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第30話
「もしかして、なんか煮詰まってる? めずらしいな」
バックヤードでカラー剤を練っていると、北条がからかってきた。
「まあ……俺ってバカらしいし。仕方ないです」
「ははっ、やさぐれてんなあ。これは仕事のことじゃないね」
「いつもそうですけど、うまくいかないことばかりで……なんか北条さん、ウキウキしてます?」
「今すっごい楽しいかも。草園はいつも私生活見せてくんないから」
「……ひどいな。真面目に悩んでるんですけど」
「ごめんって。でも楽しいっていうか、安心したのかも。草園も普通の人なんだって」
浮世離れしている、とはいつの世でも言われる白臣の代名詞みたいなものだ。実際常識や決まりごとなんかに囚われないのだから当然なのだが、北条の印象もそうだったのだろう。
「なんですかね。しあわせとか、好きとか」
「哲学的だなあ。でもそんなのしっかりわかってる人の方が少ないんじゃない?」
「そうですかね」
「もっとシンプルでいいんだよ。この人と一緒に食べるご飯は、いつもよりおいしいなとか、もっと一緒にいたくて、帰りたくないなとか、そういうの思ったことない?」
「…………」
「今頭に浮かんだ人、いるでしょ」
北条がにっこりする。なんだか嵌められた気分だが、おかげでクリアになった気がする。
「打ち明けてくれて、うれしいよ」
「別になにも打ち明けてませんけど」
「いいからいいから」
それから予約以外の明日以降でよい仕事は全部後回しにした。
少しでも早く切り上げられるよう、最善を尽くす。気が逸るほど、余計に手際よく進められなくて、余裕のなさを実感していると後輩が声をかけてきた。
「草園さん、あとは俺らだけで大丈夫なんでいいですよ」
「え? でも俺今日当番……」
「いいって、急いでるだろ?」
北条まで参戦してきて、なんだか追い出されるような勢いだ。
「少しくらい弱みを見せた方が、下だってやりやすいんだぜ」
「ありがとう……ございます。じゃ、お先に上がります」
店を出るといつもの自転車ではなく、中央線に飛び乗る。
今ならまだ下校時間に間に合うはず。新宿に着いて、不二夫の通っている製菓学校を目指した。だが現地に着くと途端に自信がなくなる。
「もしかして間に合わなかったか?」
すでにちらほらと下校する学生が見える。夜間部は学生の年齢もまちまちだから、学校のビルから一歩出てしまうと一般人との差がすぐにわからなくなってしまう。不二夫はどうだろう。もう出てしまったか? 最寄りの駅で待つべきだったか。一刻も早く会いたくて急いてしまった。
「あっ……」
小さな声は紛れもなく不二夫だ。一瞬驚いたようだが、すぐに無表情というか、少し怒っているようにこちらを見据えた。
「白臣さん、なんでここに?」
「学校の前なら会えるかなと思って」
伝えたいことがたくさんあったはずなのに、なにから話していいかわからない。
結局ゆっくり歩く不二夫とともに西武線に乗りこんだ。時折目が合うが、世間話をする雰囲気でもなくて黙り込む。その繰り返しでとうとう最寄りの駅まで着いてしまった。
電車を降りてからはすたすたと前を歩いていた不二夫が、急に足を止めた。
「話すことないなら、俺帰りますけど」
「えっ……」
「うちのアパートに着いちゃったんで」
「ごめん……えっと」
「入りますか?」
軽くため息をつくと、中へ入るよう促してくる。
待ち伏せしたかと思えば、後ろをついて歩くだけの気味悪い男を、きっと不二夫は呆れているだろう。
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