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8. 草刈り

吉村さんの家に続く最後の砂利道と石段を見上げて、いったん呼吸を整える。石段の上に誰かいる、と思ったが光の加減だったようで、俺は息を吐き、坂を登った。 吉村さんの家の手前で、もう一度石段を見上げる。木の枝の大きな影がてっぺんの古びた木戸に映って、人の影のように見えた。 白茶けた木戸はあちこちひび割れて、地面に近い部分は苔なのか、緑がかった汚れに覆われていた。全体が少し傾いて、今にも朽ち果てそうだ。 玄関先でリュックを下ろし、 「吉村さん、まず門をやっちゃっていいですか?」 と聞くと、黒いTシャツを着た吉村さんは腕組みを解いて、 「何をやるって?」 と欠伸まじりの声を出した。 俺はリュックからレジ袋を取り出し、家から持ってきたスプレー缶を見せた。吉村さんは目を見張り、俺がさらに軍手を取り出すのを見て笑い出した。 「何だお前、そこまで考えてくれたの」 「仕事ですから」 「そのスプレーくらいは、うちにあったのに」 「探すことになるかと思いまして」 「よくわかってんなあ」 錆び付いた門の様子を確かめて、スプレーに長いノズルを取り付けていると、吉村さんが爪先に靴を引っかけ、ぱたぱたと音をさせて出てきた。 「蒸し暑いな」 「陽射しがなくて楽ですよ」 曇り空の日で、朝早いせいか、蝉の声も控えめだった。                 ・ 大きな雨粒がぽつん、ぽつんと落ちたと思う間もなく、ざあっと降り始めた。がらがらとベランダのサッシが開いて、「入れ」と吉村さんが顔を出した。ついさっき電話をかけると言って、中に戻ったのだ。 「玄関回ります」 「ここからでいい」 「汚すので。大丈夫ですよ、片付けてすぐ行きます」 刈った草をとりあえず二つの袋に詰め込んで、玄関に近い軒下まで運んだ。袋は全部で四つになったが、庭は意外に広く、家の裏にはまだ手をつけていなかった。 真っ黒になった軍手を片方だけはずしてドアを開けると、吉村さんがタオルを持って立っていた。 「足だけ拭いて、風呂行け」 「あー、すみません……今日降るって言ってなかったですよね」 濡れた靴下がなかなか脱げなかった。吉村さんが突っ立っているのに気づいて、俺は慌ててタオルに手を伸ばした。 「すみません」 「別に汚していいから。適当に上がれよ」 吉村さんはリビングに戻っていく。 この家は、リビングに二つドアがあり、トイレにも二つドアがあった。 廊下からトイレに入り、反対側のドアを開くと洗面所で、さっきスウェットに着替えた時のまま、俺の荷物が置いてある。その奥が小さな風呂場だった。 知らない場所で裸になるのは、妙な気分だ。 シャワーの栓をひねって、湯の温度が上がるのを待ちながら、窓を覗く。 網戸越しに冷たい雨が吹き込み、ぽつぽつと頬に当たった。庭に生い茂る灌木が、明るい黄緑の葉を一斉に揺らしていた。 すりガラスの扉の向こうに吉村さんが現れ、「タオルと下着置いとく」と言って、すぐに出て行った。 大きなグラスに注がれた麦茶を飲んで、俺は吉村さんとようやく顔を見合わせる。 「ご苦労さま。えらい目にあったな」 「止むんですかね」 雨は一層強まって、声が聞き取りづらいほどだ。俺のアパートも大概ボロいが、木造の一軒家は音の響き方が違う。 食卓の上に吊るされたランプシェードが、細く開けた窓から入る風で動いて、吉村さんの顔に映る影の様子が変わる。 彼が微笑むので、見つめ過ぎたことに気づいた。 「南が、草刈りに慣れてて意外だった」 「子どもの頃、近所の手伝いでやってましたけど、久しぶりですよ」 「体力あるし。なんか運動してる?」 「学生時代は水泳です。今はジム行くぐらいです」 次の連休に晴れたら、また草刈りしに来ます、と申し出ると、暑いし、そのあたりは渋滞でバスが動かなくなる、と吉村さんは考え込み、お前泊まりがけで来るか?と言い出した。 「前の日に、何でも好きなもの食わせるよ。で、うちに泊まって早朝に片付ける」 「お邪魔じゃないですか」 「別に。ただ、朝四時起きとかでやらないと暑くなるからな。早起きできる?」 「します」 だいぶ後になって、あの時、本当に草刈りする気はあったのかと聞くと、よく覚えてない、とはぐらかされた。

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