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第50話「再会」
「ん、」
「おはよ」
「何時、、?」
時計の秒針が動く音が、やたらと大きく聞こえる。
「くっくくっくくー」と繰り返し泣く鳩の鳴き声は窓の外、どこか遠くから微かに聞こえていた。
眩しそうに少しだけ目を開ける義人を見下ろして、藤崎はパーカーの上からその細い身体を抱きしめる。何度触れても飽きないのだから、藤崎にとって義人はなくてはならないものになったのだろう。
「8時」
5人で顔を合わせるのは10時半に約束していた。
土曜日は特に出席数を数える授業がないので2人はこうしてサボる事が多い。
よく親が学費を払っているのにどうこうと年長者は説教を垂れる事が多いが、「人生の夏休み」とも呼ばれている大学生活を彼らは真面目に楽しんでいるに過ぎない。
昨夜の一件もあり、今日だけは罪悪感もなくお互いに「サボろう」と2人で決めた。
藤崎は義人を自分の胸にぎゅむぎゅむと押し付けて暖かさを楽しみながら、まだ微睡む彼の細く柔らかい髪に鼻を埋める。
「うー、起きないとダメかー」
気怠げで掠れた声は小さく、これ程近くにいないと聞き取れないくらいに舌も回っていなかった。
「俺は佐藤くんとくっついてたい」
先に起きた藤崎が開け放ったカーテン。
窓からはさんさんと輝く太陽がこちらを照らし、起きろ起きろと朝日を浴びせてきている。
「義人」
「わかった、わかってる、んー、、」
いつものは、と名前を呼んでくる声に、少し鬱陶しそうに目を閉じたまま表情を歪め、義人はまず目の前に持って来られた藤崎の顔にべちっと左の手のひらを当てる。
「いたっ」
鼻の頭に痛みが走った。
「んー、、どこ」
ベタベタと藤崎の顔を触っていると彼の唇に指先が触れ、うっすらとしか開かない目で義人はそれを見つめ、ぼやっとした視界の中で唇である事を確かめる。
それが終わると、唇に指を這わせたままグッと藤崎に身体を寄せた。
「ここ」
「ん、」
藤崎がそう言った瞬間、分かってると言いたげに、ちゅむ、と義人の唇が藤崎のそこにあたった。
朝一番の口付けに、藤崎は満足そうに笑む。
「えっちなチューはしちゃダメ?」
すりすり、とねだるように鼻先を擦り合わせた。
義人の目はまだ開いておらず、黒く長い睫毛がビューラーで上げたかのようにカールしているのが良く見えて美しい。
「眠いぃ、、」
「わかった、我慢する」
何度か軽いキスを繰り返してから、その代わり、と藤崎は義人のパーカーにスルリと手を入れ、背筋を腰の付け根からゆっくりと撫で上げた。
「んあっ、!」
驚いて下手な声を上げた義人はパッと目を開け、藤崎を睨む。
「起きよ。飯食って行く準備」
「いーッ!!背中やめろ馬鹿変態野郎!!」
ワサワサワサワサと藤崎の手が触れるか触れないかと言う触り方で彼の体を弄っている。
義人はそれ一回一回に身体をびくつかせ、藤崎を罵倒しながら手から逃れようと体を押し返し、被っている毛布を蹴った。
「いいのかなー、そう言うこと言って。起きないならこっち触るよ」
胸に回った手に、ぴんっと乳首を弾かれる。
「あんっ、んンッ!」
途端に甘ったるい声が漏れ、昨日の余韻を思い出したのか義人がほんの少しとろけた表情で歯を食いしばる。
「起きて、義人。じゃないとえっちなチューするよ?」
「ダメだやめろ、!」
そのままクニクニと乳首を触られ続け、とうとう義人はガバッと起き上がる。
フーッフーッ、と焦りと恥ずかしさを交えた顔で蹴って飛ばした毛布を抱え込んで藤崎を睨んだ。
「朝からそう言うのやめろ!」
「どう言うの?」
「うっせ馬鹿!!」
バフっと藤崎の顔面に毛布を投げつけ、義人はベッドから降りて怒った足取りでリビングへと向かった。
その後ろ姿を眺めつつ、お揃いのパーカーを見て藤崎は安心したように笑う。
一晩が経った。
夜中にうなされる義人を起こし、何度も抱きしめて落ち着かせて寝かせた事を彼はきっと覚えていない。
(忘れていいよ、そのまま全部)
藤崎はベッドから起き上がり、一瞬窓の外の世界を眺めてから、リビングへ繋がるドアへと向かった。
「こんにちは」
「っわ、」
大城もそうだが、西宮は190センチを超える身長をしている。
大学時代の2人は長身の美男子コンビとして学部内で随分と人の視線を集めていた程だ。
義人から見れば20センチ近く大きい身体をした大人が2人も揃うと圧巻でもあった。
「ぁ、こんにちは」
見上げた先の男は艶やかに伸ばされた黒髪を頭の後ろでひとつに結び、長い前髪を7:3に分けている。
渋い大人の男、と言う印象が強い彼は義人を穏やかな視線で見下ろし、ニコ、と笑いかけた。
「君が佐藤義人くんだね」
声は低く、しかしどこか艶がある。
「はい」
「私は西宮孝臣です。今日は来てくれてありがとう。今少し忙しくてバタバタうるさいかもしれないけど、許してね」
昨夜の出来事から1日経ち、10時に最寄駅まで迎えに来た大城の車に乗り込んで彼らのブランドのオフィスまで訪れた。
ビルがあるのは表参道だ。
義人達の目の前に聳え立つその大きな建物の4、5、6階が「REAL STYLE」のオフィスである。
(場違い感が拭えない)
里音にもらった洋服の中でも1番高そうなものを着て2人で訪れたが、オフィス内は「職場」と言う雰囲気で溢れており、学生である彼等は確かに少し浮いていた。
西宮のガラス張りの自室に入るなり、義人は初対面である彼と早々に挨拶を交わす。
藤崎に対しては「久しぶり」と軽めに声が掛けられた。
「あ、全然」
「それと、有紀くんを呼ぶ前に、今回のことだけど私からひとつだけ」
2人掛けのソファに義人と藤崎が通された。
座らずその前まで行って挨拶を済ませると、目の前の西宮はグッと頭を2人に下げる。
「っえ、」
「愚息が、取り返しのつかない事をしました。大変、申し訳ございませんでした」
「えっ、あの、」
西宮は目を閉じて、しばらく頭を上げずにいた。
長い黒髪はとろんと背中から肩に流れ、そのまま胸の方へ落ちた。
「西宮さん、頭を上げて下さい。自分は貴方に謝ってもらいたくて伺ったんじゃないんです」
慌てて義人がそう言うと、少ししてから西宮が顔を上げる。
一瞬息をついて彼を見下ろし、ゆっくりと口を開く。
緊張しているのだろうか、と藤崎は西宮の様子を見て口を出さずにその動向を見守っていた。
「私は君達に謝りたくて君達に来てもらった。これはケジメだから。有紀くんは私の息子のようなものなんだ。私が甘やかしてしまって、叱るところを叱らずにいたのも今回の事の大きな原因だ。だから、本当に申し訳ない」
きゅ、と口元が結ばれて、微かに眉間に皺を寄せながら西宮は再度2人に謝る。
義人は唖然としながらそれを見つめ、藤崎は黙っていた。
責任を感じていると言うのは嫌でも伝わった。
誰も口を出せない程、場の空気が静寂に包まれて重たくなっている。
「、、分かりました。お気持ちは、受け取らせていただきます」
口を開いたのは義人で、軽く拳を握り、大人に対して自分ができる限り同等の立場としてそれに応えた。
「ありがとう」
胸を撫で下ろし、西宮は彼を真っ直ぐ見つめてそう言った。
義人は大城に対しては少し恐怖心がある。
大人独特の、人を測るような目をする節があるからだ。昨日のあの撮影準備室で義人が大城と対面したとき、藤崎越しに目があった大城が自分を評価しようとしていた事には気が付いている。
信用できるかできないか。
大人として扱うかどうか。
既に彼の目の前でパニックを起こしたところを見られていた義人は必死に藤崎を抱えて「訴えません!」と言い返した。
何も考えずにこんな問題を起こして、と後々に言われるような気がして怖かったのだ。
藤崎を巻き込むなと言われそうで。
今も少し恐怖心があるが、それに対して西宮はまるで違う大人だった。
彼は義人を「大人」として扱っているのだ。あくまで自分と対等に会話をすべき人間として。
「座って大丈夫だよ」
「はい、失礼します」
「失礼します、、!」
西宮が促すと2人は後ろの2人掛けのソファへゆっくりと腰掛ける。
皮張りの黒いそれは、ぼふぅ、と空気を吐きながら2人分の体重を受け入れた。
「義人くん。君に有紀くんが何をしたか、大城と洋平くんが見た限りのことを昨日聞いた。それ以上に何かされているのかもしれないけど、君にこれから聞くつもりない。話したくはないと思うから」
「、、はい」
「これから有紀くんを呼ぶけど、最後に聞きたい。本当に大丈夫?いやなら私が話を聞いて彼に伝える」
義人は膝の上でグッと両手を握った。
(菅原さんに、会う)
確かにそう考えると、ズクン、と胸の奥が痛くなる感触がある。
急に背中が寒くなり、対して胸は熱くなっていき、心臓は何かに追い詰められるかのように激しく動き回って止まらない。
恐ろしくはあった。姿を見たくないと言う想いも。
(いや、、会わないといけないんだ)
けれどどうしても彼に言わなければならない事が義人にある。
うるさい胸に唾を無理矢理に飲み込み、ふー、と鼻から大量の息を吐き出す。
「佐藤くん」
藤崎が伸ばした右手は彼の左手に触れ、力が入り過ぎて小刻みに震えていたそれを落ち着けるように肌を撫でた。
「、、、大丈夫です」
「無理、しなくていいと思うんだ。言いたい事があるなら後日でも、」
「いいえ」
左手に触れている藤崎の手を、義人は上から自分の右手で包み、絡む舌を正すようにもう一度唾を飲み込んで口を開いた。
「会わせて下さい。今日、言って帰ります。頭の中にある内に」
震えは止まっていた。
真っ直ぐ、澄んだ瞳で西宮を見つめ返している。
真っ黒な目には一点、決意の炎が秘められていた。
「分かった。今ここに呼ぶね」
西宮はそれを確認するとテーブルの上に置いておいた携帯電話から助手の遠藤に電話を掛け、「連れて来て」と短くそれだけを伝えた。
大城の纏う空気が険しいものに変わる。
菅原が妙な真似をしたらすぐに取り押さえて通報しようと、もう心に決めているのだ。
(昨日のことなのに、何か、遠い昔みたいに思える)
ありありと情景が思い出せるかと言うと、冷静なときの義人の頭には途切れ途切れにしか昨日の記憶が起きてこなかった。
パニックになったときの方が、感触や温度まで思い出せて幾分も気分が悪くなったな、と考えている。
数分間、誰も喋らず菅原の到着を待つ空白が訪れてから、コンコン、とガラス張りのドアが叩かれる高い音がした。
「立たなくていいからね。司くん、入れて」
最後に西宮は義人と目を合わせてそれだけ言った。安心して、と言われたような気がする。
司と呼ばれた助手によってドアは静かに開けられ、1人分だけの靴音が部屋に響き始める。
西宮が奥、藤崎の前の1人掛けのソファへ移動し、菅原だろう足音は義人の目の前で止まってドス、とソファに腰掛けた。
(菅原さんだ)
何度か見た事があるブーツが視界に映っていた。
「、、、こんにちは、佐藤くん、藤崎くん」
義人はゆっくりと顔を上げる。
「こんにちは、菅原さん」
何を堪えるでもなく、彼はキリッとした顔をしていた。
菅原にまるで怯える事もなく、狼狽えもしない。藤崎は義人のその横顔を見つめて胸を撫で下ろし、一度目を閉じてから自分も菅原を見つめた。
(殺したい)
ブク、と藤崎の腹の底が熱く煮えたぎる。
本人では抑えられない程激しい怒りが、菅原の顔を見た瞬間に一気に喉元まで迫り上がってしまった。
「、、、」
左手に添えられていた藤崎の手が震えている。
義人はそれに気がつくと、先程藤崎が自分にしてくれたようにゆっくりと、彼の手の甲を撫でた。
「、、まず、」
藤崎に喋らせるのはまずい。
すぐにでも殴りかかりそうな彼の手の力の入り方に、義人は先手を打って声を発した。
「まず、きちんと謝って下さい」
義人の目は何色にも見えない。
ただ彼もまた、菅原を恐れてはいない。
怒っているのだ。
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