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「仔猫の寝床」 最終話
――先生も、しようよ。
悪戯に微笑む唇は、もう私の知っているユキトのそれではなかった。
満ち足りた吐息を吐き、傍らに座る私の膝へ撓垂れかかる。初めての淫らな遊びをユキトは大層お気に召したようだ。
このまま続きを、と上目遣いに擦り寄る頬を軽く抓ると、卑猥な流し目が瞬く間にまん丸のどんぐり眼になる。照れ隠しだろうか、おどけた顔に澱んだ部屋の空気がパッと霧散した。
彼もまた私と同じように、想いを寄せる相手へ一番無防備な姿を晒してしまった気恥ずかしさがあるのだろう。それでもすぐにこの状況を受け入れられるのは、やはり若さゆえか。
好きだという気持ちだけですべてのしがらみを取り払ってしまえる、そんな彼が羨ましく、私の目にまた一段と魅力的に映る。
「身体。洗ってきなさい」
「ええ~」
換えのシーツを買っておいて正解だった。まさか初日に使う羽目になるとは思わなかったが、大部分――いや、こんな事態を引き起こした元凶が自分自身なのだから仕方がない。
「風呂に入ってる間にベッドを整えておくから」
寝転ぶユキトを転がし、ベッドの端まで追いやる。くすぐったい、と笑いながらじゃれつく彼の視線が、ふと私の下腹に目を止めた。
「あ、ほら。やっぱ先生だって勃っ、」
躊躇いなくソコを確かめようとする手を、ピシリ、と叩く。
「これくらい、すぐに治まります」
「なんだよ。精力が足りないん……」
口に出して、はっと表情を曇らせる。遠くを眺めるような、ふと曇った瞳の奥で彼が何を考えているかはだいたいわかる。そしてそれが、おそらくいつか現実となることも。
「キミが思ってるより生命力はあるよ」
迷子のようにふらりとこちらを向いた視線に、心の限り優しく語りかけた。
ふとした瞬間の、ユキトの優しさが愛しい。彼はきっと素晴らしい男になる。誰からも愛されるような、そんな男に。
「少し前に話した、妻の手紙のこと覚えてる?」
「……入院する前に書いてた、ってヤツ?」
「そう」
手紙に書いてあった妻の言葉を、私はいまでも諳んずることができる。といってもメモ書き程度のたった三行の文章で、書いてあることも大したことではなかった。
「〝食事に気を遣うこと〟、〝マメに掃除をすること〟、〝ご近所に迷惑をかけないこと〟。ボールペンの走り書きで、一度封を切った古い茶封筒に入ってた。そのくらい本人に向かって言えばいいのに、どういうわけか貴重品の引き出しの一番下に埋もれてたんだ」
ただの検査入院のはずが、その三日後には最初の手術が決まった。家のことを片付けておきたいという妻の希望で、私たちは一日だけ家に戻った。
手紙はそのとき書かれたものらしかった。
「俺たちは互いに身寄りがなくて、親の骨もとっくに永代供養に出してるんだ。学生時代からの付き合いだから、本当に二人きりの家族だった。どちらかがいなくなれば、なんてまだ考える歳じゃないと……そう思ってたのは、きっと俺だけだったんだろう」
いつだって甘えてばかりだった。いい大人が、誰かに守られて当たり前のような顔をしていた。一番近くで支えてくれた存在を顧みるには、私はあまりにも遅すぎた。
「手紙がなくたって自分のことは自分でできたよ。健康のことはずっと言われていたし、もともと不器用な方でもないんだ、料理以外は」
妻は、きっと私に必要としてほしかったのだろう。手紙を渡さなかったのは彼女の存在の有り難みを、たとえ入院中でも忘れて欲しくなかったからなのかもしれない。そして、二度と戻れない可能性を考えて、いつか必ず必要になる通帳や、書類の入った引き出しの奥にあの手紙を入れた。
「本当は、このままひとりで最期を迎えるつもりだったんだ。この世に俺を必要としてくれている人はもういなくて、だからといって彼女が守ってくれたこの身体を自分から捨てることもできなかった。だから、そのときが来たら自然に……」
「やだよ」
力強い腕が私の身体を包み込んだ。細い、けれども筋の浮いた男らしい腕だ。これからもっと逞しくなって、いつか私が抱きかかえられることもあるだろうか。
「痛いなぁ」
笑いながら腕を叩くと、締めつける力はますます強くなる。首筋に当たる額は汗が乾いて、ひたりと冷たく肌に吸いついた。
「俺、頑張るから。奥さんのぶんまで先生のこと見てるし、身体にいいモンだって作るし」
くぐもった声はかすかに震えているが、私はあえて気づかないフリをする。
「わかってる。キミが一生懸命料理の勉強をしてくれてるのも知ってるよ」
そのための資格をとろうと進学先を探しているのも知っている。もっといろんな可能性を探してからでも遅くはないと、正直そう思う。だが、それが最終的に彼の選んだ道ならば応援するだけだ。
「それにさ、先生まだ50過ぎだよ。100まで生きたらあと50年くらいあるよ」
「そうだな。できるだけ長生きできるように頑張るから」
「まだまだアッチだって枯れてないし。俺、キモチイこと大好きだから、もっともっと付き合ってくれなきゃ困る」
付け足しのような早口の囁きに、一度姿を隠した誘惑がふと目の前を過ぎった。本当に物好きな子だ。触れてもいないのに、私の身体が彼の疼きを癒してくれると信じている。
「実は、私も性欲は強い方なんだ。さっきは必死に我慢してた」
そう言うと、うなじにかかる息が笑った。
「ねぇ、先生」
「うん」
「好き」
最中の、艶めかしい声でもない。ただ庇護欲を誘う、甘えた低い声に欲情する。
ユキトといると自分が何者かわからなくなりそうだった。年齢も性別も越えて、彼の笑顔と向き合う今この瞬間だけがこの世界のすべてになる。
「俺も。好きだ」
「あ……また〝俺〟って言った」
「変かな」
「変、じゃないけど、変な感じ」
背中に熱い吐息がかかる。
あと少しで私は彼の『先生』ではなくなる。
これからは、ひとりの男として河々谷有季斗に求められる人間になる。
新たな目標はとてつもなくやり甲斐があって、けれど、きっとどんな試験より難しい。
だが、どうせ最後に見る夢だ。この夢がきっと私を永らえさせてくれる。
「先生」
――耳慣れた響きを惜しいと思うことはあるだろうけれど、その頃にはもう彼と私の関係には新しい名前がついている。
ユキトは立派に成長して、その心の一部は私でできている。
私は、彼の魂になる。
「俺、まだまだガキだし、たぶんまた奥さんにヤキモチ妬いたり、いろいろ困らせると思う」
「うん」
「だからそんときは、ちゃんと怒って。めちゃくちゃ怒って」
「うん」
「でも……嫌いにはならないで」
振り返り、汚れた手のひらに口づける。
禁断の味は想像よりもはるかに甘く、優しかった。
「ずっとずっと愛してるよ、ユキト」
導きの春は終わり、果てのない冬がやって来る。
私の作った仔猫の寝床は、いつか大きくなった一匹の美しい猫が温め続けてくれるだろう。
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