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第5話

 コージとの関係は呆気なく終わった。  俺がアイツの家に出入りしなければ、簡単に終わる関係だった。  二十五にもなって、こんなにも薄く脆い恋にしがみ付いていた自分が信じられない。それと同時に、また同じような恋をしてしまった自分が嫌になった。  たった一度、優しく抱かれただけなのに。知っているのは名前と、年齢が二十八ってことくらい。実際、名前だって本名とは限らないし、歳だって嘘かもしれない。  それでも、あれから一月経った今も俺は円を忘れられずにいた。 『昨日みたいな真似はもうやめろ』  そんなことを言ったところで、円は俺に連絡先を教えてはくれなかったし、俺の初めてを奪った責任を取る気などさらさら無さそうだった。だったら、俺だって次の相手を見つけにいきたい。円の言う、俺を愛してくれる相手を探したい。  そう思っているはずなのに、頭の中は円一色に染まったままだ。 『お前は……ちゃんと愛されるべきなんだ』  ───だったら、アンタが俺を愛してよ  時間が経つにつれて、俺は円にそう言いたくてたまらなくなった。  円はきっと、誰にでも優しく触れるのだろう。その誰にでも向けられる優しさと熱に、俺はまた簡単な恋をしてしまった。  あの日の、あの時のように。もう誰でもいいとは言えなくなっていた。また同じ轍を踏むかもしれない。いいや、間違いなく踏むだろう。  だけど……。 「このままじゃ、前に進めない……」  俺は一月ぶりに、あの夜円に出逢ったバーに向かうことを決めた。  息を呑む、とはこのことをいうのか。  辿り着いたバーの扉の前には、ずっともう一度逢いたいと願っていた男の姿があった。  男もこちらに気づいたのか、その目を大きく見開いた。しかしそれは一瞬のことで、あっという間に冷たく刺さる視線へと変貌した。 「なに、ここに用事?」  それは、あの日とはかけ離れた冷たい声だった。 「また、誰でもいいからって男を漁るつもりか」  冷たい視線に、冷たい声。  優しく抱かれた記憶の熱が、あっという間に奪われていく。  なにも言えずに俯いた俺に、男──円は更に苛立ったようだった。 「あの日俺が言ったこと、忘れた?」  ぎゅっと、血が出るほどに唇を噛み締めた。  忘れるわけがない、忘れるわけがないのだ。だから俺は、今ここに居るというのに。  だけど、俺の決意は円に会って一瞬で萎んだ。だって、だって……、 「……円、それ誰?」  円の横には、友達というには近すぎる距離に立つ男の姿があった。 「円の知り合い? ここに用事って、この子成人してんの?」  興味津々に俺を見下ろすその姿は、どこからどう見ても立派な美丈夫。男らしい見た目にふさわしい体格と身長、広い肩幅、長い足。話しながら煙草に火をつける仕草だって、成熟した大人の男性そのものだ。間違っても“この子”なんて呼ばれることは無いだろう。  出逢ったあの日に言っていた、円の好みを思い出す。 『体がデカくて、〝俺は抱く側です〟って思いこんでる男を啼かせるのが俺は好きなの』  足元がガラガラと崩れ落ちていく感覚に眩暈を起こす。目の前が真っ暗になった。上手く息ができない。 「おい、賢太?」  賢太……? と円の横に立つ男が訝しげに復唱したが、それを気に留める余裕は無かった。 「触るな……」  伸ばされた円の手を弾く。小さくて、震えて、みっともない声だった。 「男漁りがなに? ……アンタが言ったんだ、愛されるべきだって」  円の眉間に皺が寄った。 「俺が言ったのはそういう意味じゃない」 「うるさいっ! アンタには関係ない!」  アンタは今から、自分好みの男を抱きにいくくせに。俺に与えたあの優しさや熱を、その隣の男に注ぐくせに。 「分かった、もう勝手にしろッ」 「言われなくても勝手にするよ!」  円が俺に背を向けて歩き出した。その隣には、悠々と紫煙を燻らせながら歩く男の姿。どう見たってお似合いの二人だった。  自分で関係ないと突き放したくせに、背を向けて去っていく円に酷く傷ついた。だって、俺は円に会いに来たのに……。  扉を開けてバーに飛び込むようにして入ると、営業用の顔でママがこちらを向いた。 「いらっしゃ~……えっ!?」  何故かママは、幽霊を見たような顔で俺を見ている。 「……アンタ賢太でしょ? 外で円ちゃんに会わなかった……?」 「会ったけど、なに?」  不機嫌にカウンターのスツールに腰を下ろすと、ママは苦虫を噛み潰したような顔をした。一体なんだというのか。 「アンタ、ここで何する気?」  俺はついに善次郎さんを睨みつけた。 「ここがどういう店か、自分が一番よく知ってるだろ!? 何なんだよ!」  本当に最初は、めちゃくちゃになりたくてここに来た。それなのに、善次郎さんが余計なことをしたから、俺は余計な感情を知ってしまったというのに。 「一体どうなってんの……?」 「なにが!? なんだよ!」 「ちょっと落ち着きなさいって、いま円ちゃん呼ぶから」 「呼んだって来るわけないだろ!? あの人は今、男前と一緒にホテルだよ!」 「ええっ!? そんなわけ……」  善次郎さんがまだ何か言おうとしたところで、俺の肩に誰かの手が乗せられた。反射で振り返り、その姿に絶句する。 「うわ、マジで賢太だったわ」  座る俺を見下ろすのは、ひと月前に簡単に破局した恋人……だと思い込んでいた相手。 「コージ……」 「どっかで聞いたことある声だと思ったわ。なに、またこんなところで男漁りしてんの? 懲りねぇな」  嘲るように笑うその横には、俺を家政婦だと言って共に笑っていた男がいた。その顔にも、コージと同じ嘲りが濃く滲んだ笑みが浮かんでいる。  コージは勝手に俺の隣のスツールに腰掛けた。俺は逃げたいのに、体が上手く動かなくて逃げられなかった。 「何回探しても無駄だって。お前みたいな何の変哲もない平凡なヤツ、誰も相手にしねぇから」  コージの横で、男が女みたいな声を上げてキャラキャラ笑う。 「しかしそんなにヤりたいなら、昔のよしみで一回だけヤッてやろうか?」 「ええ!? ちょとぉ、冗談でしょ!?」 「だってほら、かわいそうだろぉ? 俺のせいで飢えさせちゃったみたいで、みっともなく男漁りに来るの見たらさ?」 「でもコージ、勃つのぉ?」  どうしてこんな想いをしなければならないんだろう。俺はただ、ただ俺は……円に……。  やっぱり俺には、過ぎた望みだったんだ。一度だけ熱を分けて貰ったからって、勘違いが過ぎた。  目頭に溜まった熱を、今度こそ堪えられなかった。 「ははっ、見ろよ! コイツ泣いて──」 「お待たせ、賢太」  いきなり体ごとスツールを回され、えっ、と思ったのと、柔らかいものが唇に当たったのは同時だった。  ちゅっ、と可愛い音を立てて離れるそれを目で追う。その先にあった顔に、俺は声を失った。どうして─── 「なんだよ、泣くほど待たせたか? ちょっと遅れるだけだって言っただろ? ほんとに賢太は寂しがり屋だな」  そう言って、もう一度唇を重ねてきたのは……。 「ま、まどか?」 「じゃ、行こうか?」 「えっ、えっ、なに……」  一体なにがどうなっているのか、訳もわからず俺は円に引きずられるようにしてスツールから降りた。 「えっ、ちょっ、ちょっとアンタなんだよ!?」  状況を把握していないのは俺だけじゃなかった。いびり遊んでいたコージは、見下していたはずの俺を連れて行こうとする圧倒的な美貌の持ち主に食ってかかった。 「ん、なに? 賢太の知り合い?」 「俺はソイツの元彼だよ!」  円はきょとんとした顔でコージを見ると、ふっと可笑しそうに息を吐いた。 「なっ、何がおかしいんだよ!」 「いや、君って勃起不全か何かなの?」 「はあ!?」  円はコージから視線を外すと俺に振り返り、その大きな手のひらで俺の頬をするりと撫でる。 「だって、キスもセックスも、賢太は全て俺が初めてだったよ?」 「ンなっ、円!?」  コイツ、何を言い出すんだ!? 文句を言おうと開いた口は、再び円のソレに奪われた。しかもそれは全く浅いものではなく、深く深く入り込んで来る。 「んっ、んぅ、ふぅ……んっ、ンぅ」  散々口内を荒らした舌が、ぐぢゅといやらしい音を立てて離れた。その時にはもうそれだけで俺は腰砕けになっていて、支えてくれている円に必死でしがみついた。そんな俺を、円が強く抱きしめた。 「悪いね、別に君を馬鹿にしたわけじゃないんだけど。こんなにエロくて可愛い賢太と付き合っておいて手を出さずにいられるなんて、不能以外に考えられなくてね。ああ、それとも賢太が君を誘惑する気にならなかったのかな?」 「なっ、なっ!」  ぼんやりとした頭でも、いまコージのプライドが傷つけられているのが分かった。  あんなにカッコいいと思っていたはずのコージも、こうして円と並べば凡人の仲間入りをしていた。彼の隣にいる恋人であろうはずのあの男も、今や目をハートにして円に見惚れている。 「じゃ、時間がもったいないから俺たちはこれで」  去ろうとする円に、コージの横から高い声が上がった。 「あの! 僕、イズミって言うんですけど……」  イズミと名乗った男が一歩前にでる。さらりとした髪を女のような指で耳にかける姿は、なんとも色っぽい。だがそれを見せられた円や俺よりも、その行動に驚いたのはコージだろう。イズミは明らかに円を誘っていた。 「良かったら、僕と連絡先の交換を……」 「な……!?」  コージの口が戦慄いた。そりゃそうだろう、自分の恋人が、真横で他の男を誘うなど信じられるわけがない。そんな行動に出られるイズミは、さぞ自分に自信があったのだろう。  凡庸な俺になら、簡単に勝てるという自信が。だがそんな彼を、円はすげなく切り捨てた。 「ごめんね。俺、君みたいな尻軽には生まれ変わっても勃ちそうにない」  イズミはその大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開くと、周りからの嘲笑に耐えきれなくなり、飛び出すように店を出て行ってしまった。  その後を、怒声をあげてコージが追いかける。  一瞬で店の中は静かになったが、円の手は俺の腰を支えたまま離れなかった。 「……賢太、連れてくから」  この騒ぎをカウンターの奥で見守っていた善次郎さんに声かけると、円はそのまま店の外へと歩き出した。

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