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第47話「不幸」

「ごめんね」 20時を回っていた。 今日起きた出来事を聞いたのは1時間程前で、久々に顔を見た滝野洋平と言う顔見知りの男子大学生と、大学で同じゼミに入って出会って以来の親友は、俯いて顔を上げない菅原を連れて部屋に入るなり、彼には一言も喋らせずに全てを話してくれた。 「、、、」 大城は部屋の入り口の壁に寄り掛かってこちらを黙ったまま見つめている。 滝野は先程大城が自分の家まで送り、夕飯にピザを取って1人でLサイズを3枚程食べようとしていた光緒に「洋平くんと食べてね」と言って置いてきた。 今はブランドの事務所の西宮の部屋で、菅原は2人掛けのソファに座り、西宮はその目の前の1人掛けのソファに浅く腰掛けて、俯く彼の顔を見ながら優しくそう言った。 「、、、」 魂でも抜けたかのように、ここに来てから菅原はひと言も喋らない。 「有紀くん」 西宮独特のオネエ言葉は出てこなかった。 「有紀くん、聞こえてるなら返事をしなさい」 「善晴、少し黙ってくれ」 「うちの生徒がどれだけ傷付けられたかも考えてくれないか。口を出さずにいられると思うならどうかしてるよ」 大城はそう言ったが、西宮はゆっくり話さなければ菅原がこちらの話を聞かない事を熟知していた。 怒られれば怒られる程、声を荒げれば尚更に、聞く耳を持とうとしないのが目の前の青年なのだ。 「有紀くん」 もう一度、優しい声で彼の名前を呼んだ。 「怒ってないって言えば、嘘になるから、それは言わない」 菅原は重ねて握りしめた自分の手をじっと見つめている。 「だから、俺の話をゆっくり、よく聞いてね」 「、、、」 大城は黙って壁に寄り掛かり、長い脚を交差させて腕を組んだ。 反省の色も何もない菅原を眺め、フ、と短く息を抜く。 「君を初めて見つけたとき、俺は、若いときの自分と同じ顔をしてる君を、見たくないと思ったんだ」 「、、?」 ぴく、と菅原の右手の小指が痙攣したように動いた。 顔がゆっくりと上げられ、睨み上げるように目がこちらに向けられる。 それは出会った頃の彼と同じ、寂しい色で揺れていた。 「君が俺の嫌いな頃の自分をまるっと写したみたいに見えて、思い出したくなくて、嫌で、、でも、だからこそ思ったんだ」 ニコ、と気弱げに、何処か寂しそうに西宮が笑った。 「この子が掴むべき幸せを自分が与えられる年齢になっているのなら、君が俺のようにならないようにそれを分け与えるのも、大人の務めじゃないかって」 「、、何の話ですか」 低くて拗ねた、不機嫌な声だ。 ほとんど唇を動かさず、喋るのさえ億劫そうな顔が見える。 「お節介だったかもしれないけど、俺は君に愛情をあげたかったんだよ」 「、、、」 「由紀子と俺とで、恭次と君へ。あげられるだけの愛情をあげたかった」 菅原の手が、指を組んでお互いに爪を立てて硬く握られる。 ガラス張りの西宮の自室の周りの部屋では、会議をしていたり、新作の服がズラッと並んだ部屋で何かを言い合っている人間達が忙しく働いているのが見えた。 「本当にお節介ですよ」 苛立った視線、苛立った声。 彼は出会った頃からずっと、世界を呪うように睨むときがある。 2人の間にあるテーブルの上には何も置いていなかった。 部屋の中の空気は重だるく、質量を持っているかのように2人の身体にのしかかってきている。 「そうだね、そうだった。間違ってた。大切に大切に、優しく傷付けずにいれば、君が真っ直ぐ前を向いてくれると思ってたよ。でも考えてみたらそれは甘やかしで、君に必要なものじゃない」 西宮は思った。 自分ではなく妻である由紀子が生きていれば、もっと分かりやすく、そしてもっと確実に彼の道を標す人になれただろうと。 由紀子はいつも口うるさく菅原を叱り、ときに優しく姉のように接して笑わせていた。 (君がいてくれたら、この子がこんな事をせずに済んだのかもしれない) 自分は間違えたのだ、と、妙にゆっくりと息をついた。 「俺はこう言う人間です。誰にも愛されない、問題ばかり起こす。貴方とは住んでる世界が違う、見えているものが違う。家族がいて信用できる友人がいて、何も虚しくなんてないでしょう!?俺はずっと、ずっとずっとこのままだ!!」 ダン!と大きな音を立てて、菅原の拳がテーブルに叩き付けられる。 歯を食いしばり、苦しげに顔を歪ませた彼は、それでも攻撃的な視線を西宮に合わせ口を開く。 「気分で拾って、自分が良い人間になる為の道具にするな!!!うるせえんだよ!!」 丸い金縁眼鏡は、2年程前に西宮が菅原の誕生日にプレゼントしたビンテージモデルのものだ。 「俺が何してもお前に関係ないだろ!!本当の親子でも何でもない!!ただちょっと飼ってみたかったってだけなんだろ!!」 菅原はタガが外れたかのように怒鳴り続けた。 今まで世話になっているからと西宮に言えなかった数々の言葉を、どうせもう捨てられるのだからとこの場で乱暴に吐き捨てていく。 西宮は黙ってそこまで聞くと、一瞬自分の手を見つめた。 よくこうしてソファに座っていると、隣に腰掛けて身体を寄せ、手を握ってくれたあの女性はもういないのだ、と。 何回目かの涙が、目に浮かびそうになった。 「そう、、そうか。そう見えてるんだね」 悲しみに満ちた声だ。 菅原はその声に、胸が痛むのを感じた。 こんな事が言いたかったのでも、こんな大事を起こしたかったのでもない。 彼はただ、初めて好きになってしまった佐藤義人と言う人間に、藤崎よりも自分と言う存在が価値があるのだと分からせたかった。 金だって、一緒にいる時間だって、セックスの回数だってきっと藤崎に勝てる。 だから自分を見て欲しかった。 誰にも愛された事がなく、親にも無視をされ、ろくに友人もできず、ずっと1人でいた自分の、この胸の穴を、どうか塞いで欲しかった。 義人の特別になれれば、それが叶うと思ってしまった。 「君はそうやって、いつまで不幸比べをするの?」 耳から入って、脳味噌を直接殴られたかのように。 その言葉は鋭く重い衝撃を頭から全身へ与え、痛みは手足の血管を駆け抜けて行った。 「え、、?」 耳を疑うような冷たい声に思わず声が漏れて、菅原はバッと目の前に座る西宮を見つめた。 (あ、、、) その目は大城に向けられた瞳よりも遥かに恐ろしく見えた。 冷たくて、呆れ返った無感情。 自分が1番向けられたくないと足掻いていた筈のあの目だった。 「人より不幸なら、誰かの大切な人を傷つけて良いの?恋人のいる人の身体を貶めて、人から奪ったら本当の愛になると思った?」 ズクン、ズクン、と耳の後ろで血管の切れそうな音が響いている。 菅原は手汗を握りしめ、恐怖で震える拳を更に強く握り合わせた。 「いつまでそうやっていじけて生きてくの」 頭をぶつけて回って、全身を掻きむしって、そうして目の前で暴れて苦しんでやりたかった。 (俺が悪いんじゃない) 菅原の人格の根っこの部分には常にそれがついて回る。 誰にも相手にされなかったのは、自分を愛さなかった両親のせいであり、そんな親の元から誰も助けてくれなかった世界のせいでもある。 「綺麗事ばかり言われても、馬鹿だから分かりませんよ。理解できないんですから」 菅原はどすの利いた声で言い返していた。 いじけるも何も、何も人より秀でていないのだから羨ましいと思うのも、アレが欲しかったと願うのも自由ではないか。 この手には何もないのだから。 捨て過ぎて、毛嫌いし過ぎて、傷つけ過ぎて、欲しかったものは全て砂になって、指の間から抜け落ちてしまった。

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