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第30話

 自分がどうしてこんなに緊張しているのかわからない。出した手を下げることもできずに、けれどそのまま撫でることもできずに固まっていると、ふっと瀬戸が身体から緊張を解いたのがわかった。 「撫でてください」 「えっと、あの、瀬戸……?」  言われている意味がわからず、――いや、言われていることの意味自体はわかるのだが、犬飼がどうしたらいいかわからず戸惑っていると、 「あんた、その猫だったりあいつにはさんざんやっているでしょう。差別せず、俺にも撫でてください」  と偉そうに言われ、なんだそれと呆れた。そう言えば、前にも似たようなことを言われたなと思い出す。  瀬戸が目を閉じた。そのまま犬飼に撫でられることを待っているらしい男に、犬飼は困惑を隠せない。  撫でろって、瀬戸を? 本当に……? 「な、なでなで……?」  瀬戸がじっとしたまま動かないので、恥ずかしさを堪え、その頭を撫でる。いつもクロにしてあげるみたいに、やさしくその髪を梳いてやると、もちろん実際に聞こえたわけではないが、目の前の男からゴロゴロゴロ……と、そんな声が聞こえた気がした。  なんだかこいつ、めちゃくちゃかわいくないか……?  じわりと頬が熱くなる。 「冷て……っ」  突然そんな声がして気がつけば、テーブルの上にあった缶ビールをクロが倒していた。まだ半分以上中身が残っていたビールは、瀬戸のパンツの前をびっしょりと濡らしている。 「ク、クロ……っ!? わー、瀬戸すまん!」  慌てて台所から布巾を取ってきて瀬戸のパンツを拭う。 「大丈夫か、よかったら風呂場を使うか?」 「すみません。お借りします」  こっちだ、と瀬戸をバスルームに案内する。代わりの着替えを用意し、瀬戸に渡すと、犬飼はひとりリビングへ戻って後片付けをした。  どうしよう……。  まるで思春期の中学生みたいに胸がどきどきしている。瀬戸を意識してしまう。同じ職場の同僚で、後輩で、しかも同性なのに。布巾をぎゅっと握りしめたまま、犬飼はしばらくぼうっと突っ立っていた。 「どうしよう……」  不安が零れ落ちるようにぽつりと呟いた犬飼を、クロが金色の瞳でじっと見上げていた。

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