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第55話

 競合コンペまでは三週間ほどしかなく、それからの日々は、まさに多忙を極めた。家に帰ると風呂に入るのも億劫なくらい疲れ果てていて、クロに餌をやり、あとはベッドに倒れ込むように眠った。目をつむったら一瞬で朝になっていて、まるで詐欺にあった気分になりながら、なんとかシャワーを浴びて出勤する。何十枚も何百枚もスケッチし、瀬戸やそのほかのスタッフと打ち合わせを重ね、ひとつの作品を作り上げる。同時進行で、以前から継続的に請け負っている仕事も進めなければならない。しかし、そんな辛い日々を送っているはずなのに、犬飼は楽しかった。まるでこの会社に入社したころのように、デザインをすることが楽しくてたまらなかった。こんな気持ちを、犬飼は久しく忘れていた。  そして、職場の中でも少しずつ変化が生まれていた。これまで自分以外はどうでもいいという態度を取っていた瀬戸が、自分のほうから歩み寄りを見せたのだ。そんな瀬戸の態度にはじめは戸惑っていたスタッフたちも、強情を張るほど皆子どもではない。あれほど張りつめていた職場の空気が、いつしか和やかなものへと変わっていた。  前回瀬戸がAOCに提出したデザインは、未来都市構想のポスターを、瀬戸らしい遊び心を含んで描いた素晴らしいデザインだった。しかし、犬飼が今回デザインしたのは、遠い昔、通勤途中の電車の中で、何度も繰り返し見た景色だった。  夕焼けに染まった街並みに、電車が走っている。電車は淡く薄闇に沈んでいて、一面を赤く染めた空の向こうには富士山が見えた。  ――なんで富士山なんですか?  日本人はなぜそんなに富士山を特別視するのかと、やや呆れたように言った瀬戸の声が甦り、犬飼の口元に自然と笑みが浮かんだ。  瀬戸は笑ったけれど、日本人の中に少なからず富士山に対する憧憬のようなものがあるのではないかと犬飼は思う。  街があるということは、そこに暮らす人々の営みがあるということだ。この小さな明かりのひとつに、それぞれの暮らしがあり、大切なひとが住んでいる。できることならば、その顔も知らない誰かの暮らしが、少しでも平穏で幸せであればいい。そんな願いを込めて、犬飼は今回のポスターをつくった。昔、まだ瀬戸に会うまえ、彼のつくった広告に犬飼が毎朝癒されていたように、たったひとりでも誰かの胸に何かを届けることができたらいい――。

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