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7. 38(さんじゅうはち)
この間見た時も手入れはしていなかったが、庭は雑草が伸びほうだいで、例の何も植えていないベランダの鉢植えも緑が濃くなっていた。
窓を閉めているのに蝉の声の音量は凄まじく、空の色と相まって、いかにも夏らしかった。
「素敵なお宅ですね」
俺が言うと、吉村さんは、はは、と笑った。
「素敵なわけあるか、こんなボロ家」
「部屋からこんな景色が見えるのは、素敵です」
「じゃあもう少しサボっていけば。俺は仕事部屋にいるから」
「いえ、それは。お仕事の邪魔になりますし」
書類を片付け始めた時に、
「南は、入社何年目なんだ」
と突然名前で呼ばれる。
「あ、転職して、二年です」
「転職した?」
「ええ。今の会社が二社目です」
吉村さんは、へえそうか、と言いながら立ち上がり、食卓の端のカゴから何か取って俺の前に置いた。
「これ、バスの時刻表」
文庫本ほどの大きさの白い厚紙に、黒のボールペンの数字が並んでいる。
定規を使って書いたらしい罫線は青で、手に取って裏を返すと、休日用らしく、赤い罫線で書かれた同じ形の表があった。
「すげえ、手書き」
「母親の形見。死んでから変わったとこだけ書き直してるから、注意して」
丁寧に書かれた小さな数字は、ところどころ、鉛筆で斜めに線を引かれて、書き換えられていた。
もう一度青い方の表を見て、胸ポケットのスマホを出して時間を確認する。
「ここからバス停まで、俺の足で七分だけど、お前ならもう少し早く行けるんじゃない」
玄関で靴を履き、それでは失礼します、と頭を下げると、
「お前、バイトしない?」
と唐突に吉村さんが言った。
「はっ?」
「草むしりのバイト」
その途端に吉村さんは咳き込み、おさまるのを待って俺が質問しようとするのを、手で制した。
「バス乗り遅れる」
「あ、はい」
「もしやってくれるなら助かる。二年目なら、まだ給料安いだろ?」
「まあ、はい」
「後から電話くれ、メールでもいい。行け」
さっき時間を見た時、次のバスまで九分あったが、それを逃すと日陰のないバス停で十五分待つことになる。
俺はもう一度頭を下げて、玄関を出た。
慌てて小さな門を閉めると、そのサイズに不似合いな耳障りな音が響いた。
「それも、油を差そうと思って、全然やってねえんだよ」
白いドアから顔を出した吉村さんが、また咳き込みそうになりながら言った。
「ご連絡します。失礼します」
「転ぶなよ」
三時三十八分のバスに間に合った。
止まらない汗を拭きながら、彼との会話を反芻する。また会える道筋が出来そうだと思うと、自然に口元が緩んでくる。
駅に近づくにつれ、人も車も多くなった。
窓の外の家族連れやカップルが、太陽の光に顔をしかめて歩くのを眺めながら、俺は柔らかな太い鉛筆で書かれた38という数字を思い出していた。
吉村さんと同じで、現実から少しだけはみ出したような違和感があるその字を心の中で眺めて、バスがなかなか進まないことも気にならなかった。
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