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初夏の午後の日差しが全身にまとわりつく。六月下旬、東京の梅雨明け宣言はまだのはずなのに、薄雲の切れ間から覗く太陽は気が遠くなるほど本気モードだった。うっかりすると「あっちぃ〜」などと独り言を漏らしそうになるのをこらえて、最後の横断歩道を渡る。ヒヨコのピヨピヨ鳴く音が、明滅する歩行者用信号の青に合わせて途切れた。子どものころ、この白いしましまの道には声のでっかいヒヨコが住んでいるのだと信じていた。とりとめのない記憶を思い起こすでもなく回想しながら、ようやくたどり着いた目的地の木の扉を開く。かららららんと、涼やかなドアベルの音にさえ救われる心地がした。
「お、来たね」
「暑い無理」
「三ヶ月ぶりに会う母に向かって無理ってアンタね」
木戸の奥、清潔感のある白で統一された店内には、いつもどおりに母さんがいた。凛紅という名前にふさわしい赤い口紅を今日も嫌味なく塗っている。これが似合うからまた不思議である。
「いらっしゃい。お茶飲む?」
「予約、俺の後にも入ってんだろ? いいよ」
「今日はアンタで店じまいだよ、暑いから」
雑かよ。肩をすくめながら、店内にふたつある散髪用の椅子の片方に腰掛ける。店員が一人なのにどうして椅子がふたつあるのかは知らない。「セット売りのほうがお得だったから」とか真顔で返される気がする。雑だから。
「シーカ、今日の最高気温35℃だってよ? 言っちゃなんだけどよく来たねえこんな時間に」
「ぜってえ今いっちゃん暑い時間帯だよな……自分でもそう思った……」
奥の冷蔵庫から、母さんが持ってきてくれた麦茶のグラスを一息に煽る。
「っだはー、あー……生き返ったー……」
「一次試験受かったんだって? おめでとう」
「うん。で、来月面接あるから黒に戻したい」
一次試験というのは、五月に受験した特別区公務員の筆記試験のことだ。事前に勉強は重ねていたもののさてどうかなと思いながら受けたが、わりとあっさり通過できた。でも、筆記より面接の方が正直不安だ。人見知りとまではいかないものの、人前であれこれ意見を述べるのはあまり得意ではない。
「あんたハイトーン似合うからもったいないねえ」
「母さんと逆だね」
赤い口紅の似合う母さんは、俺が子どもの頃からキリリと黒い髪をショートにしている。痩せ型の体に似合わぬ長身と気の強さも、昔から変わらない。一人営むこの美容室も同じで、この店は俺が五歳のときにオープンした。
散髪椅子の後ろに母さんが立って、ケープを広げた。両腕を通して、鏡の中の自分たちを眺める。
「面接向けの頭にするなら、長さも少し短くしようか。この長さだと重く見えそうだし。前髪と襟足少し切るだけで涼しげになるよ」
「んじゃそれで」
「アンタほんと自分の髪型に無頓着ね」
無頓着というか、自分でどうこう思う前に母さんの「この長さ似合いそう」とか「ねえ今度この色にしてみない?」とか、表向き提案の形をした願望に応じ続けているだけだった。とはいえ、自分でどうしたいという要望も確かにほぼないから、無頓着で合ってるのかも。
カットの前にカラーからやると言って、母さんは染料をあれこれ取り出し始めた。子どもの頃から見慣れた、今も変わらない仕事姿。親父の働く姿は職業柄ほとんど見たことがないけれど、母さんの働く姿はそういうわけで、幼少のみぎりから定期的に目撃している。
〜斎家、これまでのあらすじ〜
あらすじというより、両親の馴れ初めだの新婚当時だのに関してはほぼ知らないから、俺が物心ついたときからの話になるけれど。
両親は、俺が五歳の秋に離婚した。親権は親父が持つことになったけれど、母さんは普通に俺を育てた。高校を卒業するまで、俺はほぼ毎食を母さんの手料理で過ごした。毎朝早くから我が家の台所に立ち、朝食を出してくれて、昼の弁当も持たせてくれた。その頃すでに美容師の仕事をしていたのに、炊事のみならず家の掃除や洗濯買い出しなどなど、とにかく手抜かりなく母さんは「母」でいてくれた。仕事を終えて斎家に戻ると夕飯を作り、帰宅した耕三と三人で食卓を囲み、それから初めて、母さんは一駅先の自分のアパートへと帰るのだった。
どうして両親が離婚したのか、俺は知らない。別れるとき確かにその旨の説明はされたけれど、理由は果たして言っていたのか、はたまた、俺が幼すぎて理解できなかったのか、正直それさえ覚えていない。
でもまあそういうわけで、両親が離婚して困った記憶というのが、俺にはほぼ全く思いつかない。熱を出して学校を早退すれば看病してくれたし、店の都合さえつけば学校行事にだって来てくれた。両親の間に流れる空気も、ちっとも重苦しくなんかなかった。けれど、母が体を休める場所、母の帰る場所は、決して斎家ではなかった、ただそれだけの話。
「シーカ、少し痩せた?」
「え、変わんないと思うけど」
「耕ちゃんが心配してたよ。空き時間にバイト入れすぎなんじゃないかって」
「親父が運動不足すぎなんだよ、俺くらいで適正」
「あはは、たしかにね」
申し分なく、母さんは母さんだ。他の家の「お母さん」との違いは、少なくとも俺には感じられない。というか、全ての家庭の「お母さん像」がみんな同じなわけがない。そんなの不気味だ。
愛情がなかったわけでも、家族に嫌気がさしたのでも、多分ないんだろう。離婚の理由ははっきりとは知らないけれど、今はそれで十分だと思っている。
「ところで、なんてったっけあの子、ミオくん?」
「ミハの話?」
「あーそうそれそれ。なかなか覚えらんないな、ミハくんね、みはみはみはくん」
「元気にしてるよ。春から榎本んちでバイト始めた」
「うん、耕ちゃん言ってた。順調?」
「んーたぶん。仕事のことに限らずアイツ自分の話こっちから振らねーとなかなか言わないからなあ。榎本の親父さんはすげー褒めてる、ミハのこと」
ミハは四月に十七歳を迎えて、ほとんど同時に榎本古書店でのバイトを始めた。本人は、勤め始めてからずっと同じトーンで出勤と帰宅を繰り返している。住み慣れない街で、使い慣れない言葉を使っての仕事なんて、どれほど大変なんだろうと、自分で勧めておきながらミハに悪いことをしてしまったような気持ちが俺の中にはずっとあった。でも、ミハのテンションは働き始める前から比べても変わらない。淡々と日々をこなしているように見える。その姿が逆に心配でならなかったが、榎本や、榎本の親父さんからの評価はお世辞抜きにめちゃめちゃ高い。
『いや、すごく頑張ってくれてるよ。接客も思っていたよりずっとスムーズだしなあ。というかアレだ、日本語もそうだけど、基本的に物覚えがすごくいいよねえミハくん』
俺も週一くらいのペースで、ミハの様子をみるために榎本古書店に顔を出している。書棚を整えたり、接客していたり、暇そうにカウンターの奥の小さな木椅子にぼんやり座っていたり。この間は常連客のおじさんと店先で将棋をさしていた。
『ウチは小さい店だから覚えることはそんなにないけど、それにしたって記憶力がいいよなあ。店のあれこれどころか、いつの間にかああやって、お客さんから将棋習って覚えてるの。すごくないかい?』
それは確かにすごい。本人も特段しんどそうに見えないのがさらにすごい。誇らしい気持ちになりながら、けれどやっぱり心配はしてしまう。
『ミハ、困ってることないか? しんどいこととかは?』
時折そう窺わずにいられない俺に、ミハは何を思うのか、訊くたびなぜだかいつもゆるく微笑むのだ。
『ダイジョウブ』
相変わらず、ミハはあんまり笑わない。笑わないというより、喜怒哀楽がほとんど表情に出てこない。
だからその、ゆるやかにほどけた小さな花みたいな笑顔を見れるのが嬉しくて、しつこいかもしれないけれど重ねて訊いてしまう──そう言ったら、きっとミハは呆れるんだろう。
「そっかー、お母さんも会ってみたいなあミオくん」
「ミハだって」
「あーそうそうみはみはみは、なんだろなんかミオくんになっちゃうなあ」
「今度ウチ来たらいいじゃん。日本語少し慣れてきたし、話し相手になってやってよ」
「話してみたいし、ミハくんの髪も切ってみたいなあ、サラサラの黒髪なんでしょ? あーでもいきなりオバチャン行ってびっくりしないかな」
「母さんより祭のがインパクトヤバいから大丈夫」
「あ、祭ちゃん元気? しばらく行き会えてないわ」
「元気。別れた」
「あらそうそれは何より──は!? 別れた!? なんで!?」
普段は夜も営業しているのに、今日は夕方で店仕舞いだという。ということは、今夜は親父と飲むんだろう。母さんは、俺が大学に入ってからはほとんど斎家に来なくなったけれど、代わりに、月一くらいの頻度で親父と飲みに行くようになった。俺はそこに同席したことがない。別に混ざりたいとも思わなかったし、元夫婦水入らずの時間も、必要……なんだろうか。まあ必要かもしれないし。
三人がとりあえず、元気でいられればそれでいい。これが俺たち三人の「家族」のあり方というだけだ。
「あ、きのう庭のきゅうりたくさんとれたの。帰りに持ってく?」
「持ってく」
母の細くて骨っぽい指先を後頭部に感じながら、俺はなんとなく目を閉じる。横断歩道にヒヨコが住んでいると主張した幼い俺の声に、からから笑いながらもそうだねえと聞いていた母さんの、見上げた先の逆光の横顔を。なんとなしに、思い出す。
変わった家だと、言われたこともあった。離婚した母親が毎日顔を出すなどと陰口されたことも、離婚した意味がないと面と向かって冷笑されたこともあった。悲しくて、それでも、両親の愛情を感じなかった日は、なかった。
黒の染料を刷毛に乗せながら、そめるよー、と母さんが言う。目を閉じたまま頷いて。ミハにもこうやって、ゆるやかに思い起こせる家族の日常はあるのだろうかと、ふいに思った。
●
出勤時刻はいつも決まって九時五十分。毎朝乗る電車を決めていて、いつも同じ時間に駅に着いて、最寄り駅から榎本古書店までの徒歩四分間を一定のペースで歩いていくと、必然的にその時間きっかりに出勤できる。
店は十時から営業を始める。釣り銭の準備は榎本さんがいつもしてくれるから、僕は十時になると大抵決まって店の掃除を始める。この店に開店と同時に駆け込む人は、この丸四ヶ月間、一度も見たことがない。ここの常連さんたちはみんなゆっくり、歩いてやってくる。時折一見さんも来るけれど、彼らも決して急いていない。だから僕も努めて静かに、支給されたデニムのエプロンを被り、焦らずにゆっくりとはたき掛けをする。その後掃き掃除をして、店の軒先にある鉢植えに如雨露で水をやる。このごろは二株の青い紫陽花が盛況だ。
僕が一頻りのルーティンを終わらせるころ、榎本さんが配達に向かう。そのあたりで一旦昼休憩を挟む。客層の年齢がそうさせるのだろうが、その時間帯になるとぱたりと来客が途切れる。その隙に、榎本家の「チャノマ」で持ってきた昼食(自分で適当に作ってきた簡単なサンドイッチ。数日に一度、詩歌が箱詰めの“オベントウ”を作ってくれることもある)を食べる。僕が中に引っ込んでくると、榎本さんの奥さんがお疲れ様と笑っていつも冷茶を出してくれる。奥さんはその後すぐにパートの仕事へと出かけるので、昼食を一緒にしたことはあまりない。静かな畳の上で、一人ぼんやりとパンをかじることが多い。
十三時前には店頭に戻って、今度は店番。おもてのマガジンラックの中身を整理しながら、湿気っぽい暑さに思わず空を仰いだ。七月の十五時過ぎ。日本の夏は暑いと聞いてはいたけれど、実際体感してみるとじんわりと熱が皮膚に貼りつくようで、気分のいいものではなかった。去年の夏は夕方からしか外に出なかったから、真昼の陽光をまともに浴びるのは今年が初めてだ。
中に戻って、榎本さんが仕入れてきた本を棚に納めていると、入口の引き戸がからりと開いた。
「こんにちはー」
引き戸の向こうから大野さんが顔を出した。書架に本を納める手を止めて、僕は頭を下げる。
「イラッシャイマセ、オオノ、さん」
「ミハくん、こんにちは。いやー暑いね今日」
大野さんもまた、この店の常連客の一人である。近くにある自営の花屋の店長だそうで、午前中は立て込むからと、いつも昼時にこうしてやってくる。
「頼んでた本、入ったって榎本さんから電話あってさ」
「コチラ、で、オマチガイナイデスカ」
客注品用の小さな棚から、大野さんの名前が留められた古書を一冊取り出す。タイトルは僕には読めない。日本の美術史を知るのが好きだそうだから、恐らく古い画集なのだろう。会計を済ませると大野さんはその場で本を開いて、
「なあ見てよミハくんこれ、綺麗な屏風絵だろう? 朝顔図屏風っていってね、鈴木其一という画家の作品でさ。今はメトロポリタン美術館に所属されているんだ、いいなあ本物見てみたいなあ」
いつものように、僕に内容の解説を始めてくれる。僕も美術史、ひいては歴史は嫌いではないけれど、特段詳しいわけでもない。大野さんの言葉は正直半分も理解できないけれど、大野さんの楽しそうな顔を見るのは好きだから構わない。
「なあ、ミハくんは、イギリスのどのあたりに住んでいたんだい?」
大野さんに訊かれて僕はかすかに顔を上げる。そろそろ百円玉の釣り銭が少ない。引き出しから棒金を取り出して封を切る。
「ウェールズ、です」
「へえ、童話の世界みたいなところだよね」
「はい。でも、ボクのすんでいたトコロは、ウミの、ちかく、でした」
釣り銭を補充してからそう付け足す。こうして他愛のない会話をお客さんと重ねるうち、少しずつだけれど日本語にも慣れてきた。それでも、単語を文章にして頭の中に組み上げるのにはまだやはり時間がかかる。
「海かあ。港町?」
「ハイ。イナカ、デス」
大野さんといくらか言葉を交わし、退店する背中に礼を言う。が、店を出てすぐ大野さんが「ミハくん!」と戻ってきた。
「大変、雨降ってるよ! レインレイン!」
Rainの言葉にぎょっとして店の軒先に駆け寄ると、空は明るく晴れているのに確かに細く雨が降っていた。急いで軒下のマガジンラックを店内に引っ込める。
「天気雨だね。気づかなかったな」
ぱたぱたと雨降る空を見上げる大野さん。僕はカウンターの裏手に回って、来客に貸し出すため数本ストックしてある置き傘の中から一本を引き抜いた。僕が差し出したビニール傘を見て、ありがとうと大野さんは相好を崩す。
「助かるよ。明日返しに来るね」
「イツ、デモ、ダイジョウブ、です」
「うん、ありがとうね。でも明日もなんだかんだで普通に来るから、気にしないで」
店先で今度こそ大野さんを見送って、そのままなんとなしに、明るい空から落ちる雨を見ていた。──ウェールズは年間を通して雨の多い土地だった。気温もそこまで激しく上下しない。いつもどことなく曇っていて、暗くて、静かだった。絵画のように変哲のない景色。潮騒のやわらかな波音だけが世界の空気を揺らしているみたいだった。
晴れ間に泣く空を仰いだまま、もう七月か、と、ふいに思う。七月。日本に来てから一年と三ヶ月が経過した。長かったような、あっという間だったような。
ここに来るお客さんと同様に、榎本家の人々もみんな心優しい。榎本夫妻には二人のお子さんがいる。上の子が詩歌の友人である竜也さん。その下に、高校生だという妹の千鶴さん。千鶴さんは僕と同い年だという。学校のクラブ(「ブカツ」というらしい)が忙しくてあまり行き会ったことはないけれど、たまに顔を合わせると遠慮がちに「エシャク」をくれる。
「たーいまー。ミハくんお疲れ〜」
店の奥、榎本家の居室から竜也さんが顔を出した。
「あれ、おとんいねえ。うちの父、まだ配達?」
「カエッテキマシタ。デモ、イソカイさんの、おうちに、ワスレモノ、ボウシ、」
デリバーは日本語でなんというんだっけ。つっかえた僕に気づいた竜也さんが、そのタイミングで連絡用のホワイトボードの書き置きに目を留めた。
「あーこれか。忘れ物届けにいったんだな。親父、ミハくんが仕事慣れたからって一人にすんなよな。契約違反じゃねえかよ」
一人ぼやく竜也さんの言葉をすべて把握することはできなかったが、表情と聞き取れた単語からして、短時間とはいえ僕を店頭に一人残していったお父さんへの小言だろう。磯貝さんの家まではここから歩いて十分ほどらしいから、それくらいならと特に気にしていなかったのだが、竜也さんからは案の定「ごめんな一人にして」と謝られた。僕は首を横に振る。
「こちらこそ、スミマセン。オキニ、ナサラズ」
「ミハくんめっちゃ語彙増えたな、いや気にするからそこは」
「ゴ、イ……?」
「あーわり、えっと、単語? ワード? 使える言葉っつーか、えーと辞書辞書」
そう言いながら、カウンターの下から和英辞書(元々は売り物だったけれど売れずに傷んでしまったという)を取り出した。竜也さんはこうして、この辞書で僕が初めて聞いた言葉を引いてみせてくれる。勉強になるしありがたい。
ゴイゴイと呟きながら竜也さんが辞書を引いていると、店舗の軒先から「お邪魔しまーす」と声が聞こえた。振り向く前に相手がわかる。聞き慣れた声だから。
「お、来たね保護者」
「誰が保護者だ」
軒をくぐって店内に入ってきた詩歌は渋面をしたけれど、竜也さんの言のほうが正しい気がする。詩歌はそれこそ僕の保護者みたいに、時間ができるとこうして店に顔を出してくれる。
「あれ? 斎、頭黒い」
「来月面接だから」
「あーそか、もう来月か」
竜也さんの言ったとおり、詩歌の髪は黒に染まっていた。明るい茶髪に見慣れていたから、雰囲気が全然違って見える。
「あ、でもこれ真っ黒でもない?」
「あーうん、オカンが真っ黒よりダークブラウンのがいいって」
「お母さん自由だな」
お母さん、という単語に、そうだ詩歌にも母親がいるのだと思い出す。斎夫妻がずっと昔に離婚したという話は耕三から聞いたことがある。離縁こそしたものの、二人が今も仲良くしているということも。詩歌からは、お母さんから散髪を習ったという話は教えてもらっていた。
「俺の頭が真っ黒なのは違和感あんだってさ、自分で産んだ子供だってのに」
続いた言葉は複雑で把握しきれなかったけれど、表情と口調から恐らく愛ある皮肉の類であるだろうことは覗えた。普段から、僕にも聞き取りやすい平易な日本語で話してくれる詩歌には珍しい反応だった。ああいう反応を、いつか僕にも返してもらえるようになるくらい。もっと日本語を知りたいと思う。詩歌のいろんな表情にふれてみたいと、思う。
「ミハくん、今日五時までだっけ? なんだったらもう上がってもいいよ、迎えも来たことだし」
竜也さんの提案のニュアンスは親切に寄ったものだったので、厚意で言ってくれているのはすぐにわかった。そのうえで、首を横に振る。定時である五時まではあと三十分近くあったし、いくら詩歌が来てくれたからといって自分の仕事を半端にしたくもない。
「しいか、おさきに、かえる、クダサイ」
「えーいいよ、一緒に帰ろ。三十分くらいなら喋ってりゃすぐだろ」
いっしょに、かえろう。僕にちゃんと伝わるように、僕よりいくらか高い背を屈めて再度言い直してくれる。意思疎通に無理がないよう、こうして気遣ってくれる。同い屋根の下に、一緒に帰ってくれる。詩歌は優しい。いつもどんなときも、優しい。
その後、来客はないまま十七時を迎えた。詩歌は奥の茶の間で、竜也さんととりとめのない話をしていた。大学での授業の話、竜也さんの好きな人の話(同じゼミの女性。片思いらしい)。端々に聞こえる会話に、なぜか安寧を覚える自分がいる。日常。僕に訪れた、新しい日々の真ん中にいるひと。ガラス戸の向こう、すぐそばにあるバス停で、数名の学生が笑いながらふざけあっているのが見えた。僕はイギリスでも友達の多い人間ではなかったから、あんなふう街中で談笑ができたためしがなかった。
『ぜんぜん、歌うのなんか好きじゃなさそうなのにな、お前』
僕の暮らしていた町の海辺には、古くて小さな教会があった。僕は五歳の頃からその教会の聖歌隊に所属していた。最初はそれなりにいた同じ年頃の子供たちも年齢を重ねるごとに減っていって、僕と同い年で残ったのは、やっぱり歌なんて大して好きでもなさそうな幼なじみ一人だけだった。
『きみにだけは言われたくないよ』
『オレもオルガン弾けるようになろうかな。なあお前進路どうするんだ?』
話題がすぐにころころ変わるのは彼の昔からの癖のようなものだった。だから僕も、ただ指の下の白鍵をいくつか和音にして鳴らす。やわらかいオルガンの音色が、物心つく前からたぶん好きだった。
『父さんと同じかな』
『ポストマン? お前バイク運転できるのか?』
『さあ』
『オレ、どうしよっかな。中学出たあと進学するかどうかも決められねえ。あ、その曲好き』
ほとんど手癖で弾き始めた賛美歌を、彼は好きだと言って笑う。同年代でポップス以外の曲を好きだという奴は少ない。彼とは他の趣味も会話の波長も合わないのに、音楽の嗜好だけはよく合った。
──なんかさ、先のことなんか何も見えねえよな、毎日。
定時を迎えて、詩歌と二人帰路につく。日没まではまだ遠い十七時過ぎの駅前通り。日はまだ強く照っているけれど、吹く風はかすかに夜の色をはらみはじめる。
──毎日毎日こうやって、同じことの繰り返しみたいなのにさ。
斎家の最寄り駅まで戻ってから、駅併設のスーパーマーケットで詩歌と夕飯の買い出しをする。今晩のメニューは「まーぼーどーふ」という中華料理らしい。耕三がいない夜は大抵丼ものになるから、「まーぼーどーふどん」と呼ぶべきなのだろう。まーぼーどーふは初めて食べるけれど、僕は辛いものが好きなので「たぶん気に入ると思う」と詩歌は笑った。チャイニーズは僕の母も好きでよく作っていたけれど、豆腐はそもそも町のマーケットに置いていなかったから、日本に来るまで食べたことがなかった。
──でも、同じ毎日なんてないって言うじゃん? 何聴いてもさ。あ、なあ今日出た宿題終わった?
日々、同じ曇天の絵画の中に息づくかのように。静謐で完結していて、満たされていた。来るべき未来も同じ色であってほしいと。望んでいた。祈っていた。
夜が世界を包んでいく。世界が夜と同化していく。暗い。しずかで色のない、かつて僕があいした日常の色によく似ている。
僕がシャワーを浴びる間に詩歌が作ってくれたまーぼーどーふは、想像していた以上に美味しかった。食後に僕が洗い物をする横で、詩歌は英単語のテキストを開いて僕に発音が合っているかどうかを確かめていた。耕三も二十三時前には帰宅したけれど、めずらしく急ぎの仕事があると言って、シャワーを済ませるとすぐ部屋に戻った。その後で詩歌も入浴をすると、おやすみと笑って自室に入っていった。
壁時計の針が、二十五時過ぎを指している。
おやすみ。お休み。その先にはなにがあるのだろう。永遠に続く闇と眠りのその先に。ずっとずっと、暗いまま? なにひとつ、みえないまま?
『────』
僕の名を呼ぶ、ぬくい声を。ベランダの向こうの闇に聞いた気がして。
立ち上がり、眼鏡をはずす。ぼやけた視界に認識できる人影などあろうはずもなくて、静寂がただ、僕一人の頭上にだけ降り積もる。
ふらりと。
ベランダではなく、詩歌の部屋の前へ足を向けた。他意はなくて、ただ、そこにいたかっただけだった。夜中の木戸の先、吐息もいびきも聞こえないけれど、その奥で確かに詩歌が息をしているのを感じた、気がする。僕は音を殺して、ドアの横に座り込む。
夕方の古書店で、ささめくような二人の声をきいていた。日常のささめき。
その声のぬくもりにふれたくて、ただ、そばにいたくて、目を閉じる。
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「っうええええ!?」
半分寝たままの視界の端に突如映り込んだ黒い人影に、時間も何も忘れて思わず奇声をあげた。幽霊? うそ俺生まれて初めて見た何こわい塩、盛り塩いる? パニクった頭でその場にすっころんで、けれど足元のユーレイは特に慌てるでもなく俺を静かに見つめ返す。
「……ミハ?」
「ゴメン、びっくり、シマシタカ?」
「しましたしました! いや何!?何してんのお前ンなトコで!」
なぜか俺の部屋の前で膝を抱えて座っていたミハを、とりあえず立たせて部屋に入れる。喉が渇いたから冷蔵庫に行くつもりだったんだけど、ビビりすぎて今ちょっと一人で暗いキッチン行きたくない。
「もー、何してんだよ! 風邪ひくぞ夏とはいえ!」
「……スミマセン」
「いやいいけど、いやよくはねえのか? とにかく廊下で寝るなよ、居間暑かったか?」
「アツい、ない」
「じゃあなんでここにいたんだよ」
返事はなかった。ミハはただうつむいて、小窓から差す月の光にその横顔を照らされている。悲しそうなふうにも、特に何も考えていないようにも見えた。何かを訊いてミハから一切の返事がなかったのは初めてで、それがどうしてなのかもわからない。思っていることを日本語に変換できないのか、本当に返事が見つからないのか、もっと単純に、言いたくないだけなのか。
「んー、わかんねえな。英語でもいいぞ? English」
「……Sorry」
「じゃなくて! っだーもー、とにかくほら、こっち」
どう接するべきなのかわからなくて、俺はミハの手を掴んでベッドまで連れてくる。ベッドの縁に座らせたところで、忘れていた喉の渇きが再燃した。
「待ってて、冷蔵庫行ってくる」
言い置いてから、改めてキッチンに向かう。たまに居間のソファで寝落ちる耕三が、こういうときに限って居間にいない。でもまあ別に、ちょっと早足になったのは待たせてるミハのためであって、別に俺が怖いとかではないし。小学生じゃねえんだから。
不気味に唸る冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本掴み取ってその場を離れる。部屋に戻って背中で戸を閉めると、ミハはさっきと同じ体勢のままで座っていた。黒い、夜の空よりずっと黒い二つの瞳が、思いのほか強い光を帯びて俺を見あげる。
「飲むか?」
ペットボトルを差し出すと、ミハは素直に手を伸ばした。手の中の透明を、嚥下する白い喉。こくん と動く皮膚が、妙に生々しくて。なんとなく目をそらす。
眠れなかったのか? と訊くと、ミハは小さく頷いた。その表情が普段よりどことなく心許なげに見えるのは、やっぱり光源が少ないからなのかもしれないけれど。いつも実年齢以上に落ち着いて見えるから、気にしていないと最近うっかり忘れてしまう。
こいつはまだ十七歳なのだ。
俺が高二の頃、何をして過ごしてたっけ。なんとなく高校に通って、友達と過ごして、バイトして、彼女欲しいとか別れたとか、名前のつけようもないほど平凡な暮らしの中にいたと思う。目の前のこいつはけれど、生まれ育った国を離れて、今はこうして血縁でもない他人の家で暮らしていて。毎日どんな気持ちで過ごしているのか、その静かな面立ちからは推し量ることができない。
俺たちにはきっと、ギャップがありすぎるんだろう。言葉も、暮らしてきた環境も、今まで目にしてきたものも。優劣も幸不幸でもない。きっとそんなに安易な言葉じゃ片付かないことばっかりなんだ、人生って。
ミハは俺より少し背が低い。だから、ベッドに座るその足元に俺はしゃがみこむ。
「でも、廊下で寝るのはナシ。床に座ってると体痛くするぞ?」
ミハは再び素直に頷く。ペットボトルのキャップをしめて、ゴメン、と言うと、そのまま立ち上がろうとする。それを思わず、本当にほとんど反射で制した。
「眠れないんだろ?」
言いながら俺は立ち上がって、ベッドの読書灯を点けた。その手で夏掛けを軽くめくる。
「半分ずつだぞ。シングルだから小さいんだよ、ベッド」
薄闇の中で、なぜか一瞬ミハの瞳がきらめいた、気がした。読書灯の光が差しただけなんだと、わかっていたけど。言葉が詰まる。泣いてるのかと思った。
実際には涙など見せずに、ミハは言われるがまま静かにベッドに横たわった。なぜか壁に背を向けて、隣に転がった俺のほうをじっと見つめるから、妙にバツが悪くなる。悪いことはしてないはずなんだけど。
「……しいか」
「なんだ?」
「ありがとう」
言い慣れてきたのだろう。まるで日本人みたいな発音だったから、少しドキッとした。上手く声が出ないままの俺の横で、ミハはいつの間にか、吐息さえほとんどたてずに瞼を閉ざしていた。眠っているのかは、わからなかったから。おやすみと無声音で呟いて、俺もようやく目を閉じた。
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