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「へえ、斎くん九月生まれなの」
背後からの声に僕は頷きつつ、意識は目前の盤に傾け続ける。3四、成金。む、と対面で若林さんが小さく唸る。
「そうくるか……」
榎本古書店の片隅には、古い将棋盤が置かれている。常連さんたちは時折それを店の出入り口近くに持ち出して、対戦を始めるのだ。僕もこうしてたまに対戦相手として求められることがある。今日の敵将である若林さんは元々「ゴ」というボードゲームのほうが好きらしいのだけれど、榎本古書店に「ゴ」はないから代わりに将棋を嗜むらしい。若林さんの指した4八銀を注視しつつ、盤全体の流れを見極める。
「で、斎くんにお誕生日プレゼントを渡したい、と」
帳簿整理の片手間に僕らの競り合いを眺めながら、榎本さんが相槌を打つ。僕は頷き、自陣の駒を一つ拾い上げる。6五角。
「あっ」
狙い通り、盲点を突けたらしい。しかし油断はできない。まだ巻き返される余地は残っている。僕らの緊張をよそに、榎本さんはそうかそうか〜と朗らかに笑う。
「それはきっと喜ぶと思うよ。で、何をあげるか悩んでるんだ」
榎本さんの言葉に、僕は顔を上げてから頷いた。戸口を背に立つ榎本さんの向こう、ガラス戸越しに残暑の青空が見える。軒先には、大きく花開いた二輪の向日葵。先々月に奥さんと僕で植えた。黄色の花びらが眩しくて美しい。去年の夏はすでに日本で暮らしていたけれど、この国の夏は色鮮やかで綺麗だと知ったのはつい最近だった。
去る五ヶ月前、斎父子が僕の誕生日を祝ってくれた。耕三が僕の誕生日を知っていて、詩歌に教えたらしい。誕生日に何が食べたい? と訊かれて、辛いものと答えたら、詩歌がスパイスカレーと、黒胡椒たっぷりのローストチキンを作ってくれた。とても美味しかったけれど、詩歌自身は胡椒を振っていない部分を別に用意して食べていた。昔から辛いものは苦手らしい。
誕生日プレゼントにと、耕三はコンバースのスニーカーを(僕の靴がぼろぼろなのが気になっていたらしい)、詩歌は腕時計を贈ってくれた。シンプルな黒の、軽くて見やすい腕時計。恐縮する僕に、二人は揃って「言うほど高価なもんじゃない」と笑った。
『スミマセン、ぼく、イソウロウ、なのに』
『何言ってんの、もう家族みたいなもんでしょ』
『そうだぞミハ、もらえるもんはもらっとけ』
そう言ってけろりと笑う二人の顔はよく似ていて、血の繋がりを感じさせた。
『そういうときはな、「すみません」じゃなくて、「ありがとう」でいいんだよ』
あの日詩歌がくれた腕時計は、今も僕の左手首に留まっている。
詩歌の誕生日は誰かに教えてもらったわけではなくて、単純に、耕三の部屋の卓上カレンダーに書かれていたのを見つけた。バイトと家の手伝いの合間に耕三のDTMを触らせてもらう習慣は相変わらず続いている。その機器で歌を録ったことは、まだない。というか、斎家に来てから僕はほとんど歌わなくなった。去年は時間さえあれば音の波に沈んで、目の前の現実にはろくに浮上しようともしなかったのに。日常が充実していると洗濯物を干しながら鼻歌を口ずさむくらいで、あとはほとんど歌わない。最近は誰かの歌を聴く機会さえ減っている。それがいいことなのかどうかは、よくわからない。
いつの間にか見慣れた耕三の筆跡で、シーカ誕生日と小さくメモが入ったその日付が、今日から数えて来週の水曜日だった。
いつも与えてもらってばかりの僕に、返せるものがあるのかはわからないけれど。少しでも何かしたくて、だけど、詩歌が欲しがるようなものを僕は知らない。
「んー、斎くんって趣味とかあるの?」
「キュウジツ、いつも、イエ、います」
「インドア派かあ。あ、そういえば斎くん特別区の試験受かったんだって?」
聞き慣れない言葉が混ざったからなのか次の一手を考えつつ聞いていたからなのか、榎本さんの返事が頭の中で翻訳できなかった。うまく反応できずに固まった僕に、榎本さんはすぐ気づいてくれる。
「ごめんごめん、ええと……テスト、合格したかな?」
平易な言い回しにしてくれたから今度は頷くことができた。詩歌が最近受けたテストとは、公務員の採用試験のことだろう。内定通知を受け取った詩歌は、「ほんとに受かると思わなかった」とごく素直に驚いていた。
詩歌がもらって喜びそうなものなんて、僕には一つも浮かばない。いつもシンプルな服を着ているけれど特段ブランドにこだわりはないみたいだし、装飾品もあまり好きではないのか、何年か前に耕三から贈られたという腕時計(スカーゲンのやはりシンプルなモデルだった)くらいしか身に着けているのを見たことがない。趣味と呼べる趣味も、あるのかないのか。いつだったか、ここ一年ほど空き時間にはバイトを入れるか就職のための勉強をするかのどちらかしかしていないと苦笑していたけれど、何か別のことに余暇を注いでいる様子も見られない。
きっと僕は、詩歌のことをほとんどなにも知らないのだろう。僕自身、自分のことを話すのは苦手だから、詩歌に限らず当たり障りのない会話くらいしかできない。趣味も、関心のある物事も。恋人の有無は祭さんのことがあったから知っているだけで、こちらから訊いたわけでも打ち明けられたわけでもない。
「とはいえ、こっちは竜也の喜ぶもんも想像つかない始末だからなあ。斎くんとなるとなおさらわからんな……」
ぱちんと、向かいから駒の音。若林さんの手だ。7七金。
「こっちにも分かんねえなあ、せがれの欲しがってるもんなんざ」
「若林さんとこ、来年高校生だっけか?」
「そうそう生意気盛りでよお」
年頃の息子をもつ父親同士、思案深げに頷き合うのと同時に、店の奥からただいまと声が飛んできた。
「あ、若林さん来てたんだ。らっしゃいませ」
「竜也くん久しぶりだなあ! おおなんでい、スーツなんか着て」
「今日面接だったんだよね」
「竜也おかえり。どうだった」
「わかんねえけど多分ダメ。オレ集団面接って苦手なんだよなあ」
三人の入り乱れる会話を聞き取りきることはできなかったけれど、途中の「面接」という言葉だけはどうにか拾えた。竜也さんは紺色のスーツを着ていた。日本の就職活動において、面接時にスーツを着ての機会は多いという。詩歌も公務員の試験にはスーツ姿で赴いていた。
濃紺のジャケットと白いワイシャツの上、首に留められた水色のネクタイで、ふと視線が固まった。ネクタイ。ネクタイ、か。そういえば日本に来たばかりの頃に手続きをした役所でも、職員はほとんどみんなネクタイを巻いていた。
「タツヤサン、は、その、ネクタイ、どこで、カイマシタか?」
唐突に質問を振ってしまった僕に、竜也さんはひととき不思議そうな顔をする。そして竜也さんの返答よりも、榎本さんと若林さんの「ああなるほどー」の声の方が早く返ってきた。
「そうかそうか、ネクタイならこれから確実に必要になるもんな!」
「斎くん、もう内定もらってるし。間違いないよ、ナイスアイデア!」
「えっ何、斎がどうしたの? ネクタイは、えっとこれどこで買ったっけ……多分駅の近くのショップだったと思うけど」
把握しきれないながらも答えてくれた竜也さんに、プレゼントだよ、と榎本さんが補完してくれる。
「ミハくん、斎くんに何かプレゼントしたいんだってよ。誕生日の」
「誕生日? あーそういやあいつ来週誕生日だっけ」
ネクタイをゆるめながら思案した竜也さんは、じゃあ、と僕を振り返る。
「オレでよければ、選ぶの手伝おうか?」
メイアイヘルプユー? と付け足して、竜也さんはにかりと笑う。願ってもないことだ。僕は素直に頷いた。
「おねがい、します」
「おっけ。ミハくん来週の火曜日シフト入ってないよね、なんか予定ある?」
「とくに、ナイ、です」
「よし、じゃあ明日一緒に探しに行こう。いいの見つかるといいな!」
両手のこぶしをぐっと握って、そう言ってくれた。アリガトウゴザイマス。返しながら、僕は真似して握りこぶしを作った。
そうして翌週の火曜日。竜也さんと待ち合わせた駅前のロータリーには、竜也さんともう一人の見知った姿があった。
「お、来た来た。おはよーミハくん久しぶり〜」
竜也さんの隣にいたのは祭さんだった。祭さんは日本人女性にしてはやや背が高く、竜也さんはその逆であるので、並んで立つと身長差がほとんどない。多分ここに詩歌が入ったら、頭ひとつ飛び抜けるのだろう。
「おはよう、ゴザイマス。おそくなって、スミマセン」
「いやいや全然遅くないよ〜! 相変わらず美少年だわ〜ミハくん!」
二人よりもさらに背のやや低い僕の頭を、祭さんがぐりぐりと撫で回す。コラやめろ日比野と竜也さんは祭さんをたしなめて、
「ごめんねえ、ミハくん」
なぜか僕に頭を下げた。
「昨日たまたまラインしてて、なんとなくミハくんと出かけるって話しちゃったらさ。ついてくってきかねーのコイツ」
「まかしといて、アタシがいいの選んだげる! 一応元カノだし?」
「笑っていいのかわかんねえなその補足」
助言役が多いのはありがたいので、ヨロシクオネガイシマスと礼を言う。どんとこいよ! 祭さんに返された日本語は初めて聞くものだったから、意味はよくわからなかった。
竜也さんと祭さんの後について、昨日教えてもらった駅の近くのアパレルショップに向かう。それほど広くない店内には落ち着いた色合いのスーツにワイシャツ、それに鞄やネクタイや革靴やハンカチが並んでいた。田舎の港町育ちの僕はそれだけでも白黒させてしまう。冬に眼鏡店に行ったときにもそうだった。色が溢れすぎているのだ。
「ねえ日比野、斎って何色が好きなの?」
「さあー、なんかこうアースカラー的な?」
「雑だな……任せろっつってたろさっき……」
「しいか、シロとかクロとか、きること、おおい、です」
「あはは、ミハくんの方が詳しかったね」
それは僕が斎家に住んでいて、さらに斎家の洗濯担当だからだ。少なくとも、派手に目を引くものよりは落ち着いた色の物のほうが好きだろう。普段着もバッグもスニーカーも、なんだったら部屋着や下着だって、ほとんど白か黒か紺か灰色のどれかだと思う。
「てことは、ネクタイは紺がいいかなー。黒と白は外さなきゃだし、灰色はカジュアル向けならまだしも、新社会人っぽくない気がするし」
「モスグリーンとかでもよくない? ワインレッドとか」
「あーそうだなあ、色々見てみっか」
竜也さんと祭さんの言葉に頷いて、それぞれ紺色のネクタイを中心に見繕いはじめる。赤や水色でいいものもあったけれど、いずれも決め手に欠けたのでキープに留めた。
ふいに、視界の端を薄い花色がかすめた。「さくら」の花びらみたいにごく淡い紅色のネクタイ。かすかに白のストライプが細く走っていて綺麗だった。
「コレ、は、どうですか?」
二人に相談してみると、竜也さんも祭さんも少し意外そうな顔をした。
「へー、ピンク? かわいいけど」
「春らしくていいんじゃない? ルーキーっぽい感じ出るし」
「ピンク、いろ、いやがる、らない、ですか?」
「オレがあげたらわかんねーけど、ミハくんがあげるものイヤがったりしないよアイツは」
少し考えて、僕はそのネクタイを結局売場に戻した。いいの? と竜也さんに首を傾げられて、頷く。
「シイカの、すきないろ、のほう、いいです」
「そっか。んじゃもう少し見てみよ」
最終的に、当初予定通り紺色のネクタイにした。青と銀のラインが入っていて、シンプルだし使い勝手も悪くはなさそうなデザインだった。竜也さんと祭さんからもゴーサインをもらえたので安心した。
「斎もそうだけど、ミハくんもシンプルな服装多いよね」
箱に包装されたネクタイを受け取って、三人で駅前を歩く。真夏の昼下り、照りつける日差しに急かされて、足取りは自然と早まった。
「あーわかる、そのまま無印のCMとか出れそう」
「わかるすぎる」
話の内容はよくわからなかったけれど、揶揄の色は皆無だったから褒めてもらえているのだろうと解釈した。そのまま三人で、昼食をとれる店を探す。祭さんが好きだという日本蕎麦の店があったので、そこに入ることになった。日本に来るまで食べたことはなかったけれど、僕も蕎麦は好きだ。「わさび」を入れるとさらに美味しくなる。
落ち着いた雰囲気の店内に入る。奥のテーブル席に通されてすぐ、メニュー表と冷たい蕎麦茶がテーブルに並べられた。メニュー表をテーブルの中央に広げて、三人で覗き込む。
「あたし鴨せいろにするー」
「オレはざるとミニ天丼のセットにしよかな。ミハくんは? どんなのかイメージできる?」
心配してくれる竜也さんに首肯を返す。メニュー表には一品一品に実物の写真が添えられていたし、何より日本語で書かれたメニュー名の下に英語の翻訳と簡単な説明がついていた。これで大体どんな料理かが推察できる。とても有り難い仕組みだ。
「コレにシマス」
「山かけ? とろろ食ったことある?」
「アリマス。すきです」
「そっか、ならよかった。んじゃ祭、呼び出しボタン押して」
祭さんが壁際のボタンを押すと、すぐに店員が来て注文を確認しに来てくれた。着物姿のその人が立ち去って、三人それぞれに蕎麦茶を飲む。
「あんまり混んでなくてよかったな」
「あ、あたし後で冷やし白玉たのもっかな」
「おー食え食え、日々野大食いだから余裕だろ」
冷たい蕎麦茶は、汗をかいた体にひどく染みた。僕は蕎麦茶も好きなので嬉しい。蕎麦茶は元々母が好きで、時折家でも出してくれていた。
「なあ、ミハくんは日本語来てから買い物とかどうしてんの?」
グラスを卓に乗せて、竜也さんが僕の方を向き直った。その竜也さんを祭さんが横目に見る。
「買い物って? フツーに行くんでは?」
「いや、服とかさ。どこで買ってんのかなって。駅前もそんなに詳しくはないみたいだし」
「あーなるほど」
二人からの視線を受けて、僕もグラスを一旦置く。
「ニホン、きてからは、カウ、こと、してないです」
「あ、そうなんだ?」
「イエ、から、もってきました」
「えーでもミハっち実家海外なんでしょ?」
「ニホンに、ソ、ボ、の、イエ、アリマス」
「ああ、おばあちゃんちね。ハーフだもんな」
あまり使ったことのない言葉だったので緊張したけれど、どうやら通じたらしい。「ソボ」と「オバアチャン」はどちらも同じ意味のはず。
「つーか日々野、今のなにミハっちって……」
「えーかわいくない? ミハぴとどっちがいいかな」
「どっちもイヤでは?」
実家の話が出た途端、二人が急に話題を反らした、気がした。詮索すべかきではないと、なんとなく思ってくれているらしい。そういう空気は詩歌からも感じる。彼らはみんな優しくて、そのさりげない気遣いが、時折胸をおさえたくなるくらい、苦しい。
「ねーねーミハぴはどっちがいい? ミハっちとミハぴ」
「…………?」
「日々野、ミハくん困ってるから。意味わかってねーから」
「イギリスにもあだ名ってあるのかな。んじゃミハっちで」
他愛ない、談笑。いつか静かに憧れたさざめきの中にいる自分に気がついて、嬉しいような切ないような気持ちになる。お待たせしましたと運ばれてきた三人分の蕎麦が、テーブルに乗せられていく。三つのトレイ。かすかに脂のつやめく祭さんの丼が、おもての光を反射させてきらめいた。僕は今、どこにいるんだろう。ここはどこなんだろう。そんな心地に襲われるのは、これが初めてではなかった。不確実で目眩のするほどまぶしい、目前の光景。果たしてこれは本当に僕に向けられたものなんだろうか。別の誰かの人生を追体験しているのではないのだろうか。そんなわけないのに、そんなことばかり考えて頭が回る。閃輝暗点。あの感覚に少し似ている。しんじられないくらい目のがちかちかまばゆくて、けれどその後、体が沈み込むような頭痛に襲われる、あのきらめきと鈍痛の連続。
「よし、食お。いただきます」
「いただきまーす」
「イタダキ、マス」
僕も手を二人に倣って合わせてから割り箸を割った。山かけの上のわさびを溶いて、全体に回しかける。箸使いは、日本に来る前から母に教わっていた。割り箸のやわらかな木の香り。
時折、竜也さんと祭さんの会話が挟まる。うまい? ミハくん。途中で訊かれて、頷いた。──これが別の誰かの人生でないのなら、これはきっと「ミハ」の人生なのだろう。「僕」であり、「僕」ではない、自分の影をたどるような人生だ。影ならばどこへでもゆける。光の朝にも、夜の先にも。
ほとんど全員同じタイミングで蕎麦を食べ終わって、祭さんは前言どおりに追加注文をするべくメニュー表を再び手に取った。僕も誘われたけれど断った。蕎麦湯を啜りながらテーブルの上のメニュー表を見るでもなく見ていると、デニムのポケットの中で小さな振動を感じた。取り出してもなお、マナーモードのバイブレーションは鳴り止まない。着信。
「スミマセン」
二人に軽く声をかけてから、誰もいない店の待合席に向かう。応答ボタンを押す前に、どうして深呼吸をしたのかは、自分でもよくわからなかった。
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〜公務員試験内定までのあらすじ〜
将来の夢というものを、ちゃんと持ったことがない。
趣味だとか関心のあることだとか、あんまり浮かばない。しいて言うなら、空き時間にバイトを始めてから自転車に乗るのは楽しいと思うようになった。電車ほど速くない、でも自分の足で走るほど遅くない、自転車でしか出せないあの速度感がたぶん性に合っているんだと思う。以前は電車で通っていた大学にも、雨の日以外はチャリ通いするようになった。ペダルを漕いでいる間は何も考えずにいられて、そのからっぽの感覚もたぶん好きだった。なので就活が始まってから、履歴書の趣味の項目には「サイクリング」と書けるようになった。
公務員を目指すようになったことに、だから特別な理由はなかった。とりたてて就きたい職がなかったし、なんだかんだ安定しているし。音楽プロデューサーなんていう売れてるんだか売れてないんだかわからない(恐らく売れていない)親父の仕事ぶりとか、日によっては来客がほとんどない母の仕事の現状だとか(台風の日なんてテキメンらしい)、そういう二人の背中を見て育ったから、何より「安定」を重視するようになってしまった節はあると思うけど。
民間企業も数社受けて、ありがたいことにそのうちの二社からは内定をもらえていた。とりたてて成績が優秀なわけでも人間性が素晴らしいわけでもない俺がなぜ、と思いはしたものの、内定は内定である。でも今回、そんなわけで特別区の内定をもらえたから、申し訳ないがその二社は内定辞退という形になるだろう。
両親は俺の進路が決まったことを、素直に喜んでくれた。自分が社会人になるなんて、まだあまり実感は湧かないけれど。いつか今の自分の心境を懐かしく思う日も来るんだろうか。少なくとも、今日で二十二歳になった現在地点の自分にはよくわからない。
今朝。
アイフォンのアラームで目を覚まして、いつもどおりにのそのそとベッドから立ち上がった。トイレに行くために部屋を出ようとしたとき、ふいに、机の上に見覚えのない箱を見つけた。紺色の細長い箱で、青くて細いリボンが十字にかかっていた。
包みの中に収まっていたのは、外箱と同じ紺色のネクタイだった。とりあえずトイレに寄ってから居間に行く。中途半端に開いたままのカーテンの隙間から、朝の光がこぼれている。ソファベッドの上で足をだらんとさせていびきをかいている親父を見つける。いつもはそこでミハが寝ているのに、なんで親父がいるんだろう。とりあえず垂れ下がる左足を軽く小突く。
「オヤジ」
「んあ……今日休み……」
「知ってる。おはよ。これ、親父くれたの?」
ネクタイを視界に入るように掲げると、あくび混じりにおはよぅと消えそうな声で返した親父はひとときぽかんとそれを見つめて、
「あーちがう……それ、ミハくんから」
「ミハ?」
「お前に誕生日プレゼントだって。訊かれたら言っといてってゆうべ、言ってた……」
「え、ミハは?」
親父はしょぼつく目をこすりながら、「帰った」と言った。眠たげな声で。
「かえった?」
「きのうの夜にね。急なんだけど少しの間、実家に帰ることになったみたいで」
「実家って……イギリスの?」
昨日は夜から久々にバイトを入れたのだけれど、依頼が次々ぶっ込まれて結局帰宅が夜中になってしまった。だからシャワーを浴びてからは、居間で寝ているであろうミハを起こさないようにそうっと自室に引っ込んだのだ。
「イギリスのじゃないよ。日本の、おばあさんち」
「おばーさん……」
ハーフなんだから日本に片親の実家があるのだろうとは分かっていたけれど。にしても急だなと少し思う。そうして、
「ミハ、またここに戻ってくんの?」
「用事が終わったら戻るって。二、三日はかかるのかな、わかんないけど」
「そんなデカい用なの? あ、東京じゃないとか?」
「ううん、おばあさんの家は都内。ただ少し時間がかかるかも」
ミハがまた、この家に戻ってくるのかどうか──そんなことを当然のように気にした自分に少し驚いた。
最初に耕三が連れてきたときには、元あったところに戻してこいなんて言ってた俺が。何気ない日常をくり返すだけの日々の中で、「ミハはここにいるのがあたりまえ」だと思うようになっていた、らしい。自分でも気づかないうち、いつの間にか。
「おめでとうだって。誕生日」
あの日からミハ専用のベッドになっていたソファの上で、耕三は上体を起こして軽く伸びをする。
「直接渡せなくてごめん、だって」
いやそんなの。そんなの気にしなくていいけど。用事ってなんだろう。おばーさんちってどこにあるんだろう。
俺はミハのことを、何も知らない。
「というわけで、二十二歳おめでとう、シーカ」
ローテーブルの上にあった包みを手に取りながら親父がわらう。
「せっかく誕生日なんだから。あんまり難しい顔ばっかしてないで、たのしく過ごしなね」
普段は冗談ばかり口にする親父が、そう言わずにいられないほど。どうやら俺の表情は強張っていたらしい。
親父がくれたのは、俺がたまに買うブランドのキーケースだった。黒字にペンギンのロゴが入ったそれから家の鍵を取り出して、施錠する。
榎本古書店に向かったのは、親父からネクタイ選びの経緯を聞いたからだ。なんでも、榎本と祭が選ぶのを手伝ってくれたらしい。祭は完全に面白がってのことだろうなと思いはしたものの、とりあえず礼くらい言おうと思ったのだ。少し前に借りていた漫画を返すついでということにして、榎本家への道筋をたどる。淡い青空。九月らしい初秋の風が心地よかった。
榎本家に着くと、なんとなく家の玄関ではなく書店の入口の方に足を向けた。最近は榎本家というより古書店の方に、つまりミハの様子見に、ここへ来ることが多かったからだろうか。すっかり馴染みとなったガラスの引き戸には「定休日」の下げ札が掛かっていた。ミハが店頭に立てない日は店を閉めていると聞いていたけれど、下げ札があるにも関わらず引き戸は開け放たれていた。換気のためか、はたまた、定休を知らずに来てしまったお客さんへの配慮なのか。たぶん後者じゃないかなと、親父さんの人柄を根拠に思う。
「こんちわー」
「おー斎くん! お誕生日おめでとう、あと内定も!」
店の奥で配達の用意をしていたらしい榎本の親父さんは、俺の顔を見るなり相好を崩して祝福してくれた。俺は思わず苦笑する。
「ありがとうございます。おじさんも知っててくれたんですか誕生日」
「いやいや、ダブルでお祝いなんて何よりだよ~」
「運がよかっただけですよ」
「それだけじゃないでしょー。斎くん、大学でもしょっちゅう勉強してたって達也が言ってたよ」
「代わりに落としかけた必修いくつかありましたけどね……」
ギリギリ「可」で取れたわけだが。二年までに必修の単位を取り切っていた榎本の方が、個人的にはいくらか立派だと思う。
「誰かからもらった? 誕生日プレゼント」
「親父とミハからそれぞれもらいました。ミハからのプレゼントは榎本が選ぶのに協力してくれたって聞きました」
「ああ、それでわざわざ来てくれたの? ごめんな、竜也今ちょっと店のお使い頼んでていないんだ」
「ああ、大丈夫です。本を返しに寄りたかったのもあるので」
口実となるものを持ってきておいてやっぱり正解だった。親父さんは俺の手から漫画の入った紙袋を受け取りながら「渡しとくね」と笑った。
「ミハくん、斎くんに何を贈るかここでしばらく悩んでてねえ。でもいいの見つかったって竜也から聞いたよ」
「はい、ネクタイをもらいました。年下なんだから気にしなくていいのに」
「斎くんがよくしてあげてるから何かお返ししたかったんだよ、きっと」
そう、なんだろうか。貴重なバイト代を俺の誕生日なんかに使うことなかったのに。もちろんそういう気持ちをひと回り上回って、ミハからのプレゼントは嬉しかったけれど。
「渡されたとき、ミハくん何か言ってた?」
「ああ、えっと、あいつ今日いなくて。実家帰ってるとかで、朝起きたら箱が部屋に置いてありました」
「実家?」
「はい。なんだか二、三日空けるとかで」
「ああそうか、そういえば用事ができたから三日間休みを入れたいって相談されたんだった」
まだ若いのに大変だよなあ、ご両親の命日だなんて。
続いた言葉に、心臓が一拍バクンと強く脈打った。命日。両親。
フリーズした俺には気づいていないらしい親父さんは、配達に使うらしい段ボール箱をカウンターに置いて、持って行く本を収めはじめる。いつもはミハのいるカウンター。眠たげに店番をしている色白の顔を思い起こす。
「お墓はイギリスじゃなくてこっちにあるって聞いて、少し安心したよ。ご両親もミハくんのそばにいたいだろうからね」
「そう……ですね」
少し掠れた俺の声に、親父さんは気づかなかった。親父さんは何も悪くない。俺がミハの事情を何一つ知らないことを、親父さんもまた知らないだけなのだ。
「あの、すみませんお仕事中に来ちゃって。俺このあと別の用事あるので、榎本にはまたライン入れときます」
「おお、竜也のことなら気にしなくて大丈夫だよ。ありがとうね」
店へ出るついでに、親父さんの荷物をバンの荷台に積むのを少しだけ手伝った。ありがとねえと親父さんはまた笑って、店先で別れ暇を告げる。
今晩は親父が夕飯に何か買ってきてくれると言っていたので、夕飯の買い出しはいらない。だから俺はそのまま帰路についた。駅の構内に入って、タイミングよく入ってきた上り列車の隅に立ち乗る。……何かしら、事情があることくらいは察していた。察していたし、保護者の不在も予想したことがあった。だからそこまでひどく驚いているわけじゃない。ない、けど。
ウチに来たばかりの頃、溶けない氷みたいに静かで、意思も言葉も発さなかったミハを思い出す。髪を切ってやったときのこと。ありがとうと、かすかにはにかんだベランダでの午後。
同情とか、同調とか。そういうのはきっと不要で、だからといって「ああそうなんだ」とあっさり頷けるほど淡泊にもなれなくて。車窓の先の景色が左から右へとただただ流れていくのを、浅く息をくり返しながら見ていることしかできなかった。カタンコトンと揺れる車両の揺れによく似た心地だった。いつまで経ってもふわふわと足が地につかなくて、手すりに掴まって踏ん張ることしかできない。
ミハも、そうだったんだろうか。わけがわからないまま流されて、掴まれるものに掴まって堪えているうち、ここにたどり着いたんだろうか。
最寄り駅が少しずつ近づいてくる。家を出たときはさわやかにまぶしかったはずの陽光が、無慈悲に何もかもを曝そうとする光の塊に見えた。
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さざ波の音がきこえる。
曇天の下、白いはずの砂浜は、どこかにまだ夜をかくしているかのように見えた。けれど今はすでに正午過ぎで、波もかすかに高くなりつつある気がしている。
この土地に来るのはこれで二度目だった。一度目は、去年の命日。海辺のそばの教会には敷地内に墓地が備えられていて、そこに両親の遺骨を埋葬してもらった。それが一年前の今日──九月二十日、詩歌の誕生日でもあるこの日だった。
日本においてちょうどこの時期は「ヒガン」と呼ばれる期間らしい。仏教における考え方の一つのようで、死者がいると信じられる「彼岸」、真西の方角に、太陽が沈む期間に死者を供養するのだそうだ。つまるところ、僕の両親はその彼岸のころに、言葉どおりに川を渡って去ってしまった。二年前の、今日のこと。僕の両親は一応キリスト教信者だったから、仏教の教えるところのその岸に本当にいるのかは知らないけれど。
黒い靴に砂がかかる。そろそろ祖母と数名の親戚が待つ教会墓地へと戻らなければならない。踵を返して、一人分の足跡が残る海岸を折り返す。雲の垂れこめる空に、かもめが一羽、灰を切りさくみたいに飛んでいくけれど、空の色が実際に切りさかれることは勿論ない。気が付けば、右手がいつの間にか左手首の腕時計に触れていた。足を止める。深く呼吸をくり返す。
波音が、ただ幾重にも。とどろき、はじけて、とけてゆく。──こうして暗がりの波打ち際にいると、まるで故郷の砂浜に戻ってきたような錯覚に襲われる。ここは日本で、なじみのない海岸線で。それでもこういうときに思い出す。空も海も繋がっていること。決して、ここはあの日とかけ離れた別世界などではないのだということ。
みなみ。
僕を呼ぶ、声がきこえる。いや、「呼んでいた声」。母はきっと、僕を彼女のいる岸には呼ばないだろう。誰も、この岸にはきっと誰も。僕がふたりの元へゆくことを、ゆるしてくれるひとはいない。
美波 ・L・Meredith──これが、僕の名前。
光の朝にも夜の先にも帰れずに、この岸で今も一人、ぼやけた世界に立ちすくんだままの。ある日突然世界に置き去りにされた、こどもの名前だ。
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