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第2話 俺は貴方の、甥
歳はひと回り上。俺の父親とは六つ違っているせいか、子どもの頃の俺にとっては不思議な人だった。
友だちとも違う。かといって、近所のおじさんとも違う。ひとりっこだったけど、一番近い感覚は「兄」なのかもしれない。でも、そう思うよりも早く、恋心を抱いた。
だから、この恋は初恋だ。
「……」
色白くて、肌綺麗めで良かった。湯上り美人、っぽい、かな。どうだろ。少し長めに湯船浸かってたから、肌とか火照って、色っぽく見えたりしない、か? 無理? うなじ、って、刈り上げだけど、首筋んとこ、どうだろ。あんまタオルで拭かずに行ったほうがいいかな。色気、ないかな。完全ノンケの英次もコロッと落ちそうな、色気がめちゃくちゃ欲しい。
「英次―! どうぞ、お風呂、狭い、け……ど」
意を決して、まだ雫がポタポタ落ちてくるくらい濡れた髪で、夏の暑さもしっかり使って、タンクトップにハーパン、無防備極まりない姿で部屋に飛び込んだ。
「英次?」
けど、英次はいなかった。風呂、待ってると思ったのに、ワンルームの狭い部屋じゃ隠れる場所なんてない。しかも身長のある英次がすっぽり入れるような場所なんて。
「あ、なんだ。今出たのか?」
「英次!」
「お前、風呂、なげぇな」
セットされて後ろに流すヘアースタイルが完全に崩れ去って、邪魔そうに前髪をかき上げる。もう片方の手にはビニール袋。
「ビール? 買ってきたの?」
「あぁ」
なんだ。びっくりした。俺はてっきり、どこかに行っちゃったのかと思った。英次はノンケだから。俺が風呂に入ってる間に女優さんとかから電話でもあって、部屋余ってるからうちに来れば? とか言われて、出ていったのかと。男で、甥で、狭いワンルームにふたりっきり、なんてイヤだから、綺麗な女優さんのところへ行ったのかと。とられたのかと思った。
「あ、じゃあ、俺、何かつまみ、作る。自炊なら」
「バーカ」
慌ててキッチンへ向かおうとした視界が真っ白に覆われた。
「髪びしょびしょじゃねぇか。ちゃんと拭け」
「ちょ! 英次っ!」
「しかも未成年のお前につまみなんて作らせるわけにはいかねぇだろうが」
髪を、頭をタオル越しにガシッと手で固定されたかと思ったら、わっしゃわっしゃに拭かれて、その力強さに思わずよろけてしまう。あっちこっちと忙しなく動く英次の腕に俺もヨロヨロ動かされる。
「いいよ! 作るって! こう見えても、俺、ちゃんと自炊して」
「お前、つまみ作れんのか?」
「え?」
強引に力任せに拭かれながら翻弄されてたら、パッと視界が開けて、心臓が止まるかと思った。拭くの、終わった? って、顔を上げたら、そこに英次がいて、背中を丸めて俺のことを覗き込んだりしてるから。心臓が飛び跳ねて、止まった。
「酒飲めないだろうが」
「……えっと」
「酒、まだはえぇぞ」
「……うん」
ホントは飲めるよ。遅生まれだから正確に言えば飲めなくても、もう大学の連中とかとは飲んでる。だからつまみだって適当でさえいいなら作れる。俺、英次が思ってるほど子どもじゃない。もう、何年ひとり暮らししてると思ってんの?
「それにしても、お前、髪細いなぁ。兄貴にそっくりだ髪質が、すぐ乾く」
「……」
「顔は比奈(ひな)さん似かもな。兄貴に似てたら……」
似てたら?
「お前も何か食うか?」
「え?」
「冷蔵庫さっき見させてもらった。けっこうちゃんとしてんだな。びっくりした」
だから、さっきから何度も言ってんじゃん。自炊だってちゃんとしてるんだって。
「勝手に食材使っていいんなら、それと今買ってきたもんで適当に作るけど」
「あ、うん」
俺ね、英次の色んなところが全部好きなんだ。顔も、子ども扱いされるのはイヤだけど、大きな掌も、節がごつごつした指も、少しだけクセのある髪も、すごく好き。口が悪くて、デリカシーなくて、目付きも悪い。そんな英次が笑うとたまらない。大好きなんだ。その笑顔が。
「ちょっと待ってろ」
たまらなく大好きなんだ。なぁ、今、それを言ったらさ、やっぱ、女優さんとこに逃げちゃうのか?
「うん……待ってる」
うちの親父と英次は少しだけ似てる。あと、声が低いのに英次のほうが親父よりも優しい、と思う。家族同然で、余所行きの顔なんかしないけど、英次に怒られたことってほとんどない。
仕事中の英次はまた少し違ってる。人を見る目がないとできない仕事だから、目付きは鋭く。常に観察って感じ。それに端正な顔立ちが良く見える、色っぽい髪型。仕事を卒なくこなし、てきぱきとしていて、優雅な身のこなし。しかも社長。金も充分持ってて、外見とそれだけで魅力的。女の人から誘惑してくるような、そんな男。
でも、俺の前では全然違ってる。
それがたまらなく嬉しかった。口が悪くて、けっこう雑で、不遜で、でも、俺にすごく優しい。
歳が離れてるからか、うちの親父とすごく仲が良かった。ちょくちょくうちに遊びに来てくれてた。その度に、俺にだけお菓子をくれる。毎回俺は大喜びで、英次と一緒にお菓子を食べたくて、その周りをずっとうろちょろしてた。でも、そのお菓子をくれることを特別って喜べたのは中学生くらいまでだったけれど。
――ほら、凪、お前、このお菓子美味いって言ってただろ?
お菓子じゃない。俺が嬉しくて大喜びしてたのは、その手にあるお菓子じゃなくて、英次だったって気がついてからは、切なかった。お菓子をくれる度に、自分が英次にとってただの甥って見せつけられてる気分だった。
こんなに大好きなのに。
英次が金なんか持ってなくても、仕事も、宿も何もなくても、変わらず好きだよ。欲しいのはお菓子じゃない。英次だよって、ずっと思ってた。
「まだ、起きてたのか? 明日、大学あるんだろ? 電気消すぞ。真っ暗で眠れるか?」
「……うん。眠れる。ねぇ、英次」
「んー?」
英次は俺の前だけかっこつけない。前はそれがすごく嬉しかったのに、今は、俺が男で、甥だから気にしてないんだと思うと胸が苦しい。
「ソファ、それ小さいやつだから、こっちくれば?」
「……」
「ベッドで寝たほうが身体も休まるしさ。別に男同士だし」
「っぷ、もしかして怖いのか? 真っ暗」
「は? ちげぇし!」
お風呂から上がって、スマホを見ながらの生返事も、相手が俺だから、気にしてないだけ。好きじゃないから、好きに発展することはないから気にしないだけ。ノンケの英次は男の俺を好きはならない。
「バーカ。俺がそのベッドに寝ても、それはそれでソファー並に狭いだろうが」
「でもさ」
「おやすみ」
「……」
でも、わかんねぇじゃん。いつか変わるかもしれないじゃん。ねぇ、いつか、変わってよ。
大好きだから、本当に溢れるくらいに好きだから、この零れた好きが英次に染み込んで伝染するかもれないから。狭いワンルームなら、英次に感染するかも。
「おやすみ、英次」
「……あぁ」
そんなことを思いながら眠った。久しぶりだった。自分以外の吐息を聞きながら眠るのは。英次の気配を暗闇で感じながら過ごす夜はものすごくドキドキして、眠れそうもなかった。
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