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Chapter 20―3
『camellia』では、いつか見た若いバーテンがシェイカーを振っていた。名前は何だったか。聞いたような気もするが、忘れてしまった。
あの後、慌ててヒカルの住民票を調べても、元の住所から動いておらず、早々に行き詰まってしまったのだ。
人伝に捜すしかないと考えてみるものの、共通の知人と云えば、一人の顔しか浮かばず―――。
カラン―――という、ドアの開く音に武智が振り返ると、店内に入ってきたのは待ち人である喜原勝基だった。
約束の時間の5分前。
「待たせたか?」
「いえ、先ほど来たばかりです。」
武智の隣に勝基が座ると、2人の前に若いバーテンが流れるような仕草でグラスをテーブルへ置く。
グラスは2つだ。勝基が来る時間にカクテルを仕上げたタイミングの良さに感心した。
そのバーテンがシェイカーを傾け、2つのグラスへカクテルを注ぐ。
「ギムレットです。」
―――『別れ』か何かの意味だったような。
これは只の演出なのか。それとも、皮肉なのだろうか。
思わず武智が苦笑いすると、隣に座る勝基は鼻で笑い、一気にグラスをあおった。
「それで、ヒカルの何が聞きたいのだ?本当に行方は知らないぞ。」
「あの、社長は―――、捜されていないのですか?」
改めて考えると、おかしな状況だった。
ヒカルは勝基の愛人であり、武智は間男という立場になる。
いわゆる、恋敵のような間柄だ。
武智とヒカルの事を、勝基が気づいていないとも思えないのだが、どうなのだろう。万が一気づいていないとすれば、やぶ蛇になりかねない。
―――余計な事は言わないようにせねば。
武智が恐る恐る問うと、勝基は特に気分を害した様子も見せずに、気取った仕草で肩を竦めた。
「まあ、元からその予定だったからな。恐らく、探られる事を快くは思わないだろう。」
「どういう事で―――」
「ヒカルは―――、愛人などではないのだよ。」
はっ?―――と、武智の口から音にならない声が出た。
―――愛人、ではない?待て待て待て待て、
新事実を全く飲み込めずにいる武智に構わず、勝基が話を進める。
「この街に麻薬が入ってくるのを防ぐ事と、ついでに山口組を潰す事。この2つの為に、手を組んだパートナーだ。片がつけば、解散になるのは始めから分かっていた。」
勝基の言葉を処理しきれない。
意味が分からない。いや、聞こえてはいるのだが、理解ができない。
愛人ではない、愛人ではない―――と、その言葉だけが頭の中にこだましている。
「『椿山ヒカル』は偽名だろうし、どこの組織の者かも知らない。」
「偽名―――」
そんな事、思ってもみなかった。
武智と同じ様に、名前ですら違った。
勝基の愛人でもなく、『椿山ヒカル』という名でもない。思ってもみない事だらけだ。
ヒカルの何を知っていた訳でもないが、輪郭がぼやけて、どんどん不確かな存在になってゆく。
―――オレが恋に落ちたあの人は、
いったい誰だったのだろう。
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