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第72話

 犬飼さん、と呼び止められ、振り返る。スマホのカメラを向けられ、カシャリと音がした。目を剥く犬飼に、男は「待ち受け画面にするんで」と言った。犬飼は唖然とする。 「お前なあ……」  ため息を吐き、それ以上深く考えることを拒んだ犬飼に、再び犬飼さん、と呼ばれた。 「何だよ」  振り返ると、なぜだかやや緊張したような面もちで瀬戸がじっと立っていた。その真剣な眼差しに、思わず何事かと怯んでしまう。 「……何だよ、別に怒ってないよ」 「今度の連休、旅行へいきませんか」 「え、だめ」  間髪入れずに答えた犬飼に、男がショックを受けた表情で固まった。犬飼は慌てて足りなかった言葉を尽くす。 「だ、だって、ほら、泊まりだとクロが寂しがるから……」  犬飼の答えに、瀬戸は少しだけ不満げな顔をしたあと、すぐに気持ちを切り替えたように「だったらペット同伴のホテルを探します」と言うので、それだったらまあいいかと了承した。  困ったことに、クロと瀬戸の仲は相変わらずで、――いや、最近ではどちらかといえばクロのほうが優勢で、瀬戸はクロの隙を狙っているところがある。犬飼にとって、クロが何よりも大切な存在であることを理解しているのだ。  まあいい。この問題も、これからいくらでも時間はある。 「犬飼さん」  振り返ると、瀬戸がうれしそうな、ひどく柔らかい笑みを浮かべていた。 「――楽しみです」  ひどく素直な瀬戸の言葉に、犬飼はじわりと頬を染めた。これまで犬飼のスマホのカメラロールには、クロの写真がほどんどだった。けれど、最近少しずつだけれど、その中にこの無愛想な後輩の写真が増えつつある。そのことを、犬飼は気恥ずかしく思いながらも、それ以上にうれしさを感じていた。 「俺もだよ……」  犬飼の胸の中に、心地いい緑の風が吹いた。 了

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