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第51話「縁切」
その言葉に驚いたのは大城だった。
子供、と思ってはいたが、姿勢を正し、表情は純粋なまま、あまりにもハッキリと義人はそう発した。
(ああ、この子。慌てるけど、でも、やっぱりきちんとした子だ)
言葉の重たさを理解した喋り方は大人さながらであって、この場で自分への謝罪をきちんと相手に要求している姿は実に冷静だった。
部屋の外の廊下を台車にいくつも段ボールを積んだ男が歩いていくのが見える。
「、、はい。今回の件は、本当に、詫びても詫びても消えないのは分かっているけれど、本当に、申し訳ございませんでした」
膝に両手を付き、少し疲れたような顔の菅原はソファに座ったまま深々と頭を下げた。
「生徒に手を出したことも、その、手の出し方も、藤崎くんへの侮辱も、佐藤くんに、、強要してしまった行為も、全部、本当に」
膝を掴む彼の手が、ガタガタを震え出している。
部屋の中央、テーブルの上の天井に備え付けられているシーリングライトに照らされた彼を見つめ、義人は震える身体が演技でないかどうかを注意深く観察した。
「本当に、申し訳ございません、、!」
ググ、と義人の手に爪を立てないようにしながらも、藤崎の手に限界まで力が込められた。
痛くはなかった。
ただ、今確実に、藤崎の心が一番痛いのだろうと義人は思った。
菅原は頭を下げたまま、自分の足元を見ている。藤崎の怒りに満ちた視線も、義人の曇りのない視線も全て、今の彼にとっては辛いものでしかなかった。
逃げたいと言う気持ちが湧いている。
ここにいる自分が完全に「悪者」と言う空気が辛い。
自分のせいと言うのは理解出来ていても、昨日やっと受け入れたばかりの自分の数々の罪の記憶にすら崩れ落ちそうになっていると言うのに、更に全身が痛んで口が乾き、吐き気がしている。
「これから、少しだけお話をさせて下さい」
演技ではないだろう、と義人は菅原を見つめて思った。
確証はなく勘でしかなかったが十分だった。
「、、、」
「それが終わったらすぐに帰ります」
突き離す訳でもない義人の対応に、菅原は不思議な感覚がしていた。
藤崎は手に力を込めるだけで抑え、表情は硬いものの、何とか平静を保っている。
義人が淡々と話す部屋の中で、彼自身どこかむず痒い空気を感じていた。藤崎なら話すにも重みがあって大人の空気にも馴染むだろうけれど、自分は果たして1人だけ子供っぽくなっていないかと不安になる。
だが、ここに来たいと言ったのも、菅原と会うと決めたのも自分自身だった。
(言って、帰ろう)
それだけを考えた。
(藤崎と帰って、いっぱい笑いたい)
頭を上げた目の前の男を見据えて、肩の力を抜いた。
藤崎が隣にいる今、義人の中からは怖いと言う感覚は消えていた。
(久遠がいるから、大丈夫)
そして優しく藤崎の手を握り返すと、菅原に少しだけ笑いかけた。
「うち、生粋の医者家系なんです」
話し始めのその言葉に、菅原は肩すかしを食らったように目を丸くして義人を見つめた。
てっきり、嫌味と説教をたっぷり言う為に来たのだと思っていたのだ。
(何で、)
自分に笑い掛ける義人に何かよく分からない焦燥感を覚えた。
責め立ててくれれば楽だったからだ。
訴えると言われても、それで裁かれてこの大事が終わると楽な解決法を求めていた。
義人はどうして自分が怖くないのだろうか。どうしてそこまで平静を保てるのだろうか、と疑問と恐ろしさすらある。
「話したことありましたよね。小さい頃から頭が悪かったから、テストとかあるたびに説教されて、復習が終わるまで夕飯食べれないとかよくありました」
義人の言葉を隣に座っている藤崎もしっかりと聞いていた。
医者家系である事。絵に描いたような真面目で厳しい父親がいる事。自分よりも出来の良い弟が今年医大に入った事は、義人自身から全て聞いた事があった。
そして彼らの話をするとき、決まって義人は困ったような表情を浮かべている。
毎度それが切なくて話を切ってしまうときすらあった。
「俺より出来の良い弟や従兄弟たちと勝手に競わされて、長男のくせにってよく言われて、疲れて、友達にはそう言うのが話せなくて、1人だなあってよく思ってました」
優しい力で手の甲を握る義人の顔へ視線を移すと、穏やかに話す彼の姿が目に入った。
(何を言うんだろう)
睫毛が長い。
緩やかに口角があがっている。
昨夜、あんなに苦しそうでずっと心配だった彼の姿はもうそこにはなく、本来の聡明で、けれど少し気の抜けた義人がしゃんと座っていた。
「その、、だから、少しは分かるんです」
菅原は魅入るように義人の言葉を聞いている。
「あ、勿論、完全に理解することはできないんですけど。でも、貴方の寂しさが、少しは分かるって、ことです」
「っ、、」
菅原の手が、びく、と小さく震えた。
「誰にも見てもらえない寂しさが俺にもありました。貴方がいつも無理にニコニコしてるの、何となくそう言うのがあるのかなーって。貴方が色んな人に手を出すのも、人の事を無理矢理、その、、そういう風にするのも」
困ったように笑う義人に菅原は唖然としている。
「誰かに見ててもらいたいんですよね」
言われたくない言葉だった。
グッと奥歯を噛み締めて、菅原の表情が歪んでいく。
義人達を睨むのではなく、苦しそうに悲しそうに、何かを思い出している顔だ。
『疲れませんか?』
あのときのあの言葉は、本当に菅原を見抜いて義人が発したものだったのだ。
「、、お、れ、、は、」
誰かに見ていて欲しかった。出来る事なら両親に。
胸に詰まった何かを吐き出すように、菅原は「ハア、」と苦しく息を漏らした。
義人はそれを見つめながら話を進める。
「寂しいって、病気になるんです」
「っ、、、」
「これが体に溜まってくると、頭がうまく回らなくなって、卑屈になったり意地悪になったりするんです。人の持ってるものが羨ましくて、欲しくて、でも手に入らないから焦るんです。そうして、間違えたことをする。焦っているから、間違えにも気が付かない。俺もそうでした」
脳裏にはうっすらと麻子の姿が浮かんでいた。
もう顔も思い出せない残り2人の元恋人もぼんやりと。
自分が言いたい事を整理しながら慎重に言葉を選んで話し、義人はそこまで言うと手を握っている藤崎の方へ向き、へにゃ、と気の抜けた笑顔を見せた。
「でも今は、藤崎がいてくれるから減りました」
「、、佐藤くん」
ぽつ、と小さく名前を呼ぶと、照れたように義人が笑う。
「毎日一緒にいて、一緒に生活に余裕を作ってくれるから、俺は心に余裕ができます。藤崎が見ててくれるから」
ニコ、と笑い合う2人を見て、尚更に菅原は胸が締め付けられる。
そうして、こちらを向いた義人の顔を見て、もう一度絶望した。
「あのとき貴方は俺のことが好きだと仰いましたが、俺は藤崎がいるから貴方の想いには応えられません。俺は藤崎といたいし、藤崎もそうです」
「ぁ、、」
「だから他の人に応えてもらって下さい。もう間違えないで、寂しさを溜めないで、きちんと考えて誰かのことを見つめて好きになって下さい」
例えあのとき自分が最後まで義人を犯していたとしても、その事実で義人と藤崎を引き裂く事は出来なかっただろうと菅原は分かってしまった。
場を満たす空気に2人だけのものがある。
邪魔ができない、入り込めない、そんな2人の絆に菅原は脱力した。
(分かってた、、入り込むとか、取って変わるとか、できないんだ)
「好きな人」と心で繋がった事がなくても、彼にも理解できるのだ。
男女でなくても、女同士でも男同士でも、性別がなくても、人と向き合って誠実に向き合えば、誰にも引き裂けない繋がりができるのだと。
それが「愛」なんだと。
「誰かと向き合うことから、もう逃げないで下さい」
心臓を掴まれたようだった。
「ッ、、ご、めんね、、ごめんね、、」
菅原はやはり、どうしようもなく義人を好きだと思った。
どこにいても藤崎を想う姿が羨ましい。
羨ましくて苦しくて、ボロボロと泣き出す菅原を少しの間だけ義人は見つめていた。
「ちゃんとするから、、本当にごめんね、」
顔を覆う両手の指の間から、涙がつたって彼の膝に落ちていく。
義人はドクドクと胸がうるさいのを感じながら、隣の藤崎の方へ向き直った。
「藤崎、俺は菅原さんの事を訴えない」
「、、、」
「俺達にした事をこのままずっと苦しんでもらう。法で裁いて終わりになんてしない。俺達のことが公になるのも、俺は嫌だ」
藤崎は無表情だったが、少し考えてからフウ、とため息をつき、義人に視線を戻してゆっくりと笑った。
菅原の事は相変わらず殺したい。その思いが今後、藤崎久遠の中から消える事はきっとないだろう。
「義人が決めたなら、そうしよう」
けれど何よりも被害者である義人の言葉を聞かないわけにもいかない。
自分が菅原に対して殺意を持っている事も見越した上で、自分を守りたいからこそ彼が「訴えない」と言う選択を取った。
藤崎としては納得いかない部分もあるけれど、義人は意思を曲げる気もないだろう。
「藤崎」
「うん」
「帰ろう」
法で裁いたとしても、この先何もせず菅原が昨日の事を思い出し続けたとしても、もう自分達には関係がないのだと義人は目で訴えていた。
何があっても2人の絆が揺らぐ事はない。
下らないものがいくら邪魔をしても、邪魔になんてならない程に想い合っているからと、その態度を見せつける為に義人はここに来たのだ。
「うん、帰ろうか」
ニコ、と藤崎が笑顔を返した。
「西宮さん、大城さん。今回の件、ご迷惑をお掛けしました。この話はこれで終わりにします」
義人は西宮を見つめ、大城を振り返ってから短くそれだけを伝えた。
スッと藤崎が立ち上がり手を差し出すと、彼はそれをしっかりと握り返してソファから腰を上げる。
「ここでお暇します」
「送るよ」
「いえ、電車で帰ります」
藤崎はニッと大城に笑って言った。
先程までの凄まじい怒りが嘘のように消えている。
菅原は泣き崩れてテーブルに突っ伏し、西宮は彼の背中をただ優しく何度も撫でた。
2人はそれを見る事もなく部屋の出入り口まで向かう。
大城が2人について部屋を出ようとしたとき、後ろからか細い声が響いた。
「ごめん、なさい、、ありがと、う」
「、、頑張って生きて下さい」
それが、義人と菅原が交わした最後の言葉だった。
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