちゃうな」  互いの家から近い場所に、隠れ家的なパン屋をみつけたと不二夫が教えてくれて、休みが合った日に散策がてら寄ってみた。  住宅街を歩いているとパンの焼ける香りが漂ってきて、こぢんまりとした店があらわれる。  パンに目がない不二夫は、店に入ると感嘆の声をあげている。トングを握る手が楽しそうだ。  あまりにうれしそうなので白臣が「買ってあげるよ」と言うと、急に遠慮してしまったのか、パンを選ぶ手が鈍ってきたので、結局白臣が手当たり次第カゴに積み上げた。 「なんかいつもすみません。ごちそうしてもらっちゃって……」 「これくらいなんてことないよ。これでも俺、結構指名があるスタイリストなんだけどなぁ」  軽口を叩くと「そうだった」と不二夫がケラケラと笑う。不二夫と会うようになって「笑う」ということがわかった。自然に笑みがこぼれてしまう自分がいる。  今までも理解はしていたが、笑おうと思わないと表情を変えられなかった。  食事もそうだ。ひとりでは思ったことがなかったが、不二夫と一緒に食事をすると、味はもちろん、香りや色味まで鮮明に感じる。 「せっかくだから買ったパンを食べてみようか。うちにくる?」 「いいんですか!」  マンションまでの道すがら、やわらかく日差しが降り注いでいて心地がよい。  少し視線を落とせば「本当に近所なんですね」と弾んだ声で話す不二夫が目に入る。いつもは自転車であっという間に通り過ぎてしまう道を、誰かと歩くのは新鮮だ。 「さすが、いいマンションですね」 「それがそんなでもなくて。このあたりではかなり安い方みたいだし」 「……えっ、事故物件とかじゃないですよね」  まさにその通りだったが、白臣にとっては取るに足らないことで、悪霊はとっくに追い出した。 「まさか。不動産屋は駅から離れているからって言ってたよ。俺は自転車通勤だから駅近にはこだわっていなくて」 「そっか、そうですよね…………よかった」  部屋の窓を開けると、ほどよい風が入ってきてカーテンを揺らす。近くの小学校から子どもの声が聞こえる。平和な昼下がり。 「ほんとにひとりで住んでいそうですね」 「どういう意味?」 「いつも忙しいのに、たまの休みは俺なんかにつきあってくれて。デートとかしなくていいんですか?」 「そんな相手はいない」 「ほんとかなあ……」 「本当だって!」  くすくすと笑われて大人げなくムキになってしまう。 「まあ、そういうことにしておきましょう」  コーヒーを淹れて、買ってきたパンの紙袋を開ける。ふわっと小麦の香りが立ちのぼった。 「わあ、やっぱり国産小麦って、香りがいいですね。無添加だし、パンの種類ごとに違う天然酵母を使っているって書いてあったから、こだわって作ってるんですね」 「そういえば、パン屋になりたいわけじゃないんだな」 「えっ?」  最初の不二夫もパンが好きだったはず。製菓学校には製パンコースもあるのだが、不二夫は洋菓子を学ぶコースにいるらしい。 「パンは昔から単純に好きで。でもあくまで趣味というか、個人として向き合いたいというか……そういえば仕事にすることは、考えたことがなかったです」  とはいえ、不二夫はパティシエを目指しているくらいだから、やはり食べ物全般、特に菓子やパンの製造工程が気になるみたいでとても詳しい。 「地元と違って、ものすごい数のパン屋さんがあるから、開拓するのが楽しいです」  逆に白臣はこだわりがなくて、仕事中忙しくて食事が摂れなくても気にならないし、あったらあったで目の前に出されたものを特に感想もなく平らげてしまうタイプだから、不二夫と話すようになって、随分と食べ物の知識が増えた。 「俺、語っちゃってますね」 「ううん、楽しいよ。知らないことを聞くのは、すごく楽しい」  食事を終えると、不二夫は口数が少なくなった。  コーヒーのおかわりを準備するうち、相槌がないなと思ったらソファの足元にもたれかかっていた。  そっと抱き上げてソファに寝かせる。ブランケットをかけても目覚めることはなく、小さな寝息が聞こえてくる。 「……朝も晩も活動し通しだもんな」  相変わらず窓からはやわらかな日差しが降り注いでいる。風が少し強くなったので不二夫が風邪をひくといけないから、窓を閉めた。  少し微笑んでいるような寝顔を、とてもかわいいと思った。  このまま人間の魂とか、死神としての役割とか、そんなもの全部忘れて、ずっとこうしていられたらいいのに。  不二夫が好きなもののことを目を輝かせて話すのを、永遠に聞いていたい。  夕方、学校が始まる前に不二夫を起こし、最寄りの駅まで送った。  不二夫はいつのまにか寝入ってしまったことが恥ずかしかったようで、何度も「おかしいな」と首をかしげていた。  部屋に戻るとソファの上に畳まれたブランケットが目に入る。  さっきまで不二夫がここにいたのに、もういない。別れたばかりなのに、顔が見たくて、声が聞きたくなる。  毎日あんなに忙しくして、運命の相手にはいつ出会えるのだろう。  不二夫にはしあわせになってもらいたいとずっと願っているけれど、そもそもしあわせとはなんなのだろう。  人間の人生を歩むうち、少ない楽しみの一つが書物を読むことだが、どんな本を読んだって的確な答えはわからない。

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