3 / 5

3

 ○ 「え、アンタいつの間に子供こさえたの?」 「どう見ても俺の子の年頃じゃねえだろ勘弁しろ」  帰宅して早々、祭がリビングのミハを見るなりツッこんだ。何かしら言われるだろうことは織り込み済みだったにしても、さすがにぶっ飛びすぎている。  居間のソファで新しいメガネのフレームを触っていたミハが、祭を一瞥したのち「コンニチハ」と日本式の会釈をした。えらい。褒めてやりたいのをこらえず言う。 「えらいぞミハ、こんなぶっ飛び女相手にちゃんと挨拶できてえらい」 「ぶっ飛び女って、アンタ自分の彼女によく言えるなそれ」 「うっせー自分で言うなだし事実祭はぶっ飛んでる」 「マジ失礼極まりねえ」  口には出したが、祭は綺麗な顔立ちをしているし、明るい髪色のショートボブだって似合っているし、服装だって奇抜ではない。ないけど、ぶっ飛んでる。なんかどっかこうぶっ飛んでる。 「いいから部屋行くぞもう」 「いや誰? 隠し子?」 「ちげーて」  せまい廊下を押し合いへし合い、俺の部屋の前までバックする。ミハが気になって仕方ない様子の祭を部屋に突っ込んでから、 「ミハ」  その場で居間に声を投げた。とりなすような声になってしまって、なんだかいたたまれない。 「気にしなくていいから。フツーにしてて」  こちらを覗き込んだミハに微笑みつつ、いよいよ祭に押し負けそうだったので強引に部屋へと入った。なんで男の俺と力の差がほとんどないんだよ。 〜本日、これまでのあらすじ〜  いやあらすじも何も、今日も今日とてレポートをするのに春休み中の大学に行って、午前いっぱい図書館で資料集めて、切り上げて帰る頃に祭からライン入ったから待ち合わせして、軽く茶ぁしばいて、ウチ来るっつうから連れてきて、イマココみたいな。平凡すぎてあらすじにもならない。 「あれ、誰?」  胸元からくぐもった声が聞こえて、弟、とあっさり答える。うそこけ。祭の顔が「もーちょいマシなウソつきやがれ」と罵っている。 「もーちょいマシなウソつきやがれ」 「顔だけじゃなかった」 「何がだ」  あまり訊かれても返答に困るので口を塞がせてもらう。ベッドの上、抱えたショートボブの向こうに空が見える。この部屋は大きい窓がないので、小さく切り抜かれた曇天さえもが少しまぶしい。  もろもろ済んだあと、祭が再び重たそうに口を開いた。 「あの子、外人?」 「んー、半分」 「ハーフ? っつうかどこの子?」 「俺もよく知らん」  答えながら、そういや俺ミハのことほとんど何も知らないままだなと今更のように思った。知らないままでも別にいいけど、こんなふうに客が来たときの返答には少し困る。 「なるほど、ハーフなら納得。すんごい美形だったし。中学生?」 「十六歳」  まだぼうっとする頭のまま訊かれる声に反応する。 「親戚? アンタハーフの親戚なんていたの?」 「親戚っていうか、んーまあ、親戚か? うん」  それ以外に答えようもなくて、くり返す。祭は釈然としない面持ちで、仕方なさそうに「ふうん」と言った。 「シーカ、シャワー借りたい」 「いいけど服着て部屋出て」 「えー、べたべたする〜」 「ミハにばったり会ったら困るだろ、ミハが」 「そこはあたしがじゃないんかい」  不服そうに立ち上がると、祭は自分のではなく俺のシャツを羽織って部屋を出た。勝手知ったる足取りで部屋を出ていく背中を、やれやれと見送って。  その直後からの、記憶がない。  次に目を開けたとき、時計の針はきっかり三時間分進んでいた。 「……………………」  五時半過ぎ。床に散らばっていた祭の抜け殻とバッグがなくなっている。  よろりと体を起こして居間に足を向けると、ミハは変わらずソファの上にいた。今はメガネではなくて、本を一冊膝の上で開いている。イラッシャイ、マセ。記号をなぞるみたいな発音で、ミハが口を動かしていた。ナニカ、オサガシデスカ?ささめく声とそう変わらない音量で、ミハのスマホからは俺の知らない曲が流れている。ミハが口ずさむ歌もたまに聴いている歌も大抵は英語で、時折耳にするそれらが俺の知っている曲だったことはまだ一度もない。部屋をほんのりとあたためるエアコンの機動音に、ともすれば掻き消えそうなほどの音量で、静かなメロディが部屋の壁へと吸い込まれてゆく。部屋の薄闇に溶けそうな、黒い髪と白い肌。顔の上のメガネの輪郭だけが、ミハの姿をこの場に繋いでいるみたいに見えた。  あれ、誰?  祭はそう訊いた。そんなの俺にもわからない。  ただ、この埃っぽい東京の隅っこの暗がりで、一人どこか遠い国の歌を口ずさむ横顔を、  なぜだろう。このままとじこめておきたい、なんて、ふいに思って。 「ミハ」  けれどそんなの、きっとお前のためにはならないんだろう。  俺の声にゆるく顔を上げたミハに、ごめん、と俺は苦笑した。 「気、つかわせたか?」  言葉を一拍置いて咀嚼したらしいミハが、居間の入口に立ったままの俺を仰いで首を横に振る。 「サッキ、かえった」  帰ったというのは祭のことだろう。サッキ、か。もっと前に帰ったと思っていたので少し意外だった。 「しゃべった?」 「スコシ」 「そっか」  何を、と訊く代わりに。ミハ。俺はもう一度名前を呼んだ。本名なのか仮名なのかさえわからない名前を。 「明日、榎本んちで三時から、な」  世の中のすべてに背を向けて一人闇の中にいるみたいな顔をしている、まだ十六歳のミハ。頷くつむじを見つめて思う。  俺は、やっぱさ。お前をここに閉じ込めておきたくなんか、ねえや。  榎本の実家の古書店が店舗を閉めると聞いたとき。なぜか真っ先に浮かんだのがミハの顔だった。  まだ日本語の覚束ないミハに、言葉の集合体たる本の販売など任せるのは無謀だと、自分でも思った。思ったけど、昼も夜もなくこの狭い家の中で、目に見えないネット回線だけで世界とささやかに繋がっているだけのこの少年を。どうにか外の空気に触れさせてやりたいと願ってしまった。ここでずっと、かくまうみたいにしてやりたいのと同じくらいに。  もちろん強制ではないと、最初に説明した。榎本の話では、古書店の売上の九割は固定客の注文分とネットショップでの受注から得られているという。店舗での売上はゼロという日も珍しくない、というより、誰一人来客のない日もあるだとか。だから閉店してしまってもいいのだが、ごく少数とはいえ店舗にも常連客がいるという。彼らはほとんどがインターネットに縁のない年配層なので、そのあたりが簡単に店舗を手放せずにいた理由なのだそうだ。何年も絆を育んできた常連客のさびしげな表情を見て喜ぶ経営者などそういないだろうし、少なくとも榎本の父親はそういう人間ではない。何度か会ったことがあるが、本当にいい親父さんなのだ。うちの耕三に爪の垢煎じて一気飲みさせてやりたいくらいだ。  俺が努めてさらっと提案したアルバイトに、ミハは最初、どう答えたらいいかわからないようだった。「妙なことを言い出した」なんて思われていたかもしれない。けれど、ミハにとって俺が妙だろうがそうでなかろうが、この家での生活しか知らない今のまま春を迎えるミハを思うと、提案せずにいられなかった。  ミハは、頭がいい。この二ヶ月くらいで、日本語にもだいぶ馴染んできたように思う。使える語彙は少なくとも、そういうのってほら、テキストよりまず日常の中から覚えていくことじゃん。  たぶん俺はミハに対して、もっと外の世界に触れてほしいと思っているんだろう。そしてミハなら、ミハらしく、うまくやれるような気がしている。根拠はないけど、俺の勘はなかなかよく当たるのだ。  ウチに祭が来た翌日。春休みの末の、よく晴れた午後だった。主に榎本家と俺の都合をみて、軽い面談という形で、俺はミハと一緒に榎本家へと足を運んだ。 「え、そんじゃミハくん、今は斎の家に住んでんの?」  通されたのは店舗奥の茶の間だった。榎本の問いに、どうやら言葉を把握できたらしいミハが頷く。 「へー、お前ハーフの親戚なんていたんだな〜」 「遠縁だけどな」  適当にはぐらかしながら、俺は榎本の淹れてくれたコーヒーカップの取手を掴む。ミハの事情は、うっすらと伝えてある。同居しているということは伏せるかとも思ったけれど、すでに祭が目撃しているのだから今更かと開き直った。  十六歳だっけ? ミハに興味深そうに質問する榎本の声を聞き流しつつ、テーブルの上のシュガーポットの蓋を開ける。コイツ、勢い余ってミハに訊かなくてもいいこと根掘り葉掘り訊かなきゃいいけど。「俺もよく知らないけど、家庭がやや複雑らしい」とだけは事前にほのめかしたが、もう少し念押ししておくべきだったか。こうなればもう榎本の人間性を信じるほかない。腹を括りつつもやっぱりどこかそわそわしながら、コーヒーミルクのカップを開く。 「まあ少なくとも、舌は斎より大人だな。ブラックで飲んでるし」  別の方向から飛んできた矢に、俺は思わずコーヒーを噎せた。 「なッ、いいだろ別に! 砂糖とミルク入れたって!」 「いいけどもうそれ、コーヒーっつうよりカフェオレだよな。いつも思うけど」  ブラックコーヒーは苦くて飲めない。あんなの飲み物じゃない。しかし俺の隣で、その黒い液体をミハはするする飲んでいる。ちなみにミハは熱いものも平気で飲み食いできるとんでもない舌の持ち主でもある。生粋の猫舌からすれば到底真似できない。  主に俺がギャアギャア騒いでいるうちに、榎本の親父さんが奥から出てきた。 「おう、来たか。待たせて悪かったな」  いかにも江戸っ子気質の親父さんがどうして本屋の仕事を選んだのか、俺はよく知らない。どちらかというと八百屋の方が性に合っていそうに見える。 「斎くんだったか? 久しぶりだなあ」 「ご無沙汰してます。今日はありがとうございます」 「いやいやそう固くなんなって。で、そっちが噂の、なんつったっけ? みはくん?」  立ちあがってペコリと頭を下げた俺に倣って、ミハも日本式の挨拶をする。 「ハジメまして、エノモトさん」 「おうおう、よく来たな。座んな座んな、煎餅食うか?」  親父さんは年季の入った戸棚の中から、銀色の缶に収まった醤油煎餅を取り出した。卓袱台の上に缶ごと置いてばらばらと四枚引き抜くと、俺とミハの前に二枚ずつ出してくれた。 「ありがとうございます。いただきます」 「イタダキマス」 「へえ、日本語結構話せるんだな。帰国子女だっつうからもっと英語混じりかと思ってたぞ」 「シーカと、シーカのおとうさん、おしえてくれました」 「そうかそうか、頑張ってんなあ」  おおらかに頷く親父さんに、ミハが一通の封筒を差し出した。おう、と親父さんはそれを受け取り、その場で封を切る。中に入っているのは履歴書だ。おとといの晩に耕三が書くのを手伝ったらしい。俺はバイトでいなかったから内容は見ていない。  親父さんはしばらく、手の中の履歴書に黙って目線を落としていた。ミハの、経歴。俺もよく知らない。気にならないと言ったら嘘になるけど、暴き立てる真似はしないと決めていた。親父さんの隣に座る榎本も、履歴書を覗き見るようなことはしなかった。こいつのこういうところを信用している。人には、一言二言で片付けられない事情というものが案外あるものだ。俺にさえ多少とはいえあるんだから、ミハの事情は恐らく、それこそ履歴書一枚なんかじゃ足りないんだろう。  親父さんはそれでも、長い時間をかけてそれに目を通した。ミハはまだ、ひらがなとカタカナしか書けない。簡単な単語の他は、発音と字を当てはめながら、ようやく少しずつ短文が書けるようになってきたところだ。それでも、履歴書の文面は自分で考えていたと、昨日耕三から聞いた。耕三が手伝ったのは、誤字を訂正するだとか、うまく文章にできないところを直すだとか、せいぜいそれくらいだったと。 『まあ、面接受けるきっかけはお前からの提案だったにしてもさ。ミハくんはたぶん、変わろうとしてるよ』  接客用語のテキストも、自分で駅前の書店まで赴いて買ってきたという。別に、ミハのことを根の深い引きこもりだと思っていたわけではない。ないけれど。  あいつが自分から世界と関わろうとしているその姿を、見ていてやれるのが嬉しい──そんな風に言ったら、少し大袈裟だろうか。 「…………うん、ありがとな。よくわかった」  やがて履歴書から顔を上げた親父さんは、とても穏やかな目をして言った。 「日本語を使うのが不安なのは、まあ当然だわな。しばらくはオレか、息子のコイツ、竜也が必ず脇につく。だからそんなに心配しなくていいよ」  その言葉で、ミハが面接にあっさり通ったことがわかって、俺とミハは思わず顔を見合わせた。俺の方はたぶん喜色満面だっと思うけれど、反するミハは困惑しているみたいだった。 「エノ、モト、サン」 「なんだい?」 「……ほんとうに、ヨイ、ですか?」 「ああ。ミハくんみたいな、努力家の真面目な人が来てくれるんなら大歓迎だ」  迂闊にも、俺の方がその言葉にグッときてしまった。咄嗟にカフェオレと化したコーヒーをすすってごまかす。 「読み書きだの発音だのは、これから少しずつ慣れていけばいい。ウチのお客さんは基本常連ばかりだし、オレの昔馴染みみたいなもんだ。そんなに不安にならなくていいよ」  想像以上のとんとん拍子で話が進み、ミハは翌週の月曜から試しに働いてみることになった。玄関先で榎本親子に見送られて、俺もミハもどこか浮き足立ったまま帰路につく。 「ミハ」  ふいに、思いついたまま俺は隣を歩くミハに声をかけた。 「晩メシ、なんか食いたいのある?」 「Dinner?」 「そ。今日はお祝い。お前の就職祝いだ」  にかりと笑ってミハを振り返る。まだ十六歳のミハの黒い瞳が、三月の日暮れの茜色を受けてかすかにきらめいた。 「シュー、ショク、イワイ?」 「そ。働く先が決まったから、おめでとうパーティーするってこと」 「Party」 「つってもメンバーは俺とお前と耕三だけだけどな。でもたまにはいいだろ、今日は俺の奢り!」 「No」 「ノーじゃねえよ遠慮すんな、寿司でも行くか? ああでもミハ寿司食えんのかな」  ミハの面接結果を俺からのラインで知った耕三は、いつも以上に早々と帰宅して、玄関を通過するなり全開の笑顔でミハを抱き上げた。万年運動不足の割にガタイだけはいいからミハは軽々持ち上がる。高い高いをされて、ひどく動揺していたように見えた。  ミハが俺に迫られて決めたメニューはラーメンだった。至極普通のものがいいと言ったから三人で連れ立って斎家ご用達の鄙びた町中華に行った。ラーメンと餃子のほかに俺と耕三はビールを、ミハは初めて飲むというクリームソーダを(ほとんど耕三のゴリ押しで)頼んだけれど、あまり美味しそうではなかった。反対に、ラーメンは口に合ったようだった。胡椒をわさわさ振って食っていたので、どうやら顔に似合わず辛党らしい。成人して一緒に飲んだらいい飲みっぷりが見れるのだろうかと思い、こいつが成人するまで、俺たちはこのまま、この生活のままでいられるのだろうかと気づき、いられたらいいと、まだ浮かんだみたいな気持ちで思った。  春の夜、ミハの門出にささやかな祝杯を傾ける年季の入ったテーブル席。向かいの席で耕三の笑顔と、隣で少し戸惑ったように俯くミハの横顔。四月の足音がすぐそこまで聞こえてきている。 「別れよ」  新年度が始まって早々に、祭からそう切り出された。桜の散る学食のそばのカフェテリアはそこそこ盛況で、友人、あるいはサークルのメンバー同士が集まって歓談している。カップルの姿も少なくないが、おそらくこんな朗らかな春の午後、別れ話なんてしているのはこの卓だけだろう。 「急だな」 「急に思いついたから」 「思いつきで別れ話か」 「そもそも付き合いはじめも完全にノリだったじゃん」 「否めねえ」  ちょうど一年ほど前、学部同期の飲み会の帰りに「ねえシーカ付き合お〜」と、それこそ「ちょっとそこのコンビニ寄ってこ〜」と同じノリで言われた。おーいいぞと俺はあっさり頷いて、しかし二人とも実家暮らしのものだから、とりあえずテンション通りに近くにあったコンビニに立ち寄って、へらへらどうでもいい話をしながら通りすがりの公園に歩を向けて、茂みに隠れて一発かました、というニュートラルのすぎる始まりだった。 「まあ、いいけど。なんか不満あった?」 「べつにー。なんとなく」  祭が「なんとなく」と言うのは、つまり本当に理由がなくて「なんとなく」と返しているだけだということを、俺はすでに知っている。そう、こんなんでも案外、阿吽の効く二人だったのだ。だから別れ話を切り出されたのは少し意外で、でもまあ、そうでもなかった。ニュートラルな俺と祭らしい終わりに思えないでもない。未練も何もなく頷く俺に、だから祭も反論なく頷くだけだ。 「お前、結局俺のどこが好きだったの?」 「んー、顔」 「顔」 「顔だけはまあまあいいし」  そりゃどーも。深刻になれるほど互いへの依存心がない二人なのだから、今後の方針が決まればあとはいつもと何ら変わらない。俺が祭を好ましく思う理由の一つ。 「アンタさあ」 「ん?」 「あの子、ちゃんと見ててやんなよ?」  あの子? どの子だと思わず周囲を見回す俺に、ココにはいねーよと祭はどこか呆れた目をしてツっこんだ。 「あの子。ミハくん」 「は? なんでこの話の流れでミハ出てくんの」 「いーから。覚えとけ」  いつになく真剣な眼差しに見えたが、単に眠いだけなのかもしれない。細めた目のまま祭は言う。 「別に、弟でも親戚でもなんでもいいけど。とにかくちゃんと、見ててやんな」 「お前、ミハの何知ってんだよ……」 「お前ほど詳しくはないけど、お前より気づけてるトコは多い自信ある」 「なんだその謎の自信は」 「あるっつったらあんだよ」  ドン、と丸テーブルに拳をひとつ置いて祭は言う。どこの居酒屋のオッサンだ。 「よくんかんねーけど、まあわかったよ。その助言は別れる彼女の形見として受け取っとく」 「勝手に殺すなし」  ふと広場の柱時計に目をやると、そろそろ教室に向かわないと次の講義に間に合わない時間だった。冷めたカフェオレ(祭はブラックコーヒー)を一気に煽りながら立ち上がる。 「ところでシーカ、石津先生の課題終わった?」 「あれ月末までだろ? まだ」 「知らねえのかお前、月末なんて豪速球で飛んでくんだぞ?」 「否めねえ」  たった一言で俺たちは阿吽の恋人になったし、気の合う友達に戻った。戻れた。  それがいいことなのかは、自分でもよくわからない。    ● “シーカと別れたよ〜”  新着通知に流れてきた一文に、どう返したらいいのか迷った。  「シーカ」というのは詩歌のことで、「別れた」というのは、このニュアンスだと破局という意味合いで合っているのだろう。既読がつかないよう通知のバナーからのみその知らせを受け取って、けれど返事が思いつかない。どうして別れたのか、それをなぜ僕に報告するのか、そこからして検討がつかないのだから当然だ。  とりあえず出かける準備をしなければと、椅子から立ち上がる。耕三のPCであれこれ試すのは想像していた以上に楽しくて、こんなふうに、耕三も詩歌もいない日中には、うっかり没入しすぎてしまう。結局のところ、歌には抗えないのだとこんなときに気づく。どれだけ痛くても苦しくてもこの目を潰してしまいたいほどつらくても、足掻きの最後に僕が求めるのは歌なのだ。それはもう、どうにも否定のしようがない。  返事は仕事が終わってからまた考えようと思って、一度スマートフォンを居間のテーブルの上に置いた。日比野祭からの連絡はいつも突飛で簡潔で心情が読み取れない。そして今日もそれは変わらない。そもそも文面でなくとも、彼女が何を考えているのか僕にはいまひとつ推し量れなかった。それこそ、最初に話をした日からずっと。 『ねえねえキミ、シーカの弟なの?』  あの日、浴室から出てきた祭さんは、ソファの上で本を広げていた僕にそう声をかけた。乾ききっていない髪先からひとつ、雫がほたりとこぼれ落ちる。そういったしどけなさの、ひどく似合わない人だった。雨より快晴の似合いそうな女性だった。  詩歌の恋人なのだろうことはもう言われるまでもなかったけれど、詩歌が僕のことをどう説明したのかはわからない。でも、弟とは言わなかっただろう。彼は誠実なひとだから。 『シン、セキ、です』 『あたし、祭っていうの。よろしくね』 『ヨロシク、おねがいシマス』 『スマホ持ってる?』  すまほ、というのは日本におけるスマートフォンの略称であるということはもう知っていた。僕が小さく頷くと、ライン交換しよ、と言って、あっさりソファの空いたスペースに座った。応じるべきか断るべきか迷ったものの、詩歌の大切な人ならば丁重に扱うべきだと素直に思った。少なくとも、悪人ではないだろう。いきさつは知らないとはいえ、詩歌の選んだひとなのだから。 『わ、文面英語!? すげ〜、ハーフすげえ〜』  僕のアイフォンの液晶を見た祭さんが声を上げる。そういえば、詩歌は何をしているんだろう。雰囲気から察するに恐らく事の後、ということは、 『しいか、ねむっていますか?』 『イエスイエスねてますねてます』  彼女の思惑がわからない分、どう反応するべきか少し迷う。けれど僕の迷いなど一切意に介さない様子で、祭さんは僕の携帯電話を手に取ると、あっさりアカウントを交換し終えた。 『ねえ、これなんて読むの? みは?』  僕のアイコンの下に綴られた「miha」の一行を見て祭さんは訊き、僕は頷いた。 『みはくん? かわいい名前してんねあんた。本名?』 『ホン、ミョ?』 『えーと、ホントの名前?』  そう問われて、返事に窮する。世の中に、「本当じゃない名前」なんて、あるいは「本当の名前」なんて、果たして存在するんだろうか。 『……うそ、とは、ちがいます』  偽名のようなものだけれど、偽名ではない、つもりでいる。僕自身だけが。 『ホントウ、か、チガウか、は……“ボク”が、ホントウ、かチガウか、も、ボクは、わかりません』  通じそうにないけれど、少ない語彙を振り絞った。僕が今「何者か」なんて、僕自身が一番わからない。この、生家でもない「誰か」の家で、ただただ呆然と息をするだけの僕は、「何者」なんだろう。  何ひとつだって判然としないはずなのに。それなのに詩歌はそんな僕に、「働いてみないか」と声をかけてくれた。  うまく日本語にして伝えられない僕の顔を、祭さんはしばらくじっと見つめていた。ためらいのない視線なのに、なぜか不快感は覚えなかった。太陽に見つめられているみたいだった。あつくて、ただただ、そこにある瞳。 『ミハくん』  続いた言葉には一切の脈絡がなかった。でも。 『あたしと友達になろう』  この国に来て、初めて言われた言葉だった。  「実家」から持ってきた、白のワイシャツを羽織る。勤務中の服装に関しては「派手すぎなければ自由」とのことだったので、無難な色柄のシャツを着ていくようにしている。そもそも僕は、派手な意匠の服なんてまず持っていない。このあたりの感覚はイギリスに住んでいた頃から変わっていないので、向こうの友人からはよく、「そういうところが日本の血だ」と笑われていた。  目立ちたくなくて、ずっとうつむいている子どもだった。ウェールズには比較的黒髪人口が多いというけれど、僕の住んでいた地域には黒髪黒目の人間が僕と母以外にいなかった。統計どおりに茶髪の住人が多い町だったので、そこにいるだけで僕らは目立った。母は職業柄、人に見られることに慣れていたからなんともなさそうだったけれど、僕は恥ずかしかったのだ。町角にただ立っているだけで興味を向けられるというのは、根が内向型の僕みたいな人間には針の筵でしかなかったのだ。  スキニーのポケットに、アイフォンといくらかの小銭だけ入れて外に出る。日差しが思いのほか強くて目を眇めた。この国では黒髪黒目の人間なんてどこにでも溢れているから、もううつむかなくていいはずなのに、どうしても日陰を辿るような足取りになってしまう。  暗がりを、それでもどうにか歩いていく。これも前進と呼べるのだろうか。まだ慣れない駅までの道、触れ慣れないこの国の美しい春。ためらいながら、けれど結局足を動かす以外を選べない僕の視界に、やがて並木の桜が映る。どうしようもなく風にさらわれて、無数の花が、青いままで飛んでいく。

ともだちにシェアしよう!