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第48話「大人」
自分には何もない。
誰かの特別になれた試しなんて、生まれたときからなかった。
望んだって何が悪いと言うのだろうか。
食べた事ない物を食べたい、着た事のない服を着たい。その願望は当たり前に人の中に根付いている。菅原は人よりそれが少し強いだけだ。
そして、間違っていたとしてもその願いを無理矢理に叶えてきただけだ。
「理解しようと言う努力はあった?」
西宮はどんなに菅原が豹変しても、今以上に裏切っても、自分を傷付ける言葉を言っても狼狽える事はなかった。
ただ真っ直ぐに彼を見つめ、冷静な声で言う。
「不幸な親のもとに生まれても、彼らから離れて生きている人達はいる。誰のものも奪わず、どうしたらいいかをずっと悩んで必死に前を向いている人達がいる。そうなろうと言う気は起きなかった?」
それは綺麗事の詰め合わせのような言葉だ。
けれど菅原が捻れ曲がって歪みきり、正したとしても後遺症が残るようなクズならば、もうそれで終わりだと西宮は自分に言い聞かせる。
綺麗事だろうと、この世で日を浴びていたいなら、彼をこちら側に引き摺り込まないといけない。
生まれてから何年もかけて彼の頭に刷り込まれた「何をしたってどうしようもない」と言う考えを、「自分が1番可哀想」と言うエゴを、ここで一度打ち砕いて理解させなければ、このまま腐ってそのまま1人きりの人生になるのだ。
「君の周りはそうじゃなかったかもしれない。周りがそうでなければそれに染まっていいの?楽しかったかな。楽でよかったのかな。」
かつて、西宮自身もそうだった。
「いつまで他人よりも親に愛されなかったからって逃げ回るの。その言い訳が何歳まで保つか分かっている?」
貧困に苦しみ女性に身体を売っていた時代のある彼もまた、身の上の不幸ばかりを恨み、周りに当たり散らして生きていた時期があった。
誰も守ってくれなかった世界で、自分を見てくれる人間が現れたのが大きな転機だった。
人と関わる丁寧さに気がつき、声をかけてくれたのは妻である由紀子で、そこから素直に人と交わるようになった。
ファッションへの熱意を認めてくれた善晴と味わう事などないと思っていた青春を駆け抜けた。
それは、自分の不幸ばかりに囚われて生きるのではなく、こんな自分だからこそ何かをしてやろうと前を向いた彼が手に入れた物だった。
10代ではなくなった自分に訪れた様々な縁を逃さず、食らい付いて放さずに懸命に生きたのだ。
「俺は、、俺は、!」
あの親から生まれていても、誰にも話せない経験をしていても、前を向いて良いに決まっている。
人間はそれしか能がないのだから。
「そう言う人達のもとに生まれる子はこれからもたくさんいる。そう言う子達の話を聞いて、守って、見つめるべき先を教えてあげるのが今の年齢の君ではないの」
菅原はグッと下唇を噛み、困惑した表情で西宮を見続ける。
菅原は愛されたかった。
他より「無」が多い家が嫌いで、選んで生まれたわけではないのに世界は不公平に自分と親を結びつける。
断ち切りたいのに乾いた部屋の記憶はどこへ行ってもついて回り、いつまで経っても胸の穴は埋まらない。
それがどうにもならないと思って来た。けれど、西宮はそんな事は許してくれない。
自分が変わらなければならないのだと、ただ淡々と諭してくる。
「もう大人になりなさい」
呆然と立ち尽くし、西宮を見下ろしていた菅原の前へ立ち上がる。
テーブルの向こうから、トン、と鎖骨のちょうど真ん中の、少し下、胸の上を指で押された。
「この穴を埋めるのは君自身。これからも、今以上に自分で傷つけて穴を広げたいのなら、色んな子と寝て、一瞬だけなら愛だと感じられるものを追って人生を棒に振ればいい」
どうしようもなく、指が触れているそこが痛い。
「40、50を過ぎても若い女の子としか話が合わなくて、周りにどんどん置いて行かれて、いつまで経っても大人にならずに1人で寂しく、若さだけが取り柄だって自信を持てないような子達を獲物にして食い散らかす、そう言うクソみたいな大人になりたいなら、俺は止めない」
鋭く冷たい言葉は、銀色の刃を菅原の胸に突き立て、グッと、そこに差し込まれる。
「このままそんな大人になって、君が自分の間違えに気が付いたとしても、誰かと真剣に愛し合いたいと思ったとき、俺はもうきっとこの世にいない」
菅原はグッと唇を噛み締めた。
西宮が自分の死を語る事が、彼にはどうしようもなく恐ろしく思えたのだ。
「生まれる場所は選べない。通う学校や将来も、もしかしたら選べない子だっている。でも、」
目の前の男は、恐ろしく、大人だ。
菅原はこの男にずっと甘えて生きて来た事を今更痛い程理解した。
ずっと庇ってくれていた。
自分を傷付けず、この事実に気付かせず、「大丈夫だよ」と愛情で包もうと必死に笑いかけてくれていたのだと。
「人を傷つけるか傷付けないかは、君が選んでやる事だ」
例えば補えない欠陥があったとしても、それに気付かせてくれる人を見つけて大切にする事は出来る。
自分が発している言葉の意味を、きちんと考え思慮深く考察し、誰かを貶めていないか考える事はできる。
「君はもう、その責任を持って生きないといけないんだよ」
そこに目を向けるか向けないかで、「自分」と言う人間を構成するものは大きく変わるのだ。
「愛されたいならきちんと愛を知る準備をしなさい。大切にする事が、金を払うとか、物をあげる以外にもある事を知りなさい。そしてそれを下らないと言うのはやめなさい」
菅原が誰かに愛されたくてもがくなら、まず愛するとは何かを考えなければいけない。
傷つけ、捨てて来た人間達を想う事を知らなければ、彼の胸の穴は埋まらない。
触れていた指が離れていった。
見下ろした自分の身体に、大きくて丸いぼっかりとした穴があるのが見えた。
「っ、ぁ」
菅原はうまく息を飲み込めず、両手を喉に回して抑える。
どうしようもなく苦しくて、逃げ出したかった。
「そうでなければ、君は一生下らない人間のまま、」
言わないで、と目で訴えてももう西宮はそれを聞いてはくれない。
菅原はそれ程までに西宮を失望させてしまったのだから。
「誰にも愛してもらえないよ」
ポツ、と涙が床に落ち、敷いてある重みのある絨毯に染み込んで行く。
「ど、して、、そんな、こと、、言うんですか」
この人だけはずっと、味方をしてくれると思っていた。
暴言を吐いても自分がどれだけ汚いと事をしても、全部「大丈夫だよ」と言ってくれると信じていた。
打ち砕かれた理想が心に刺さって、ダバダバと血が流れていくのを感じる。
「た、か、、たかお、み、さ、」
この人にこうまで言わせる程、何度も何度も自分が裏切ってしまってきたのだと分かった。
もう残りはないのだ。
菅原は今年で29になる。
もう立派な大人の年齢であった。
いい加減、誰かのせいだといじけて他の誰かを傷付けて優越に浸る事はやめなければならない。
今まではどうしようもなく西宮が彼を庇って来た。子供なのだからと甘やかして、大切に大切に保護して来た。
けれど今日それが終わる。
自分が取り返しの付かない事をしてしまったからだ。
菅原自身が気が付いたからだ。
人と愛し合いたいと言う自分の根底にある願望に。
「ど、して、俺だけ、どうして、」
崩れ落ちそうになる身体を、テーブルを迂回してこちらに近づいて来ていた西宮がすんでのところで抱き止める。
そのまま、190近くある大きな身体に抱き締められた。
「裕福で幸せな家庭に、生まれさせてあげれなくて、ごめんね」
そんなものは神様を恨むしかないと言うのに、菅原を抱きしめたまま西宮はゆっくりとそう言うのだ。
震える彼の背中をさすり、そう言えば久々に抱きしめたな、とぼんやり思い出している。
「由紀子がいなくなって、俺が変わって、恭次がそばに来なくなって、また1人ぼっちだって思わせちゃったんだよね」
「っう、、う、」
脚が震えて立っていられない。
「君は1人じゃないよ。有紀くんが戻ってきてくれるなら、家族で一緒にいよう」
その言葉は菅原の硬い表情を崩し、やっと、本来の少し頼りない表情へ戻していく。
「戻って来て。もう、馬鹿な真似はしないで」
「うっ、うっ、、ご、め、、ごめんなさい、ごめんなさいッ」
「うん」
「ごめんなさ、い、、由紀子さん、に、会いたい、1人はッ、、1人はもう、嫌です、!」
ちゃんと見てくれる人が欲しかった。
あの頃心を埋めてくれていた西宮と由紀子のように。由紀子がいなくなったその席に、誰かを座らせたかった。
「ごめんなさい、!!」
義人のあの目が欲しかった。
愛しそうに藤崎を見つめ、穏やかに笑う表情が欲しかった。欠点も何もかも全部見つめた上で藤崎を想うその心を自分に向けて欲しかった。
彼となら、幸せに、と。
菅原の心は、あのとき、そう思ってしまったのだ。けれど奪う事の出来ない藤崎のいるその場所が疎ましくて、どうしたらいいのかが分からなかった。
無理矢理にでも、と義人の身体を貶めてしまった。
「ごめ、、ん、なさい」
こちらをもう振り向きもしない義人に、ただひたすらに謝った。
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