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第1話
「犬飼 さーん、関東出版の大竹さまから二番にお電話です」
「ありがとう。――お待たせいたしました。大竹さま、いつもお世話になっております。犬飼です」
犬飼 淳一 は受話器を取ると、保留にされていたボタンを押した。電話の相手は取引先の担当者だ。犬飼は現在個人のデザイン事務所で働いている。小学生の娘さんがいる女性事務員を含んでも、十名ほどの小さな会社だ。社長の笠井は大手デザイン事務所に所属していたとき、有名な広告を数多く手がけ、本も出版している有名デザイナーだ。独立して会社を起こしてからもいくつもの賞を獲得し、会社はまずまずの軌道に乗っている。
「ええ、例の絵本の件ですね。向井から聞いています。確かにもっとはっきりした色味のほうがいいかもしれないですね。ええ……」
クライアントからの電話を切ると、犬飼は手元のメモに走らせたペンを置いた。いま打ち合わせた点を頭に留めながら、肩胛骨を寄せ、小さく伸びをする。最近、運動不足を実感していた。徹夜などをしてもケロリとしていた若いころとは違って、三十を過ぎたころから急に体力の衰えを感じた。今年こそは何か運動をしないとなあと思いながら、早二ヶ月……。まあいい、いま取りかかっている仕事が落ち着いたら考えよう。
コーヒーに手を伸ばし、プラスチックのカップが空なことに気がついた。一息入れようと、席を立ったときだった。
「だからお前だけの仕事じゃないって何度言ったらわかるんだよ!」
苛々とした声が聞こえてきてまたかと思う。見れば、後輩である向井が犬飼の席からはやや離れた場所にいる男、瀬戸 裕介 に向かって声を荒げていた。
「安西さんとこの仕事は俺とお前で進めていくって話だろ! なんで相談もせずに勝手にひとりで進めちゃうんだよ!」
ひとめを気にせず自分の席の前で大声を上げる向井に、瀬戸が何て返したのか犬飼のところまでは聞こえてこない。周囲のデスクのまたかという反応でもわかるように、この仕事が決まってから何度も目にしたお馴染みの光景だった。犬飼は小さくため息を吐くと、瀬戸のデスクへと向かった。
「向井、声が大きいよ。周りの邪魔だ、もう少し声を落とせ」
「犬飼さん……」
向井は犬飼を見てほっとした顔をした後、咎められたことを思い出したように、むっと口を尖らせた。もういい大人なのに、拗ねた表情が子どもっぽい。
こいつもなあ、もう少し大人になればなあ……。
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