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第25話

 涅はゆっくりと瞬きをして、鏡越しに白臣を見上げた。 「ねえ……それだけですか?」 「自分の心が悲しみで破裂しそうなのに、打算や不快の感情なく誰かに手を差し伸べられる。そんな魂に遭ったことがなかった。お前の言う「おいしそう」とはそういうことだろう」 「ふーん……まあ白さんも、玉湾様も、執着するのにたいした理由なんてないのかもね」 「だから執着はしていない。ただしあわせに過ごしてくれるなら、それに越したことはないだけだといっている」 「だいたい、しあわせってなんですか? そんなの人間が勝手に作り出した概念ですよね」 「まあ、今俺は人間だからな。その意味を考えてるよ、ずっと」 「じゃあ白さんは今、しあわせですか?」 「俺?」  自分自身を対象としては、まったく考えたことがなかった。例えば満足感や達成感は理解できるが、それがしあわせということなのだろうか。 「あの子のしあわせを願うのはわかったけど、例えば、自分が不二夫をしあわせにしてあげたいとは思わないんですか?」 「ありえないだろう。死神が、人をしあわせにすることなどできない」 「さっきは自分のこと人間って言ったじゃないですか。とんだダブスタだな」 「相手が誰であれ、そんなことは望んでない。そもそも玉湾の操作で人間界を廻らされてるだけなんだから、足掻くだけ無駄だろう」  いくら話しても平行線なので、さすがに涅も飽きたのか、急に自分の姿をチェックし始めた。 「ねえちょっと切りすぎてません? 大丈夫ですか?」 「俺の腕を信用しないのか?」 「いや、器用貧乏タイプなのは知ってるけど、下界のハサミで切られると、案外伸びるのに時間がかかるから」 「お前もそういうの気にするんだな。意外だ」 「下界ってなんですか?」  唐突に後輩から声をかけられ、飛び上がりそうになる。ずっと周囲には聞こえないよう涅と会話していたつもりだが、夢中になりすぎていたのだろうか。 「ああっ! …………あーあ」  驚きすぎて握っていたハサミを落としてしまった。店内の空気が途端に凍り付く。それから同情的なため息が聞こえた。 「す、すみませんっ!! 急にオレが話しかけたりなんかするから」 「いやいや、お前のせいじゃない。俺がミスっただけだよ。大丈夫だから」  土下座せんばかりの後輩をとりなし、スペアのハサミを取りにバックヤードへ入る。誰もいないのを確認して、頭を抱えて座り込んだ。 「はーあ……じわじわくるな、これ」  迂闊だった。後輩に非はまったくないが、ハサミを落としてしまった事実は辛すぎる。  美容師人生で二度目。一度目は今よりずっと稼ぎも少なくて、リアルに泣きたくなるくらいのショックだったが、今回は金よりも時間と快適さが惜しい。  白臣の場合、スペアのハサミはいつものものとまったく同じ品だが、それでも使い心地が違う。早々にメンテナンスへ出さないと。 「おーい、大丈夫か? そりゃ落ち込むよな」  ハサミを落とす悲劇は、美容師皆の共通認識だ。北条が気の毒そうにやってくる。 「このあともう予約なしだろ? あの若いお客様とも知り合いみたいだし、終わったら今日はもうあがって、メシでも行ってこい」 「えっ、ゴメンですよ。あいつとメシなんて」 「ん? でもお客様の方は「地元で兄かわりだったんです」ってうれしそうに言ってたぞ」  涅のやつ……なにが悲しくて、死神と食事なんかしなければならないのか。 「いつも働き過ぎなんだから、昔話でもすれば気分転換になるだろう」  半ば追い出されるようにして店を上がった。  まあ、あのまま白臣が残っていると、どんなに自分を責めるなと言っても後輩は気にするだろうから、今日はもう自分はいない方がいいだろう。  帰り支度を終えて店を出ると、裏口では涅が待っていた。

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