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第1話 人生最悪の日
けっこう、不幸な境遇――なのかもしれない。
十七の時の両親を火事で失った。高校二年の夏、部活の合宿の最中に電話があって、そんで顧問の先生に色々してもらって慌てて帰ったんだけど、もう家は真っ黒な炭になっていた。お父さんも、お母さんも、そうなってた。
あの日が俺の人生最悪の日だった。
だから、もう、俺に最悪のことなんて起きない。そう思えるようになったのは、両親の一周忌をすぎてからだった。
「あっぶねっ!」
慌てて階段を駆け下りてたら、少しよろけかけたど、そのまま俺は足を止めることなく校舎を飛び出す。俺の人生において、最悪の日はもうすでに終わってる。あの日以上に最悪のことはもう起きない。これからはきっと良いことが待っている。そして、今、俺は、その良いことに向かって、全速力で走ってる。
そう落ち込んでばかりもいられないだろ。俺は生きてるんだから。腹は空くし、眠くもなる。嘆いてばかりはいられない。ちゃんと食って、ちゃんと寝て、立ち直る。いつかは。
扉を開けると大きな背中が振り返ることもなく不機嫌な声でそう呟く。
「なんだ? ……あと三十分で出てく。あとのことは新社長にお伺いを立てろよ」
両親も、祖父母もいないけど、俺は天涯孤独じゃない。人生最悪な日もあれば、人生最高の日もある。絶対に実らないだろう恋が、実ることも、あるかもしれない。
「まだ他に用でも……んだ、凪(なぎ)かよ。どうした?」
どうした、じゃない。人生、何が起こるかわからないんだ。突然、社長の椅子から引きずり下ろされることもあるかもしれない。
「また、背伸びたか?」
恋が実ることだって。
「もう、ボケでも始まったんじゃねぇの? 前に会ったの二週間前。その十四日の間にそこまで背伸びねぇよ。成長期じゃあるまいし」
俺の絶対に実ることのない恋だってさ。わからないだろ。
「成長期の高校生にしか見えねぇ凪が悪い」
「なんだそれ。もう十九だよ……それより大丈夫なのか。ニュースになってた。だから」
眉間に深い皺を寄せて、不機嫌極まりないって表情だけで充分すぎるほど物語ってる。長い髪はいつもカッコよく後ろに流す感じのセットにしてるのに、今日は荷造りっていうか、部屋の片づけをしてるから、少し乱れてた。きっと、その胸のうちはもっと乱れてるよな。
「あのくそったれ新社長がこれ見よがしのドヤ顔してたか?」
社長らしからぬ発言と舌打ちをして、また邪魔そうに前髪をかきあげた。
大学の講義の合間にスマホを覗いたら飛び込んできたニュース。芸能プロダクションアステリの社長交代。経営不振が原因ってなっていた。
午後の講義をほっぽりだした俺がいる、このオフィスが、そのアステリ。そして、交代させられる社長が、今、目の前で眉間にものすごい皺を刻んで不機嫌きわまりない表情をしている、英次。
長い髪はどっからどう見てもサラリーマンじゃない。ホストでもない。ホストよりも品があって、サラリーマンよりも不真面目そう。顔はめちゃくちゃカッコいい。英次の、もう今は英次のじゃないけれど、アステリはモデル事務所だから、もちろんモデルをたんまり抱えてるんだけれど、そこに混ざっても違和感がないほどの長身美形。それだけでも充分なのに、そこに三十一歳っていう、大人の色気も加わったら、もう無敵だ。もしかしたら、どのモデルよりも一番カッコいいかもしれない。仕事はもちろんできるし、このルックスで、上品に笑われたら、誰だって蕩ける。でも――。
「人が苦労してでかくした会社を持っていきやがって、くそったれ!」
でも、唯一の家族である俺の前でだけ、口がすこぶる悪い。態度も悪い。よくこれでひとつの会社の顔になれると思うくらい。
「なぁ、英次」
「あぁ?」
「英次んち、この事務所の上じゃん。どうすんの?」
「十九のお前に生活の心配されるとはな」
「茶化すなよ!」
そうだ。十九だよ。英次にしてみたら子どもなんだろうな。でも、そんな子どもに見える俺にだって好きな人くらいいる。ずっと、ずっとその人のことが好きだ。相手は俺よりひと回りも歳が離れてる。そんでもって、男。しかもノンケ。
「そんなもん……引き払うに決まってんだろ。今日からホテル暮らしだ」
望み薄かもしれない。その人は、どんなモデルよりもカッコよくて。
「あのくそったれ」
口が悪くて。
「そしたらさ、英次」
態度も悪い。
「あ?」
この人。俺の叔父、のことが好きなんだから。
「住む場所ないんなら、うち、来たら?」
この恋が実ることは奇跡的なこと、だと誰もが思う。でも、俺はそうは思ってない。ずっと変わらずこの片想いを続けてきた。いつか、叶うかもしれないと信じて。だって、俺の人生最悪の日はもう終わった。そして、まだ人生最良の日は来てない。なら、淡かろうが薄かろうが俺は期待する。
「うち、来たらいいじゃん」
いつか、英次が俺を好きになるかもしれないって。だって、人生は何が起こるかわからないのだから。
「あ、ここがバスルームとトイレ。一緒だから。狭いとか言うなよな」
宿無し職なし、でも、顔はすこぶるいい。きっと、英次の今の状況を知ったら、どこかの女優やらモデルやら、歌手やら、綺麗な人たちが喜んで手招くだろう。だから、慌てて、講義なんてすっ飛ばして、もう英次のものじゃない会社へ急いだんだ。誰かに持っていかれる前に。
「あ、そうだ。英次、布団ど、う……」
「お前、ピアス、あけたのか?」
「っ」
振り返ったら、英次がすぐ背後にいた。それだけでも充分心臓には悪いのに、耳、触られた。耳朶のとこを指で摘まれて、一気に身体が熱くなる。英次の、長くて関節のところが骨っぽくてゴツゴツしてる、大人の指に、耳朶、摘まれてる。
「髪も金髪なんかにしやがって」
「っ」
髪、触られっ。
「ちょ! やめっ! 英次っ!」
ドキドキしたのに。その髪を掌でぐしゃぐしゃにされた。
「ったく、生意気に育ちやがって。そんな前髪長いんじゃ、目悪くするぞ。金髪も」
叔父と甥、家族っていうほど家族でもない。でも、たしかに血の繋がった家族だ。英次の中の俺はきっと小さい頃からずっと同じ。金髪にしても、ピアスつけても、不似合いな子どものまま。もう十九だっつうの。
そう……十九だよ。
物心ついた頃からずっと英次のことが好きだから、もう何年この片想いを続けてるんだろう。なぁ、いつになったら、俺のこと、ガキ扱いしなくなんの? 会う度にずっと繰り返し言われる「背伸びたか?」の挨拶は、いつになったら、何をしたら、しなくなんの? 十九にもなって、身長そこまでグングン伸びたりしないっつうの。それなのにいつも英次はそう言う。小学生の頃からずっと、会えば、背のことを言って、頭を撫でるんだ。叔父さんらしい言葉で、叔父さんらしい掌で俺の頭を撫でる。
「でも、このカリアゲ、気持ち良いな。小学生の頃を思い出して懐かしい」
「も! 英次のバカ!」
「はぁ、このジョリジョリ感、癒されるわぁ」
「ちょ、触んな!」
髪長めのツーブロック、けっこう中まで大胆に刈り上げて、金髪でピアスしてんだ。もう小学生じゃねぇよ。もう、大人だ。
「ありがとな、凪」
英次みたいにカッコいい大人男、にはなれてねぇけど。
「部屋、俺がいたら狭いだろうに」
「……」
もうガキじゃない。
「しばらく、甘えさせてくれるか? ホテルじゃ休まらないし、金のこともあるから、正直、助かった。悪いな。叔父貴の俺が甥のお前に」
「い、いいって! 俺は全然!」
もう子どもじゃない。英次に、憧れじゃなく、ちゃんと恋をしてる、男だよ。
「助かった」
頭を撫でる手の優しさに心臓が、ちょっとふわふわした。
ごめん。英次にとっては最悪の一日だったかもしれない。でも俺にとってはそうじゃない。俺はめちゃくちゃ嬉しいんだ。ずっと恋していた相手とこんなに近くにいられるなんてって、内心じゃ大喜びしてしまう。
俺の人生最悪の日はもう済んでる。だから、あとは良い日がたくさん、あると思う。
な? やっぱり、人生何が起こるか、わからない。
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