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1.栄沢翠龍37歳の場合
目が覚めたとき、栄沢翠龍は下肢の奇妙な違和感に眉根を寄せた。
身に纏っているものは着馴染んだ着物だが、自分の持っている反物ではない。先ほどまではAmazonプライムで映画を見ながらうとうとしていた筈で、流水柄の浅葱色の着物を纏っていたはずだが、今は常盤木の刺繍が入った萌黄の着物をきっちりと着込んでいる。
寝乱れた形跡もなく、髪もいつものように後ろへと撫でつけられてオールバックにされていた。
眠っている間に手を加えられたのかと思うが、人の気配には聡いはずの自分が目を醒まさないはずもなく……。
横になっているのは白い布団の、否、ベッドの上だった。そっと身を起こせば音もなくマットレスが沈む。シーツも毛布も被っていなかったが特に暑さも寒さも感じない。
四方を白い壁に囲まれ、天井には埋め込み式の電灯が白白と部屋を照らしていた。家具もなく、あるのは身を横たえていたこのベッド、その横に備え付けられた小さなチェスト、あとは白い壁に埋もれそうな扉が二つ。一つの扉には小さな窓が上方に取り付けられており、おそらく洗面所に通じているのだろうと察せられた。もう一方の扉には銀色のドアノブが付いており、ドアノブの上には電子錠のような鍵が備わっていた。
監禁か?一体どこの組に拉致されたかと目星い対象について考えを巡らせながら翠龍は自分の着物の裾を捲り、違和感の正体を探る。
「畜生め」
違和感の正体がわかり、翠龍は忌々しく毒づいた。道理ですうっとするわけだ。
中年の男の下着を奪った輩への殺意の波動に満ちた翠龍だったが、至近距離から聞こえた「ううん」という声に素早く臨戦態勢をとる。
愛刀も銃すらもなかったが、それでも締め殺すくらいはできる。
声はベッドの下から聞こえた。死角になっていたとは言え、警戒が足りていなかったことを元若頭として翠龍は恥じながら、注意深く気配を探る。寝起きのような、惚けた欠伸が聞こえ、「あれ……ここ…どこ……?」と抜けた台詞を吐く。声は低いがまだ若い男のものだった。もぞもぞと動く気配。そしてその人物はゆっくりと身を起こした。
ベッドの縁から黒髪が覗き、こちらに頭を向ける前に翠龍は音もなくその男の首を捕まえ、締め上げた。
■
「すまなかった」
あの後、ベッドに這うようにして、腕だけを伸ばした翠龍が蛇のように男の首を捉え、鮮やかに締め上げた後。状況を問うも要領を得ないことを呻く、口を割らない男に業を煮やした翠龍がその面を拝んだところ、その面立ちはよく知ったものだったので、翠龍は仰天して謝るに至るーー。
「大丈夫か、理衛」
まだゲホゲホと咳込む理衛を哀れに思いながら、翠龍はベッドに引き上げてやった弟の背を優しく撫でる。
「死ぬかと思っ……えっ」
「えっ」
「…えっ?」
二人して固まる。互いの顔を凝視したまま、瞬きすら忘れるほどの衝撃。
「……理衛、か?」
「…兄……えっ父…エッ?」
理衛は、まだ幼い顔を、パチクリと丸く開いた目を白黒させて翠龍の顔を見ていた。
翠龍は、父によく似た厳しく鋭い顔を、ぽかんと間抜けに緩ませて理衛の顔を見ていた。
「「ゑ???」」
そこには互いによく知った顔の、若すぎる弟の面影が/一気に老けた兄の面影が、互いの黒い瞳に映り込んでいた。
いや、まったく、こんな奇妙なことが起きるなんて、誰にも分からなかったことだろう。
■
やっぱりこういう時、いち早く状況を飲み込むことができるのは理衛の方であった。
「つまり、兄者は、俺にとっての未来の兄者で、俺は兄者にとっては十年以上前の姿をした過去の姿をした弟ってことですね」
「うううん…?」
「俺は過去の世界から来た弟です」
SFやファンタジーが苦手な兄のために情報を取捨して、賢い男子高校生の理衛は兄だけの情報にフォーカスして手短に説明する。
「お前は本当に理衛なのか?本当に……」
「その通りです兄者。俺は現在16になった高校二年生の栄沢理衛です。家は上野、実家はやくざ。最近、三浦の叔父貴が信じられんくらいの重症を負って骨や肺をやりましたが、3ヶ月で退院した上に相手方へ挨拶がてら手榴弾投げ込んできた時分です。俺たちは怖すぎて部屋の奥にある護身用のポン刀を布団の下に隠して寝るようになりました。ちなみに俺の知る兄者は19で大学へ通っています。」
どうです?と伏せていた目を上げて微笑む理衛の挑発的な表情は、まさに我が弟の栄沢理衛そのものであった。
目の前の若い理衛が話す内容は、身内でなければ知り得ない内容ばかりで、翠龍はやはりこれは理衛なのだろうと信じるしかない。
信じるしかないが、信じられん気持ちになるのは許して欲しい。だって、そんなことあるか?
「俺も信じがたいですよ…兄者、本当に父に似ましたね」
眉を下げて気まずげに笑う理衛に、曖昧に笑い返して翠龍は早くこの場を去りたい気持ちでいっぱいになる。よく分からんものとは距離を取るに限る。
「まあ、その、なんだ。お前を絞め殺さずに済んで何よりだった。では俺はこれで」
そう言って立ち上がった翠龍は「そういや今パンツ履いとらんかったな」と思い出し、理衛の視線から逃げるようにそそくさと背中を見せて、部屋の扉へとすり足でたどり着くと、ドアノブをガチャガチャといじる。いじるが開かない。
鍵なんてどこの何奴が掛けとんじゃと翠龍は怒りが湧くが、どうやってもドアは開かない。ウンとも寸ともダメだった。
「開かないんですね。こっちは……トイレと洗面所か」
理衛がもう一方のドアを開け放って言う。この外へ通じるドアだけは鍵がかかっているようだ。
「解除の方法が部屋のどこかにあるのでは……」
理衛はそう言ってベッド脇に備え付けられたチェストの引き出しに手をかける。
翠龍は他に外の様子が確かめられそうな箇所はないかと壁沿いに歩いてみる。そこで最初は気にしていなかったが、天井の隅に小さなスピーカーが取り付けられていることに気づいた。まるでサイコホラーかなんかの舞台装置だなと翠龍が皮肉げに笑ったところで「ワッ」と理衛が声を上げるものだから、翠龍もヒヤッと身を竦める。
「なんだ、脅かすな」
「あ、は…すみません。なんでもーー」
焦った声で答える理衛を遮るように、唐突に、ボソボソっと放送の際に入るノイズが部屋に流れ、それに続いて無機質な音声が流れ始める。発生源はあのスピーカーだ。機械による録音と思われる音声は無難な挨拶を挟んでから、とんでもないことを歌い出す。
その内容に翠龍は面食らってしまった。
『おはようございます。ここはセックスしないと出られない部屋です。セックスが終わるまでドアのロックは解除されず、部屋の外へ退出することはできません。トイレはご自由にご利用いただけます。チェストの中のアメニティもご自由にお使いいただけます』
冗談にしては笑えない。
背後を振り返れば、理衛が開けたチェストの中身を手にしたまま絶句している。その手にはピンクの玩具とローションのボトルが握られている。
嘘だろう、と翠龍は顔を引き攣らせた。
流れる音声は具体的なセックスの定義についての説明を続けている。
これは現実か?最近映画鑑賞にハマって多数の映画を見たが、こんな内容の映画なかったっけか。部屋から出れない的な……そうだ、あれはSAWだったか。でもあれは出るために同室の人間を殺さなければいかんのか。セックスて。三流映画にもないわそんなモン。
これならまだ拉致られた方がマシだった。翠龍は頭を抱える。セックスしたら出られるだと?そんなこと言ったって、ここにいるのは…
「兄者…」
こちらを困り果てた顔で見るぴちぴち16歳のイケメン男子高校生だけなのだ。
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