33 / 72

第33話

 手元の資料を捲りながら、瀬戸が何かを話している。微かにグリーン系の爽やかな匂いがした。瀬戸がつけているハンドクリームの匂いだ。男がハンドクリームなんてと初めて聞いたときは驚いたが、紙を扱うと手が荒れるのでという瀬戸の答えに、犬飼はそんなものかと納得した。清冽な香りは瀬戸によく似合っていた。  手元の資料を見ているので、視線は自然と伏せがちになる。そうしていると、その睫毛の長さが際立った。すっと通った鼻梁、かたちのよい唇。少しだけ低めの落ち着いたトーンの声に、いつまでもぼうっと聞いていたくなる。 「――さん。聞いてますか?」  犬飼はハッとなった。気がつけば瀬戸が手を止めて、訝しむようにこちらを見ていた。まずい、聞いてなかった。焦り、口を開こうとした瞬間、まともにその目が合って、かあっと顔が熱くなった。 「わ、悪い! えっと、何の話だっけ……」  犬飼の言葉を聞いた瞬間、瀬戸の顔からすっと表情が消えた。開いていた手元の資料をパタンと閉じる。犬飼は青くなった。いまのは明らかに自分が悪いという自覚があった。どうしようと焦るが、すぐにうまい言い訳が思い浮かばない。まさかお前を意識して話を聞いていなかったなんて言えるはずもない。 「本当にすまない。いまのは俺が悪かった。申し訳ないが、もう一度言ってもらえないだろうか」 「この間からあんたが俺を避けているのは、どうしてですか。俺があんたに何かしましたか?」  まっすぐにこちらを見つめ、犬飼が避けたい話題をストレートに出され、犬飼は瀬戸の視線を直視できずにうつむく。 「違う、瀬戸は何も悪くない。瀬戸を避けてなどいない」  内心で激しく動揺しながらも、犬飼は瀬戸が自分のことを名前ではなくあんたと呼んだことに気がついた。最近は以前よりも瀬戸と親しくなって、プライベートではときどきそう呼ばれることもあったが、いままで一度だって仕事上で呼ばれたことはない。いまこの状況であえてそう呼ばれることに、犬飼は瀬戸の強い憤りを感じた。 「避けていない? いまもこの場から逃げ出したそうにしているのに? こちらの誘いを何だかんだと理由をつけては断っているが、あんなの全部嘘でしょう。ただ俺を避けたいだけだ」 「本当だ! 瀬戸を避けてなんかない!」  声をひそめつつも、犬飼は必死に弁解する。少なくとも、犬飼自身の気持ちの上ではそうだった。ただ、それに行動が伴っていないだけで……。

ともだちにシェアしよう!