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13. 竹の庭
二週間ぶりに会う約束をした日、涼しかったので、駅から吉村さんの家まで歩いて向かうことにした。
信号待ちの間に、車が通らない道がある、という吉村さんの言葉を思い出した。地図を見るためにスマホを出すと、吉村さんから、
—今どこ?
というメッセージが入っていた。
—駅から歩こうと思って、歩き出したところです。
—わるいけど、急に人が来ることになった。ゆっくり歩いてきてくれますか。
—連絡いただくまで、行かない方がいいですか?
—すぐ終わるんでまた連絡します。ごめん。
地図で、二車線の道路沿いに細い道があるのを確認した。いつもバスで通る道を途中で外れると、細い道は小さな川沿いに続いていた。
たまにすれ違う人や自転車で追い越していく人は、皆地元の人のようだ。薄曇りで涼しかったはずが、歩くうちに汗が滲んできた。
お屋敷と言いたくなるような敷地の広い家も、門柱にカフェの看板を立てかけた普通の住宅も、道沿いに大小の庭がある。
丁寧に刈り込まれた木や塀の前のプランターに咲く花が目に入ると、胸がざわついた。
吉村さんの家の草刈りが中途半端で終わったのが、ずっと後ろめたい。
あらためてやります、と申し出ればいいわけで、今度はそうしようと決めていても、いざ家に行くと次でいいか、と思う。
俺は、あの人と寝てること自体に、ちょっと罪悪感があるんだな。何故か。
そのうち、吉村さんの家に続く緩やかな坂に突き当たった。坂の途中に、お寺がある。何人かが山門の手前でスマホを掲げて、写真を撮っていた。
俺の横で、バス停の方から歩いてきた人が大きなカメラを構えたので、数歩離れてスマホを取り出した。まだ彼から連絡はない。
撮影が一段落するのを待って、寺の山門をくぐった。
立て看板に書かれた説明を読んで、石畳の道を進む。観光客がところどころで立ち止まって、花や灯篭の写真を撮っていた。
本堂の奥に庭があるらしい。小さな受付の前に、リュックサックを担いだ人達が大勢群がっていた。
砂利を踏んで、本堂から少し離れた立派な鐘を見上げていると、電話がかかってきた。
−もう来てくれていいよ。今どこだ。
「今、お寺です」
−どこの寺?
「吉村さんち行く手前の」
−ああ。もしかして、庭見てる?
「いいえ、混んでて」
−そこ、庭以外見るもんないだろう。待たせて悪かった。
山門に戻る途中の駐車場を通り抜けて、外の道に出た。歩き始めてすぐに、坂を下ってくる男に気づいた。
宮田圭悟だった。
黒のパーカーにジーンズでごつい靴を履き、手ぶらでこっちに歩いてくる彼を俺はじっと見てしまい、すれ違いざま、彼は俺に笑いかけて軽く頭を下げた。俺も反射的に会釈した。
しばらくして振り返り、その背中を確かめる。
玄関の鍵はかかっていなかった。最近、開けておいてくれる。
リビングに吉村さんがいないので、台所に続く緑のドアをノックした。
「吉村さん」
「おお」
ドアを開けると、流し台に向かった吉村さんが振り向いた。
「すぐ行くから」
コップを水切りかごに伏せて、また何か洗い始めるのを、俺はそのまま見ていた。
「お客さんって、宮田さんでした?」
彼は、お、と言って横顔を見せた。
「会った?」
「すれ違いました」
「急に連絡あって、すぐ近くまで来てたから。ごめん」
吉村さんは水を止め、レバーがぎゅいっと変な音を立てた。
「これも寿命か」
「宮田さん、ナマで見ても、すげえかっこいい人ですね」
脇に置いた布巾を掴んで、吉村さんは俺の方に向き直った。
土曜日の午前中に訪ねると、彼はいつも起きたばかりという顔をして、うっそりと仕事部屋から出てくる。
今日は、さっきまで宮田がいたわけで、寝起きという顔ではなかった。
そして、どこかいつもと違う様子だった。
「大丈夫ですか」
「何が?」
吉村さんは笑顔を見せた。
「お前、よくそれ聞くなあ。俺が大丈夫かって」
布巾を置いた手を握ると、湿って冷たい。
そのまま手を引っ張っていってソファーに押し倒しても、彼は何も言わなかった。
午後になってから食事に出かけて、帰りにさっきの山門の前で吉村さんが立ち止まった。
「南、ここの庭見たことない?」
「ないです」
「行ってみる?」
さっきと打って変わって、人があまりいなかった。
「静かですね」
「駅から離れてるから、皆、朝のうちに来る」
庭に入って、竹林の中の細い道で、戻る人たちと何度かすれ違った。
庭のいちばん奥に小さな休憩所があり、引換券の番号を呼ばれて取りに行くと、抹茶茶碗が二つ乗ったお盆を渡された。
「こういうの初めてです」
「お抹茶?」
「はい。こういう器に入ったの、飲んだことない」
竹林と、その向こうの大きな庭が見渡せるカウンター席だった。
横に座った吉村さんが両手で茶碗を持ち上げるのを真似して飲んでみる。軽い泡が口の中に流れ込む。思ったほど苦くはなかった。
「顎が変」
しばらくして、吉村さんが呟いた。肘をついた右手で口元から耳を覆っている。
大丈夫ですか、と聞こうとして、目が合った。
この人の目つきは常に意味ありげなので、意図するところを読み取るのは難しかった。おそらく、俺が読み取ろうとするほどは、本人は何かを伝えようとしていないことが多いのだ。でも、今は明確に伝わった。
さっきソファーに座って、床に跪いた彼の口に突っ込んでいた時間が、いつもよりだいぶ長かった。初めてその体勢になったので興奮したのと、宮田圭悟の件と、いろいろあって。
「すみません」
「たまに乱暴だな」
吉村さんは横目で俺を睨んだまま、囁いた。
かすかな風に竹が一斉に揺れて、ざわざわと音を立てた。白っぽい竹の葉が、何枚も苔むした緑色の地面に落ちてくる。
「たまに乱暴にされるのが好きでしょう」
吉村さんは無言のまま俺を見ていたが、目元が赤くなった。
「自覚なかったですか」
「……自覚も何も」
「でも、今日は俺が悪かったです」
彼は大きく息を吐いて、肘をつく手を変えた。
斜め後ろに座った客の話し声がうるさくなり、俺はきれいな紙にのった干菓子を指でつまんで口に入れた。
吉村さんは自分の分を紙ごと持ち上げて、一つ残った俺の干菓子の横にころころと二つ転がした。
「これまで、ほぼ一人しかいなかったから」
「え」
吉村さんは竹林の向こうの庭を見たまま、両手の指を組み合わせてカウンターに置いた。
「俺は友達があんまりいなくて、そいつに会うまでは、誰かとずっと喋るとか、休みの日に一緒にどっか遊びに行くとか、なかった。そいつとは、ずっと一緒にいて、楽しかった。俺にないものを持ってた」
「で、付き合ったんですか?」
我慢できずに口を挟むと、彼はふっと息を吐いて笑った。
「違う。違うが、俺はそう思った。相手は違った」
「セックスはしたってことですか」
「……何か言ったこともないし、そいつにとっては、友情の延長線上にあったんだろうと思うよ。聞いたことないけど」
延長線上にあってたまるか、と俺は心の中で呟く。
「そいつは結婚した」
ことさら明るい調子で、吉村さんは続けた。
「その後、アプリ使って何人かとやったけど、自分が何したいか、さっぱりわかんなかった」
俺の顔を見た吉村さんは、
「今じゃない」
と付け加えた。
「今じゃないのは知ってますが、そういう問題ですか」
「……俺は自分のことはよくわからない」
彼の仕草は、俺の目には時々スローモーションのように映った。風で頬に髪がかかって一瞬瞼を閉じて、もう一度俺を見た時の顔つきを、俺はその後何度も思い出した。
「だから、お前の好きにしていいよ」
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